無能な計測係、追放される
本作は完結まで原稿完成済みです。
初日は第1話〜第3話まで連続公開し、以降は毎日20時10分に更新予定です。
追放された品質管理官が、廃村から魔法文明の欠陥を直していく物語です。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
「ルカ・オルメイン。君を、本日付で王立錬金術院から除名する」
その言葉は、王立錬金術院の第一講堂に冷たく響いた。
壇上に立つ院長バルド・レイヴンは、俺を見下ろしている。
銀糸で縁取られた白衣。王宮から授けられた勲章。太い金の指輪。
どれも、この男が王国最高峰の錬金術師であることを示すものだ。
講堂には、錬金術師たちが並んでいた。
研究主任。技官。見習い。貴族出身の若い錬金術師。
そのほとんどが、俺の処分を聞いても驚いていなかった。
むしろ、当然だという顔をしている。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
俺はできるだけ平静に言った。
声を荒らげても意味はない。
ここは王立錬金術院だ。
正しいかどうかより、誰が決めたかのほうが重い場所だった。
バルド院長は、薄く笑った。
「昨日の大型浄化炉暴走事故だ」
講堂の空気が、少しだけざわついた。
昨日、第三実験棟に設置されていた大型浄化炉が暴走した。
炉心の魔力圧が規定値を超え、循環管が破裂し、薬液槽の三つが焼けた。
幸い死者はいなかったが、第三実験棟の半分は使用不能になっている。
だが、事故は予見できた。
少なくとも、俺は予見していた。
「その件でしたら、稼働前検査で警告を出しました。第七循環輪の刻印角に誤差があり、魔力が循環せず滞留する危険があると」
俺は懐から一枚の控えを取り出した。
「三日前に提出した報告書です。稼働停止、再刻印、炉心の冷却検査を推奨しました」
バルド院長は、控えを見ることすらしなかった。
「また誤差か」
その一言で、講堂の端から小さな笑いが漏れた。
「君はいつもそうだな、ルカ君。何を見ても誤差。どこを調べても誤差。どれだけ研究が進んでいても、君は赤線を引いて止めようとする」
「危険な誤差だったからです」
「危険かどうかを決めるのは君ではない」
院長の声が、低くなった。
「君は錬金術師ではない。品質管理官という名の、ただの計測係だ。魔石を精製できるわけでもない。霊薬を調合できるわけでもない。魔導兵装を作れるわけでもない。ただ測り、記録し、他人の成果に難癖をつけるだけの男だ」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
言われ慣れた言葉だった。
だが、慣れたからといって、痛まないわけではない。
俺は王立錬金術院で七年間働いた。
毎朝、炉心温度を測った。
薬液の濃度を測った。
魔法陣の刻印角を測った。
結界石の劣化率を測った。
魔力管の圧力差を記録した。
そして、危険なズレを見つけたら報告した。
俺には、ズレが見える。
物や魔法陣に潜む、本来あるべき形からの誤差。
普通の人間には滑らかな線に見える刻印でも、俺には赤い亀裂のように見えることがある。
誰も異常なしと判断した薬液でも、俺には沈殿する不純物の筋が見えることがある。
それが俺のスキル、【修正眼】だった。
だが、その力は派手ではない。
炎を放つわけではない。
鉄を金に変えるわけでもない。
傷を一瞬で癒やすわけでもない。
ただ、壊れる前のズレが見えるだけ。
だから俺は、こう呼ばれていた。
誤差しか見えない無能。
「院長」
俺はもう一度、報告書の控えを掲げた。
「報告書には、提出印があるはずです。確認してください。事故の原因は、稼働前に指摘した箇所と一致しています」
「提出印?」
バルド院長は、壇上の机から一枚の羊皮紙を取り上げた。
「これのことかね」
それは、俺が提出した報告書の原本だった。
表題も、日付も、俺の署名もある。
だが、右下にあるはずの院長確認印だけがなかった。
いや、違う。
俺には見えた。
羊皮紙の右下。
繊維がわずかに削られている。
そこに、薄く赤い線が走っていた。
インクを剥がした跡だ。
提出印が、消されている。
「……院長、その報告書は」
「確認印がない。つまり、正式な報告書ではない」
バルド院長は、静かに言った。
「君が事故後に作ったものではないと、誰が証明する?」
