辺境騎士エルシア、廃村の水を疑う
第4話です。
旧リーベル村に戻った水音を、村人でも王都の人間でもない第三者が初めて確かめます。
旧リーベル村に十年ぶりの水音が戻った翌朝、俺は井戸のそばで目を覚ました。
正確には、眠ったというより、何度か意識が落ちただけだった。
夜の間、中央井戸の水音は止まらなかった。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
その間隔が急に早くなっていないか。
逆に遅くなっていないか。
内壁の制御陣に負荷がかかっていないか。
俺は一刻ごとに井戸を覗き、魔石灯で水面を照らし、記録帳に音の間隔を書きつけていた。
王立錬金術院にいた頃なら、こういう記録は提出用の検査台帳に書いた。
そして大抵、読まれなかった。
今は違う。
この記録は、旧リーベル村の井戸を守るためのものだ。
誰かに認めさせるためではなく、次に何を直すかを間違えないために書いている。
「お兄さん、寝てないの?」
背後から声がした。
振り返ると、ミラが家の戸口に立っていた。
昨夜より顔色は少し良い。頬のこけ方は変わらないが、目に力が戻っている。
「少しは寝た」
「それ、寝たって言わないっておじいちゃんが言ってた」
「ガイさんは正しい」
ミラは小さく笑い、手に持っていた木皿を差し出した。
皿には、硬い黒パンの欠片と、薄く切った干し肉が乗っている。
「朝ごはん。おじいちゃんが、井戸のお医者さんに食べさせろって」
「貴重な食料だろう」
「お水を戻してくれた人が倒れたら困るから」
そう言われると、断れなかった。
俺は木皿を受け取り、黒パンをかじった。
硬い。歯に響くほど硬い。
だが、水で少し湿らせると、どうにか喉を通った。
水がある。
それだけで、同じ黒パンでも食べ物になる。
その事実を、俺は今さら知った。
「中央井戸はどう?」
ミラが井戸を覗き込もうとする。
「近づきすぎるな。昨日も言ったが、まだ不安定だ」
「うん。勝手に飲まない」
ミラは真面目にうなずいた。
俺は魔石灯を井戸の中へ向ける。
水面は、昨日よりわずかに高くなっていた。
しかし、十分な量ではない。底に薄く水が張った程度だ。
井戸として使うには、まだあまりにも頼りない。
赤線は残っている。
内壁の白色結晶は、表層を剥がしただけだ。奥ではまだ魔力流路が詰まっている。
ただ、青線は昨日よりも明確だった。
中央制御環。
北森流路。
南畑流路。
西へ伸びる不明流路。
この四つの関係を間違えれば、せっかく戻った水をまた止める可能性がある。
「完全復旧には、やはり三日ほどかかる」
「三日で、本当にたくさん出る?」
「中央井戸だけなら、飲み水には使える量まで戻せると思う。ただし、北と南はまだわからない」
「北森井戸と、南畑井戸?」
「ああ」
「南畑井戸が戻ったら、畑も戻る?」
ミラの声に、期待が混ざった。
俺はすぐには答えなかった。
畑を見ていない。土の状態も、薬草の根も、水路も確認していない。
安易に期待させるべきではない。
「見てから判断する」
「お兄さん、すぐに大丈夫って言わないね」
「大丈夫かどうかは、確認してから言うものだ」
「王都の人もそうだった?」
「いや」
俺は井戸の縁から手を離した。
「王都では、確認する前に大丈夫と言う人のほうが偉かった」
ミラは意味がわからなかったのか、首を傾げた。
その時だった。
村の入口のほうで、金属の触れ合う音がした。
かしゃん。
ミラの体が強ばる。
俺は木箱のそばに置いていた針金と小さな鑿へ目を向けた。
武器にはならない。だが、手ぶらよりはましだ。
倒れた柵の向こうから、一頭の馬が入ってくる。
灰色の外套をまとった騎士が、その背に乗っていた。
年は二十代半ばほど。
薄い金髪を後ろで束ね、腰には片手剣。胸元には辺境警備隊の紋章。
王都の儀礼騎士のような飾りはない。鞍も外套も使い込まれている。
だが、姿勢に隙はなかった。
騎士は村の中央で馬を止め、まず井戸を見た。
次に、井戸の周囲の濡れた土を見た。
そして最後に、俺を見た。
「そこから離れてください」
女の声だった。
低く、よく通る。
「私は辺境警備隊所属、エルシア・グランツ。旧リーベル村の巡回中です。あなたは何者ですか」
ミラが俺の後ろに隠れる。
俺は両手を見える位置に出した。
「ルカ・オルメインです。王都から、旧リーベル村の辺境開拓補助任務で派遣されました」
