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王立錬金術院の壁は、もう限界でした

第28話です。

資料庫へ向かう前に、ルカはかつて毎日歩いていた第一廊下に走る赤線を確認します。

 こつん。


 王立錬金術院の第一廊下で、石が鳴った。


 小さな音だった。

 床に落ちた小石が跳ねたような、乾いた音。

 けれど、俺の目には、その音がどこから来たのかが見えていた。


 白い壁の中を、細い赤線が走っている。

 一本ではない。

 天井近くの魔力管。床下へ下りる圧力逃がし。肖像画の裏に隠された結界石の固定枠。

 それらが少しずつずれて、壁の継ぎ目へ負荷をかけている。


「王立錬金術院の壁が、もう限界に近い」


 俺がそう言った瞬間、第一廊下の空気が止まった。


 ライナス・ケイルは笑おうとしていた。

 だが、奥で鳴った石の音を聞いて、口元だけが中途半端に歪んだまま止まっている。


 ヘルム主任は顔色を変えていた。

 第一錬金炉管理室の補足記録を出した人だ。

 ここで俺が何を見ているのか、少なくとも軽く扱っていい話ではないとわかっているのだろう。


 セリオ・ヴァルクは、表情を変えなかった。


「確認方法は」


「魔力管の圧力記録、壁裏の結界石配置図、第一廊下の補修台帳。それから、今この場の振動音です」


「君の視認だけでは採用しない」


「わかっています」


 その言い方には、もう慣れていた。

 リーベル村でも、セリオは同じことを言った。

 【修正眼】だけでは証拠にならない。

 見えた赤線を、誰でも確認できる変化に置き換える。


 ここでも同じだ。


「このまま資料庫へ向かうのは危険です」


 俺は廊下の奥を指した。


「資料庫の入口は、この魔力管の下を通ります。壁の負荷が上がれば、石材が落ちる可能性があります。人に当たらなくても、資料庫の扉枠が歪めば、中の記録が取り出せなくなります」