講堂のざわめきが消えた。
何人かは目を逸らした。
何人かは、何も聞こえなかったふりをした。
わかった。
全員が知っているわけではない。
だが、少なくとも院長は知っている。
報告書は握り潰された。
その上で、事故の責任を俺に押しつけるつもりなのだ。
「俺は、三日前に提出しました」
「証拠は?」
「控えがあります」
「控えなど、いくらでも作れる」
バルド院長は報告書を机に戻した。
「そもそも、君の警告はいつも過剰だ。研究の進行を遅らせ、成果を妨げる。錬金術院に必要なのは、未来を切り開く錬金術師であって、誤差ばかり見て怯える者ではない」
そこで、若い錬金術師の一人が笑った。
「誤差しか見えないんだから仕方ないですよ」
別の誰かが続けた。
「無能な計測係に炉を任せたのが間違いだったんだ」
「事故の前に逃げ道を作るのは上手いな」
言葉が降ってくる。
俺は何も返さなかった。
反論すればするほど、惨めになる。
この場では、事実が事実として扱われない。
バルド院長は、処分書を広げた。
「除名に加え、王立機関の懲戒処分として、君には辺境開拓補助任務を命じる。行き先は北東辺境、旧リーベル村」
旧リーベル村。
その名前は、資料で見たことがある。
十年前に水源が枯れ、放棄された村だ。
街道から外れ、近くに大きな鉱山もなく、商業価値も低い。
地図上ではまだ村として残っているが、実態は廃村に近い。
「開拓補助任務……ですか」
「そうだ。君のような人間でも、荒れ地の記録係くらいには使えるだろう」
また笑いが起きた。
「出立は明朝。私物は今日中に整理したまえ。なお、研究記録、検査台帳、測定器具のうち院の備品にあたるものは持ち出しを禁じる」
それは当然の規則だった。
だが、バルド院長の目は、俺の手元の革表紙のノートを見ていた。
俺が普段から持ち歩いている私物の記録帳だ。
仕事の正式記録ではない。
ただ、見えた赤線や、危険な誤差の傾向を自分用に書き留めたもの。
バルド院長は、それを欲しがっている。
「私物の記録帳も、確認されますか」
俺がそう尋ねると、院長は一瞬だけ目を細めた。
「必要があればな」
「これは私物です。院の備品ではありません」
「君はまだ自分の立場を理解していないようだ」
バルド院長は俺に近づいた。
そして、他の者には聞こえない程度の声で言った。
「ルカ君。君が見た誤差など、君がいなくてもいずれ誰かが見つける。だが、君の報告書が外に出れば、院の信用に傷がつく。余計なことは考えるな」
「事故の原因を隠すつもりですか」
「事故の原因は、君の過失だ」
「違います」
「違うかどうかを決めるのも、君ではない」
院長は俺の肩に手を置いた。
指輪が、肩の骨に当たる。
「辺境で静かに暮らしたまえ。誤差しか見えない君には、ちょうどいい場所だ」
俺は、その手を振り払わなかった。
振り払えば、処分が重くなるだけだ。
今の俺に守れるものは、もう多くない。
「……承知しました」
俺は頭を下げた。
講堂を出るまで、誰も声をかけてこなかった。
長い廊下に出ると、冬の光が大理石の床に落ちていた。
壁には歴代の大錬金術師の肖像画が並んでいる。
この場所に入ったばかりの頃、俺はそれらを見上げて胸を躍らせた。
誰かを救う技術を作りたかった。
水のない村に水を戻す装置を作りたかった。
毒で汚れた土地を浄化する炉を作りたかった。
だが、俺に任されたのは、いつも測定だった。
最初は不満だった。
けれど、測定の仕事を続けるうちにわかった。
大きな事故は、突然起きるわけではない。
必ず前兆がある。
少しだけ高い圧力。
少しだけ薄い薬液。
少しだけ歪んだ刻印。
少しだけ遅い魔力の流れ。
皆が「その程度」と見逃す小さなズレが積み重なり、ある日、炉を焼き切る。
だから俺は、誤差を記録した。
嫌われても、笑われても、止めるべきものは止めた。
その結果が、これだ。
研究室に戻ると、俺の机はすでに荒らされていた。
引き出しは開けられ、測定記録はまとめて抜き取られている。
院の備品である測定器具は持ち去られ、私物だけが木箱に放り込まれていた。
羽ペン。
欠けた定規。
安物の小型魔石灯。
古い作業手袋。
着替え。
そして、革表紙の記録帳。
それだけは、机の裏に貼りつけていた布袋の中に残っていた。
俺は記録帳を取り出し、上着の内側にしまった。
院長が欲しがったのは、おそらくこれだ。