「王都から?」
エルシアと名乗った騎士の眉が動いた。
「通行証を」
「鞄の中です。取っても?」
「ゆっくり」
言われた通り、ゆっくり鞄を開ける。
王都北門で渡された通行証を取り出し、彼女へ差し出した。
エルシアは馬から降り、通行証を受け取った。
目を走らせる。
「王立錬金術院……除名処分者。辺境開拓補助任務。旧リーベル村駐在」
彼女の目が鋭くなる。
「除名処分者が、廃村の井戸のそばで何をしているんです」
「井戸の応急修理です」
「この井戸は十年前に枯れたはずです」
「枯れていませんでした。魔力流路が詰まっていただけです」
エルシアはすぐには返事をしなかった。
代わりに、井戸の縁へ近づく。
「近づきすぎないでください」
俺は思わず言った。
彼女の手が剣の柄へ動く。
「私に命令を?」
「警告です。内壁の制御陣がまだ不安定です。体重を縁にかけると、石組みが崩れる可能性があります」
「制御陣?」
「この井戸は、ただの井戸ではありません。地下水と魔力水脈を調整する古代式制御井です」
「古代式……」
エルシアの表情が、さらに険しくなった。
「無許可で古代設備に手を入れたのですか」
「放置すれば、今夜にも水が止まる可能性がありました」
「それを判断したのは、あなた一人ですね」
「はい」
「危険な魔法操作を行った自覚はありますか」
「あります。だから、応急修理に留めました。完全復旧には手順を確認しながら三日かけます」
自分で言いながら、王都で処分を受けた時のことを思い出した。
危険を報告する。制限を説明する。必要な手順を示す。
それでも聞かれなかった。
エルシアは黙って俺を見ていた。
嘘か本当かを見極めようとしている目だ。
やがて、彼女は井戸のそばの湿った土を指差した。
「この水は飲ませたのですか」
「はい。ただし、最初の水は捨てました。二度目に汲んだ水を少量ずつ。ミラとガイさんは水不足で弱っていました」
「ミラ」
エルシアが少女の名を呼んだ。
ミラは俺の後ろから少しだけ顔を出した。
「エルシアさん……」
「知り合いか」
俺が尋ねると、ミラはうなずいた。
「巡回の騎士さん。たまに干し肉くれる」
「職務上の支援です」
エルシアは短く言った。
だが、その声は先ほどより少しだけ柔らかい。
「ミラ。水を飲んだのね」
「うん。冷たかった」
「体は痛くない? 気分は悪くない?」
「ない。おじいちゃんも飲んだ。少し元気になった」
エルシアは眉を寄せた。
彼女は俺よりも、ミラの顔色をよく知っているのだろう。
昨夜より回復していることに気づいたらしい。
「水を検査します」
「お願いします」
俺はすぐに答えた。
エルシアは一瞬、意外そうな顔をした。
「止めないのですか」
「止める理由がありません。むしろ、第三者に確認してもらえるなら助かります」
王都では、俺の検査結果は疑われた。
なら、疑われた時にやるべきことは一つだ。
別の方法で確認する。
俺は昨夜使った金属杯を洗い、井戸から少量の水を汲んだ。
エルシアは腰の小袋から小さな白い石を取り出す。
「簡易水質石です。毒、腐敗、強い魔力汚染に反応します」
「辺境警備隊で使うものですか」
「井戸や沢の水を確かめるために。完璧ではありませんが、危険な水なら色が変わります」
彼女は水質石を杯に落とした。
白い石が水底へ沈む。
俺の目には、石の周囲に薄い白線が見えた。
反応は安定している。赤線はない。
数呼吸の間、誰も喋らなかった。
やがて、水質石は白いままだった。
エルシアは杯を持ち上げ、光に透かした。
「変色なし……」
「飲用は可能です。ただし、水量が安定するまでは量を制限してください」
「あなたがそれを言うのですね」
「はい」
「普通、怪しい者は“いくらでも飲める”と言います」
「いくらでもは無理です。今は井戸底に薄く戻っただけです。制御陣が安定するまでは、汲みすぎると再閉塞する恐れがあります」
エルシアは俺をじっと見た。
「ずいぶん慎重ですね」
「慎重でなければ、炉は壊れます」
「井戸の話では?」
「井戸も同じです」
彼女は少しだけ目を細めた。
納得したのか、不審が深まったのかはわからない。
その時、家の中からガイ老人の声がした。
「エルシア殿か」
ミラが振り向く。
「おじいちゃん、起きちゃだめ」
「客人を寝たまま迎えるわけにもいかん」
ガイ老人は戸口まで出てきた。
昨日より顔色はましだが、まだ立っているだけで苦しそうだ。