「また誤差で大げさなことを言っているのか」


 ライナスが言った。


 その声には、昔と同じ調子があった。

 面倒な検査係が、また研究の邪魔をしている。

 そう言いたいのだろう。


「壁の音くらい、古い建物なら鳴る。王立錬金術院の第一廊下だぞ。百年以上、こうして立っている」


「百年立っていた壁でも、今日壊れないとは限らない」


 俺は答えた。


「壊れる前に、音が変わります」


 ライナスは何か言い返そうとした。

 その前に、セリオが記録官へ視線を向けた。


「第一廊下、安全確認を優先。王立錬金術院側立会人、ヘルム主任。同行者、ルカ・オルメイン。検証内容は、視認ではなく物理的変化に基づく。記録しろ」


 記録官が羽ペンを走らせる。


 ライナスの顔がわずかに強張った。

 今の発言も、記録に残る。

 それに気づいたのだろう。


 ヘルム主任が俺の横へ来た。


「ルカ君。どこから見る」


「肖像画の裏です。ただし、動かす前に周囲を確認します」


 俺は第一廊下の壁を見た。


 歴代の大錬金術師の肖像画が、等間隔に並んでいる。

 王都を出る前、俺はこの絵の下を毎日通っていた。

 その時は、ただの飾りだと思っていた。


 違う。


 肖像画の裏には、小さな通気孔と結界石の点検口がある。

 廊下を美しく見せるために隠してあるだけで、装飾ではない。


 俺は三番目の肖像画の前で止まった。


「ここです」


 ライナスが眉をひそめた。


「初代院長の肖像画だぞ。勝手に触るな」


「触る前に確認します」


 俺は鞄から薄い紙片を取り出した。

 リーベル村で使っていた検査票の余りだ。

 それを壁の継ぎ目へ近づける。


 紙片が、小さく震えた。


 風ではない。

 廊下の窓は閉まっている。

 誰も息を吹きかけていない。


 壁の内側から、一定の間隔で空気が押し出されている。


「記録してください。壁継ぎ目から微弱な圧力漏れ。紙片で確認可能」


 記録官が書く。


 次に俺は、水の入った小瓶を廊下の床へ置いた。

 中央井戸の水ではない。

 王都の宿で補給した普通の水だ。


 水面が、かすかに揺れた。


 こつん。


 奥でまた石が鳴る。

 同じタイミングで、小瓶の水面に細い輪が広がった。


 ヘルム主任が息を呑んだ。


「第一錬金炉の圧力波と同じ間隔だ」


「今の記録はありますか」


「第一錬金炉管理室にはある。だが、廊下側の圧力記録は……」


 ヘルム主任は言葉を切った。


「ここ数日、取られていないはずだ」


「なぜですか」


 セリオが聞いた。


 ヘルム主任は答えにくそうにした。


「廊下側の検査は、品質管理官の通常業務でした。ルカ君がいなくなった後、後任が小型炉の対応に回され、第一廊下の点検は後回しになっています」


 小型炉。


 第七小型炉が止まったという話は、王都へ来る途中でセリオから概要だけ聞いていた。

 俺がいなくなった後、錬金術院では小型炉の停止と薬品庫の事故が続いている。


 つまり、目立つ事故に人手を取られ、壊れる前の点検が抜けた。


 王都で俺が毎日やっていた仕事が、穴になっている。


「第一廊下補修台帳は」


 セリオが尋ねる。


「施設管理室です」


 ヘルム主任が答えた。


「資料庫へ行く途中にあります」


「持ってこさせろ」


 セリオの命令で、錬金術院の若い技官が走っていった。


 その間にも、壁の赤線は消えない。

 むしろ、奥から脈を打つように濃くなっている。


 俺は肖像画の下を見た。


 絵の額縁の下側に、白い粉が溜まっている。

 掃除で残った埃ではない。

 石材の細かな欠片だ。


「ガンズさんがいれば、釘の傷で説明してくれたでしょうね」


 思わずそう言うと、エルシアが少しだけこちらを見た。


「リーベル村の鍛冶屋ですか」


「はい。金具の新しい傷を見るのが早い人です」


「ここでは、誰がその役をしますか」


「俺がやります」


 俺は額縁の下を指した。


「白い粉は、壁石の表面が削れたものです。落下位置は額縁の真下ではなく、少し右にずれています。つまり、肖像画そのものではなく、裏の点検口の縁から落ちています」


「裏を見る必要があるな」


 セリオが言った。


 ライナスが半歩前へ出た。


「では外せばいい」


「触るな」


 俺の声が強く出た。


 ライナスの手が止まる。

 周囲の錬金術師たちも、こちらを見た。


 俺は一度息を吸った。


「失礼。今は触らないでください。額縁の左上に負荷が集まっています。普通に外すと、点検口の縁ごと剥がれる可能性があります」