正式報告書には書けないことが、この帳面には残っている。
炉の癖。
薬品庫の湿度異常。
結界石の劣化傾向。
そして、昨日の大型浄化炉に走っていた赤線の詳細。
持っていくべきか、一瞬迷った。
王都の事故を防ぐためには、ここに置いたほうがいいのかもしれない。
だが、置いていけば握り潰される。
改竄される。
あるいは、俺の名前だけが消され、院長の成果になる。
俺は記録帳を強く押さえた。
「これは、俺の記録だ」
誰に聞かせるわけでもなく、そう呟いた。
翌朝、王都の北門に用意されていたのは、古い荷馬車だった。
護衛はいない。
同行者もいない。
渡されたものは、片道の通行証、銀貨三枚、旧リーベル村の地図。
それだけだった。
御者の老人は、俺の木箱を荷台に載せながら言った。
「兄ちゃん、あんた何をやらかしたんだ」
「炉を壊したことになっています」
「本当に壊したのか?」
「いいえ」
「なら、運が悪かったな」
老人は軽く笑った。
慰めにもならない言葉だったが、不思議と嫌な気はしなかった。
少なくとも、この老人は俺を笑いものにはしていない。
馬車が動き出す。
王都の石畳が遠ざかり、白い城壁が背後へ流れていく。
高い尖塔。銀色の屋根。王立錬金術院の時計塔。
七年間働いた場所だった。
それなのに、胸に残ったものは怒りよりも空虚さだった。
俺の机は、木箱一つぶんだった。
俺の功績は、報告書から消された。
俺の警告は、事故の責任に変えられた。
なら、あそこは俺の居場所ではなかったのだろう。
馬車は三日かけて北東へ進んだ。
一日目は整備された街道。
二日目は石の少ない土道。
三日目には、人家もまばらになり、道端の標識も古びて読みにくくなった。
旧リーベル村の地図を広げる。
村の中央に井戸が一本。
北の森の入り口に井戸が一本。
南の畑のそばに井戸が一本。
三本の井戸が、十年前にほぼ同時に枯れた。
記録にはそうある。
俺は地図を見ながら、眉を寄せた。
三本同時に枯れる。
あり得ないとは言わない。
地下水脈が大きく変わったなら、可能性はある。
地震、山崩れ、地脈の変動。
だが、周辺地形を見る限り、リーベル村は水が集まりやすい場所にある。
北には森。
西には低い丘陵。
南には古い畑の跡。
水が完全に消えるには、何か別の理由が必要だ。
そこまで考えて、俺は地図を閉じた。
「悪い癖だな」
まだ見てもいない村の異常を考えている。
王立錬金術院では、それで嫌われた。
細かすぎる。
大げさだ。
研究の邪魔だ。
そう言われ続けた。
だが、考えるのをやめることはできない。
誤差が見えるなら、見てしまう。
見えてしまったなら、原因を考えてしまう。
三日目の夕方、馬車は旧リーベル村に着いた。
そこは、地図よりもずっと寂れていた。
入口の柵は倒れ、村名を刻んだ木札は半分腐っている。
畑は雑草に飲まれ、家々の屋根は落ち、窓には板が打ちつけられていた。
風が吹くたび、どこかの壊れた扉がきしんだ。
人の気配は、ほとんどない。
村の中央には、石組みの井戸があった。
その周囲だけ、土が白く乾いている。
まるで、井戸が最後の水気まで吸い尽くしたように。
「着いたぞ、兄ちゃん」
御者が荷台から木箱を下ろした。
「帰りは明日の朝だ。俺は宿……と言っても、屋根の残ってる家で寝る。あんたはどうする?」
「まず、村の状態を見ます」
「こんな廃村をか?」
「そういう任務ですから」
老人は肩をすくめた。
「火は絶やすなよ。北の森から狼が来る。あと、井戸は覗くだけ無駄だ。十年前から枯れてるって聞いた」
「わかりました」
老人が去ると、村は静かになった。
夕日が傾き、壊れた家々の影が長く伸びる。
俺は木箱を井戸のそばに置いた。
まずは寝床の確保。
次に火。
それから水。
水。
俺は中央の井戸を見た。
枯れた井戸。
この村が捨てられた理由。
覗いても無駄だと御者は言った。
公式記録にも、そう書いてある。
だが、俺は井戸へ近づいた。
石組みは古い。
表面は乾き、苔もほとんど残っていない。
ただの井戸なら、特に調べる必要はない。
そう思った瞬間だった。
視界の端に、赤い線が走った。
「……え?」
俺は足を止めた。
赤線は、井戸の石組みに沿って走っている。
ひび割れではない。
風化でもない。
もっと深い。
石の内側、目に見えない魔力の流れの上に、赤い亀裂が浮かんでいる。
俺は井戸の縁に手を置いた。
その瞬間、赤線が増えた。