エルシアはすぐに姿勢を正した。
「ガイさん。無理をしないでください」
「無理ではない。十年ぶりに水を飲んだ。少しは人間に戻った気分だ」
エルシアの表情が揺れた。
「本当に、井戸の水なのですね」
「ああ。リーベルの水だ。わしが間違えるはずがない」
「この人が、直したと?」
ガイ老人は俺を見た。
「応急修理だそうだ。本人はそう言っておる」
「応急で、十年枯れていた井戸が鳴るのですか」
「わしもそう思う。だが、鳴っている」
井戸の底で、水音がした。
ぽちゃん。
まるで、話に応えるようだった。
エルシアはその音を聞いた。
それから、ゆっくりと井戸へ視線を戻す。
「ルカ・オルメイン」
「はい」
「あなたが王都で何をしたか、私はまだ知りません。通行証には除名処分とある。つまり、あなたは問題を起こした人間としてここへ来ています」
「その通りです」
「認めるのですか」
「通行証にそう書かれていることは認めます。俺が事故を起こしたという意味なら、違います」
「では、なぜ追放されたのです」
「事故の前に危険を報告しました。その報告書が、なかったことにされました」
エルシアの目が細くなった。
「証拠は?」
「控えと、私物の記録帳があります。ただし、王立錬金術院が正式に認めるかはわかりません」
「自分に都合のよい記録ではないと?」
「そう疑うのは当然です」
エルシアは少しだけ黙った。
「当然、と言えるのですね」
「検査は、疑うところから始めます」
「騎士の尋問も似たようなものです」
初めて、彼女の声から少しだけ棘が抜けた。
だが、警戒が消えたわけではない。
エルシアは井戸の縁に腰を落とし、石組みを見た。
「私には、ただ古い井戸にしか見えません」
「普通はそうだと思います」
「あなたには、何が見えているのですか」
俺は答えに迷った。
赤線。青線。黄線。白線。
本来あるべき状態からのズレ。
修正すべき順序。
それを正直に言えば、王都では笑われた。
誤差しか見えない無能、と。
だが、ここで隠しても意味はない。
「俺には、壊れる前のズレが見えます」
「ズレ?」
「井戸なら、魔力流路の詰まり。薬液なら、不純物の筋。炉なら、圧力が逃げない場所。人によっては、誤差と呼びます」
「誤差」
エルシアはその言葉を繰り返した。
「それで、井戸を直した?」
「直したというより、詰まりを少しだけ取りました。まだ直ったとは言えません」
「では、他のものにも見えるのですか」
「対象によります」
その時、俺の視界に赤い線が走った。
井戸ではない。
エルシアの腰にある剣だった。
柄元。鍔のすぐ下。
革巻きに隠れた部分に、細い赤線がある。
俺は思わず眉を寄せた。
「その剣」
エルシアの手が、即座に柄へ移る。
「何ですか」
「鍔元に亀裂があります。強く振ると、折れる可能性が高い」
空気が冷えた。
ミラが俺の袖をつかむ。
「お兄さん」
彼女の声には、余計なことを言ったのではないか、という不安があった。
俺もそう思った。
だが、見えてしまったものは放っておけない。
エルシアは低い声で言った。
「私の剣に触れましたか」
「触れていません」
「では、なぜわかるのです」
「見えたからです」
「また、ズレですか」
「はい」
エルシアは俺を見据えた。
そのまま数秒。
やがて彼女は剣を抜いた。
鈍い銀色の刃だった。
飾り気はないが、手入れは行き届いている。
ただ、鍔元の内部に赤線が残っている。
「この剣は、辺境に赴任してからずっと使っています。昨日も魔狼を一体斬りました。異常はありませんでした」
「昨日の一撃で亀裂が入った可能性があります」
「見てもいないのに?」
「はい」
「断言するのですね」
「危険な状態です」
エルシアは近くにあった倒れた柵柱へ向かった。
「なら、確かめます」
「強く振らないでください」
「折れると言ったのはあなたです」
「折れると危険だから止めています」
エルシアは一瞬、こちらを見た。
それから、剣の腹を柵柱に軽く当てる。
かん。
澄んだ音ではなかった。
鈍く、割れた音がした。
エルシアの表情が変わる。
彼女は剣を光にかざした。
鍔元の革巻きの下から、わずかに金属粉が落ちる。
俺には、赤線が少しだけ太くなったように見えた。
「二度目はやめてください」
俺は言った。
「次に斬撃を受ければ、根元から折れます」
エルシアは剣を見つめたまま、黙っていた。