 ライナスは不快そうに手を引いた。


「言い方というものがあるだろう」


「危険がある時は、先に止めます」


 エルシアが横で小さくうなずいた。

 セリオは記録官へ言った。


「ルカ・オルメイン、接触直前に制止。理由、額縁周辺の負荷集中。後で物理確認」


 ライナスはさらに嫌な顔をした。

 だが、何も言わなかった。


 若い技官が補修台帳を持って戻ってきた。

 表紙には『第一廊下補修記録』とある。


 セリオが受け取り、ヘルム主任に開かせた。


 最後の記録は、七日前だった。


『北側通気孔清掃。紙片確認、揺れなし。圧力差、許容範囲内。担当、ルカ・オルメイン』


 その次の欄は、空白だった。


 追放処分の日付以降、記録がない。


 ヘルム主任が小さく息を吐いた。


「……抜けています」


「抜けているだけですか」


 セリオの声は低かった。


「第一錬金炉の圧力波が廊下まで出ている。壁裏の通気孔が閉塞している可能性がある。点検記録は七日前から空白。これを、抜けているだけと言うか」


 ヘルム主任は答えなかった。


 ライナスが視線をそらす。


 俺は台帳の七日前の記録を見つめた。


 自分の字だった。

 王都にいた頃の俺が書いた字。

 いつもと同じように、誰にも読まれないと思いながら書いた検査記録。


 その一行が、今は壁の異常を証明する手がかりになっている。


「点検口を開けます」


 俺は言った。


「ただし、肖像画を外すのではなく、下の封止栓から圧を抜きます。ヘルム主任、点検口の鍵はありますか」


「ある」


 ヘルム主任は腰の鍵束から、細い鉄鍵を選んだ。


「この鍵は、本来、施設管理係と品質管理官だけが使う」


「今は王宮監察局の立会いです」


 セリオが言った。


「開けろ」


 ヘルム主任が封止栓に鍵を差し込む。


 俺は赤線を見た。

 栓の周りに黄線がある。

 限界を示す線だ。

 回しすぎれば、封止枠が割れる。


「半回転だけです。それ以上は駄目です」


「わかった」


 ヘルム主任が慎重に鍵を回した。


 きい、と金具が鳴る。


 次の瞬間、細い音がした。


 しゅう。


 壁の内側から、温かい空気が漏れた。

 古い石の匂いと、わずかな魔石油の匂いが混ざっている。


 小瓶の水面が、少しだけ静かになった。


 紙片の震えも弱まる。


 赤線の一部が薄くなった。


「記録してください」


 俺は言った。


「封止栓を半回転開放。壁裏から温風と魔石油臭。紙片振動低下。水面振動低下。壁継ぎ目の圧力漏れも弱まりました」


 セリオは短くうなずいた。


「視認以外の確認あり。応急処置により変化あり」


 ライナスは黙っていた。


 そこへ、廊下の奥から足音が響いた。


 白衣の裾を揺らしながら、バルド・レイヴン院長が現れた。


 銀糸で縁取られた白衣。

 王宮から授けられた勲章。

 太い金の指輪。


 追放の日の講堂で俺を見下ろしていた姿と、ほとんど変わらない。


 だが、その顔には苛立ちがあった。


「何をしている」


 バルド院長の声が廊下に響いた。


「王宮監察局の資料照合だと聞いていたが、なぜ廊下の壁を開けている」


 セリオが前に出た。


「資料庫へ入る前の安全確認です。第一廊下に魔力管圧力異常を確認しました」


「廊下の異音など、古い建物にはよくあることだ」


「では、院長としてそう記録しますか」


 セリオの声は淡々としていた。


「第一廊下の魔力管圧力異常について、王立錬金術院は問題なしと判断し、資料庫への入室を強行する。そう書いてよろしいか」


 バルド院長の指輪が、かすかに鳴った。


 彼は無意識に指を動かしていた。

 講堂で俺の肩に手を置いた時と同じ指輪だ。


「そこまで大げさにする必要はない」


「監察記録には必要です」


「院内の小修繕を、王宮監察局の記録に入れるつもりか」


「資料庫の保全に関わるため、入れます」


 バルド院長の視線が、俺へ向いた。


「ルカ君」


 その呼び方が、昔よりも冷たく聞こえた。


「君は、戻ってきて早々、また壁の誤差か。相変わらず研究を進めることより、止めることが好きなようだな」


 胸の奥が、少しだけ重くなった。


 だが、リーベル村の水音を思い出した。

 ミラの木札を思い出した。


 お兄さんは、記録を取りに行きます。持っていかれません。


 俺は記録帳を握った。


「止めるためではありません」


 俺は言った。