一本ではない。
何十本もの細い赤線が、井戸の内壁を螺旋状に下っている。
さらに、その奥に青い線が見えた。
青線。
修正の順序を示す線だ。
「ただの井戸じゃない」
俺は小型魔石灯を取り出し、井戸の中を照らした。
光は深い闇に吸い込まれた。
水面は見えない。
底も見えない。
だが、内壁に刻まれた模様が一瞬だけ浮かんだ。
古い魔法陣。
井戸の内側に、びっしりと刻まれている。
年月で摩耗し、土と白い結晶に覆われていたが、完全には消えていない。
これは水を汲むだけの井戸ではない。
地下水と魔力水脈を調整するための古代式制御井だ。
王立錬金術院の資料で見たことがある。
ただし、現存するものは王都周辺にもほとんどないとされていた。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。
「枯れてない」
声が漏れた。
井戸の底に、水は見えない。
だが、魔力の流れは完全には死んでいない。
赤線が示しているのは、断絶ではなく詰まりだ。
内壁の制御陣に付着した白い結晶が、魔力流路を塞いでいる。
そのせいで、地下の水脈が上がってこられない。
この井戸は枯れたのではない。
詰まっているだけだ。
俺は木箱を開けた。
欠けた定規。
小さな鑿。
作業手袋。
古い布。
針金。
魔石灯。
王立錬金術院の高価な測定器具はない。
だが、応急確認ならできる。
俺は井戸の縁に腰を落とし、内壁の赤線を目で追った。
全部を直すのは無理だ。
道具も足りない。時間もない。
無理に削れば、古い制御陣そのものを壊すかもしれない。
だから、最初の一点だけでいい。
青線が最初に示している場所。
井戸の縁から三段下、右側の石。
そこに、親指ほどの白い結晶が付着している。
俺は針金の先を曲げ、慎重に結晶へ当てた。
力を入れすぎるな。
石を削るな。
刻印を傷つけるな。
白い結晶の縁に、細い赤線がある。
そこが剥離点だ。
俺は息を止めた。
針金を差し込み、ゆっくりと動かす。
ぱき、と小さな音がした。
結晶の一部が剥がれた。
その瞬間、井戸の奥で何かが震えた。
低い音だった。
風ではない。
石の鳴る音でもない。
もっと深い場所から、水脈が目を覚ますような音。
俺は魔石灯をさらに奥へ向けた。
赤線の一部が消えている。
代わりに、青白い光が井戸の底でかすかに揺れた。
「動いた」
完全復旧ではない。
詰まりの表層を剥がしただけだ。
だが、流れは戻り始めている。
俺はもう一度、青線を追った。
次に触るべき場所は、さらに下。
今の道具では届かない。
無理をすれば井戸の内壁に落ちる危険がある。
ここで止めるべきだ。
そう判断した瞬間、井戸の底から音がした。
ぽちゃん。
小さな音だった。
けれど、それは聞き間違いではない。
水の音だった。
十年前に枯れたはずの井戸の底で、一滴の水が落ちた。
俺は井戸の縁に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
王都では、俺の警告は無視された。
報告書は消された。
誤差しか見えない無能だと笑われた。
だが、この井戸は違う。
見えた誤差を直せば、結果が返ってくる。
誰かの許可も、院長の印もいらない。
赤線は消え、水は落ちた。
「……直せる」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが変わった。
俺は追放された。
王立錬金術院から捨てられた。
だが、ここには壊れた井戸がある。
枯れた村がある。
まだ死んでいない水脈がある。
なら、俺にできることはある。
その時だった。
背後の壊れた家の陰から、かすかな声がした。
「……みず?」
振り返ると、崩れかけた扉の隙間に、小さな影が立っていた。
痩せた少女だった。
大きな布を肩にかけ、頬はこけ、唇は乾いている。
その目だけが、井戸をまっすぐ見ていた。
俺は少女を見て、それから井戸を見た。
井戸の底で、もう一度、小さな水音が鳴る。
ぽちゃん。
少女の目が、大きく見開かれた。
十年ぶりに、旧リーベル村の井戸が水音を立てていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次回、第2話「枯れ井戸を直しただけですが、村人に泣かれました」。旧リーベル村に残っていた少女と老人、そして枯れ井戸の本格修復を描きます。