やがて、ゆっくりと剣を鞘に戻す。
「……鍛冶屋に見せます」
「それがいいです。今は予備の短剣を使ってください」
「なぜ予備の短剣を持っていると?」
「左腰の鞘に赤線がありません」
エルシアは左腰を見た。
そして、深く息を吐いた。
「あなたは、失礼な人ですね」
「すみません」
「ですが、嘘を言っているようには見えない」
その言葉に、ミラがぱっと顔を明るくした。
「エルシアさん、井戸のお医者さん、悪い人じゃないよ」
「ミラ。悪い人かどうかは、もう少し見てから判断します」
「でも、お水くれた」
「それは事実です」
「おじいちゃんも元気になった」
「それも事実です」
エルシアは俺へ向き直った。
「事実が二つあります。一つ、この井戸は水を出した。二つ、あなたは私の剣の異常を見抜いた」
「はい」
「そして疑問が三つあります。一つ、なぜ十年枯れた井戸を応急とはいえ動かせたのか。二つ、あなたが王都で本当に何をしたのか。三つ、この村の水源枯渇が自然現象ではないのなら、何が原因なのか」
俺は記録帳を握った。
「俺も、その三つを知りたい」
エルシアは少しだけ目を伏せた。
「なら、私は今日の巡回を延長します」
「延長?」
「旧リーベル村に一晩滞在します。理由は、復旧した井戸水の安全確認、不審な王都派遣者の監視、そしてミラとガイさんの保護」
監視。
はっきりそう言われた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「妥当な判断だと思います」
「あなたに認められる必要はありません」
「それも妥当です」
エルシアは一瞬、返事に困ったような顔をした。
ガイ老人が、戸口でかすかに笑った。
「エルシア殿。ルカさんは、少々言い方が報告書のようなだけです」
「そのようですね」
「悪気はない」
「それは見ればわかります。悪気のある者は、もっと上手く話します」
俺は否定できなかった。
エルシアは馬の鞍から布袋を下ろした。
携帯食、予備の水質石、簡易毛布、短い筆記具。
巡回慣れした荷物だった。
「井戸の周辺に立ち入り線を作ります。ミラが近づかないように」
「助かります」
「それと、あなたの作業を見ます」
「作業は午後からです。午前中は井戸の水量を記録し、ガイさんから北森井戸と南畑井戸の位置を聞きます」
「では、それも見ます」
「監視ですね」
「監視です」
エルシアはきっぱりと言った。
その後、俺たちは井戸の周囲に古い杭と縄を張った。
縄は水番小屋に残っていたものの中から、まだ切れにくい箇所だけを選んで使った。
エルシアは俺が縄を一本ずつ確認するのを見て、何度か怪訝そうにした。
「その縄も、見えるのですか」
「切れる場所は見えます」
「便利ですね」
「便利な時もあります。不便な時も多いです」
「なぜ」
「見えているのに、止められないことがあるからです」
エルシアはそれ以上聞かなかった。
昼前、井戸の水音は安定し始めた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
間隔は昨日より短いが、急激ではない。
内壁の赤線も少しだけ薄くなっている。
俺は記録帳に書き込んだ。
『中央井戸、水音安定。水質石反応なし。外部確認者、辺境警備隊エルシア・グランツ。剣の鍔元に亀裂あり。修理推奨』
「私の剣のことまで書くのですか」
背後からエルシアの声がした。
「危険箇所なので」
「私の許可は」
「個人名を伏せたほうがいいですか」
「そういう問題では……いえ、もういいです」
エルシアは諦めたように息を吐いた。
そして、井戸の底を見た。
「本当に、水が戻ったのですね」
「まだ、戻り始めただけです」
「それでも、十年前には誰も戻せなかった」
「戻そうとしなかったのかもしれません」
言ってから、少し強すぎたと思った。
だが、エルシアは否定しなかった。
「王都の調査員が、この村の井戸番の記録を持ち去ったと聞きました」
「ミラから聞いたのですか」
「はい」
「私も詳しくは知りません。ただ、十年前の調査以降、この村は正式に放棄扱いになりました。辺境警備隊の記録にも、水源枯渇、住民移転推奨、とだけあります」
「移転した人たちは」
「全員を追跡できてはいません」
その声には、悔しさがあった。
エルシアもまた、この村をただの廃村とは思っていなかったのだろう。
だが、騎士一人にできることには限界がある。