「壊れる前に確認するためです」


「言葉を飾っても同じだ」


「違います」


 俺は壁を指した。


「今、封止栓を半回転開けただけで振動が下がりました。これは、壁が自然に鳴っているのではなく、壁裏の圧力が溜まっていた証拠です。問題がないなら、変化は出ません」


 セリオが記録官に目を向ける。


「今の発言も記録しろ」


 記録官が書く。


 バルド院長の眉が動いた。


 こつん。


 また石が鳴った。


 今度は近かった。

 肖像画の右下から、白い粉がぱらりと落ちる。


 エルシアが即座に前へ出た。


「全員、壁から離れてください」


 その声は、辺境騎士の命令だった。


 錬金術師たちが一歩下がる。

 ライナスも下がった。


 バルド院長だけが、すぐには動かなかった。


 セリオが言う。


「院長」


 短い一言だった。


 バルド院長は、ようやく一歩下がった。


 俺は赤線を追った。


 封止栓を一つ開けたことで、壁上部の線は少し薄くなった。

 しかし、床下へ伸びる線はまだ濃い。

 そして、その線は廊下の奥へ向かっている。


 資料庫ではない。


 さらに奥。


 地下へ下りる方向。


 第一錬金炉だ。


「壁だけの問題ではありません」


 俺は言った。


「第一廊下の壁は、圧力の逃げ場になっているだけです。元の圧力は下から来ています」


 ヘルム主任の顔がさらに青くなった。


「第一錬金炉か」


「断定には、第一錬金炉管理室の圧力台帳と、資料庫の配置図が必要です」


「資料庫へ行けるのか」


 エルシアが聞いた。


「封止栓をもう一つ開ければ、資料庫入口までは行けます。ただし、廊下全体を通行させるのは危険です。人数を絞ってください」


 セリオは即座に判断した。


「同行者を絞る。私、記録官一名、ルカ・オルメイン、エルシア・グランツ、ヘルム主任。王立錬金術院側は、院長または代理一名」


「私が行く」


 バルド院長が言った。


 セリオはわずかに目を細めた。


「よろしい。ただし、資料庫内の原本には、監察局の許可なく触れないでください」


「王立錬金術院の資料庫だぞ」


「現在は王宮監察局による保全対象です」


 バルド院長は黙った。


 ヘルム主任が二つ目の封止栓を開ける。

 今度も半回転だけ。


 壁の内側から、また温かい空気が抜けた。

 赤線が少し薄くなる。


 完全には消えない。


 だが、資料庫へ進める程度には落ち着いた。


 俺たちは第一廊下を進んだ。


 廊下の壁には、まだ赤線が残っている。

 肖像画の裏にも、床下にも、天井にも。


 七年前から、俺はこの場所を歩いていた。

 毎朝、異常を探していた。

 その時は、仕事だと思っていた。


 今は違う。


 ここに残っている記録を守るために、俺は歩いている。


 資料庫の扉が見えてきた。


 重い鉄枠の扉。

 王立錬金術院の正式資料を保管する場所。

 十年前のリーベル村調査記録も、大型浄化炉事故報告書の原本も、残っているならここにあるはずだ。


 だが、扉の周囲にも赤線があった。


 扉そのものではない。

 扉の下を通る、古い魔力管の上だ。


 赤線は、さらに奥へ続いている。

 資料庫の床下を抜け、地下へ向かっている。


 俺は足を止めた。


「ルカさん」


 エルシアが短く呼ぶ。


 俺は答える前に、記録帳を開いた。


『第一廊下。封止栓開放により壁裏圧力一部低下。ただし床下赤線は残存。資料庫扉下の魔力管にも同系統の赤線。方向、地下。第一錬金炉方面』


 書きながら、喉の奥が乾いた。


 王都の炉は、王都を守るためのものだと教えられてきた。

 水を清め、結界を保ち、都市の生活を支える中枢だと。


 だが、壁に出ている赤線は違うことを示している。


 王都を守っているはずの炉が、王都の壁からも、少しずつ余裕を奪っている。


 俺は資料庫の扉を見た。


 ここから先にあるのは、消された記録だけではない。


 第一錬金炉そのものの、壊れ方だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第28話では、ルカが王立錬金術院の第一廊下に走る赤線を確認し、壁の異常が第一錬金炉系統の圧力と関係している可能性を示しました。

次回、第29話「第一錬金炉は、王都を守っていない」。資料庫の記録と第一錬金炉管理室の台帳から、王都の中枢設備の本当の役割が見え始めます。

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