俺は井戸を見た。
「まずは、中央井戸を安定させます」
「その後は?」
「北森井戸、南畑井戸を確認します。それから、西へ伸びる不明流路の調査です」
「西?」
「地図にはない流路が見えました」
エルシアの表情が引き締まる。
「西には低い丘陵しかありません。古い街道跡もない」
「だから、気になります」
「危険は?」
「あります」
「あなたは、危険がありますと平然と言うのですね」
「危険があるのに、ないと言うほうが危険です」
エルシアは黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「確かに」
初めて、彼女が笑ったように見えた。
その直後、北の森から狼の遠吠えが聞こえた。
ミラがびくりと肩を震わせる。
エルシアは反射的に剣へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
自分の剣が危険だと、今は知っているからだ。
代わりに、左腰の短剣へ手を置く。
「今夜は火を絶やさないでください」
「御者にも同じことを言われました」
「正しい助言です」
「狼は村まで来ますか」
「水の匂いに寄る可能性があります。十年枯れていた村に水が戻れば、獣も気づきます」
水が戻る。
それは、良いことばかりではない。
人が来る。
獣も来る。
そして、おそらく王都の目もいつか向く。
俺は井戸の赤線を見た。
直すべきものは、井戸だけではなさそうだった。
エルシアは水質石を布で拭き、小袋へ戻した。
「ルカ・オルメイン」
「はい」
「私はまだ、あなたを信用したわけではありません」
「わかっています」
「ですが、今日見た事実は報告します。旧リーベル村の中央井戸に水音が戻ったこと。ミラとガイさんの体調が改善したこと。あなたが、私の剣の亀裂を見抜いたこと」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。報告は騎士の仕事です」
「それでも、記録が残るのは助かります」
エルシアは俺の記録帳を見た。
「あなたは記録にこだわるのですね」
「記録がなければ、なかったことにされます」
口にした瞬間、院長室の光景がよみがえった。
確認印を消された報告書。
なかったことにされた警告。
俺の過失にされた事故。
エルシアは、何かを察したように目を細めた。
「王都で、そうされたのですか」
俺は答えなかった。
答えなくても、十分だったのかもしれない。
エルシアは静かに言った。
「では、私も記録します」
彼女は小さな手帳を取り出し、筆を走らせた。
『旧リーベル村、中央井戸に水音あり。水質石に危険反応なし。派遣者ルカ・オルメイン、井戸構造に異常な知見を有する。要監視。ただし、現時点で村人への害意は認めず』
最後の一文を見て、ミラが首を傾げた。
「害意ってなに?」
「悪いことをする気持ちです」
「お兄さんにはないよ」
「それを確かめるのが、私の仕事です」
エルシアは手帳を閉じた。
それから、まっすぐ俺を見る。
「最後に一つだけ、聞かせてください」
「何でしょう」
「あなたは、本当に何者なんですか」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
王立錬金術院の品質管理官。
除名処分者。
辺境開拓補助員。
誤差しか見えない無能。
井戸のお医者さん。
呼び名はいくつもある。
だが、どれが本当なのか、俺自身にもまだわからない。
井戸の底で、水音がした。
ぽちゃん。
俺はその音を聞きながら、ゆっくり答えた。
「今は、ただの井戸番見習いです」
ミラが笑った。
ガイ老人も、戸口で肩を揺らした。
エルシアだけは笑わなかった。
彼女は真剣な顔で、もう一度井戸を見た。
「では、井戸番見習い。今夜は私もここを見張ります」
「助かります」
「信用したわけではありません」
「はい」
「ただ、十年ぶりに戻った水を、また失うわけにはいきません」
その言葉に、俺はうなずいた。
廃村だった旧リーベル村の中央井戸は、今日も細く水音を立てている。
そして、その水音を守る者が、一人増えた。
次回、第5話「薬草畑のズレを直したら、王都級の素材が生えました」。
中央井戸の水が戻ったことで、今度は捨てられていた薬草畑に変化が起きます。ルカの仕事が、村の暮らしだけでなく、初めて“価値”として外へ届き始めます。




