王都へ戻る。ただし、謝るためではない
第27話です。
ルカは証人として、技術協力者として、かつて追放された王都へ向かいます。謝罪ではなく、消された記録を確かめるために。
明け方のリーベル村は、まだ薄い霧の中にあった。
中央井戸の前に立つと、冷えた石の匂いがした。
昨日の公開監査と資料照合で、人の足跡が増えたはずなのに、井戸の周囲だけは不思議と静かだった。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
水音はある。
昨夜より重くはない。
ただ、西方不明流路へ伸びる赤線はまだ消えていなかった。
俺は井戸の縁には触れず、少し離れて記録帳を開いた。
『出発前確認。中央井戸、水音安定。大量取水禁止継続。西方不明流路、赤線残存。王都式浄水石検体は村内保管。三滴印、移動禁止』
書き終えたところで、横から小さな声がした。
「お兄さん、字が早い」
ミラだった。
手には木札と炭筆を持っている。
寝ぐせのついた髪を布紐で結び、妙に真剣な顔をしていた。
「早く書かないと、馬車が出る」
「間違えない?」
「間違えたら、線を引いて直す」
「消さないの?」
「消すと、間違えたことまで消える」
ミラはしばらく考えて、木札に書いた。
『まちがえたら、線を引いて直す』
「それは掲示するのか」
「しない。持っておく」
「ならいい」
ミラはもう一枚、小さな木札を差し出した。
昨日、水番小屋で書いていた札だ。
『お兄さんは、記録を取りに行きます。持っていかれません』
字は少し曲がっている。
けれど、炭筆の線は強かった。
「これ、持っていって」
「掲示しないのか」
「お兄さんが持ってたほうがいい」
「どうして?」
「王都の人に、持っていかれそうになったら見る」
答えに困った。
だが、拒む理由もなかった。
俺は木札を記録帳の内側に挟んだ。
「わかった。持っていく」
「帰ってきたら返して」
「ああ」
ミラはそれで満足したらしく、中央井戸を見た。
「井戸は、わたしとおじいちゃんで聞く」
「水量板は勝手に動かすな」
「わかってる。生活用水穴だけ。南畑はネリアさんがいる時。東水路はガンズさんが見る時」
「よし」
「わたし、ちゃんと覚えてる」
「頼む」
その言葉に、ミラは胸を張った。
水番小屋の前では、すでにガイ老人、ネリア、ガンズ、ドランが待っていた。
セリオ・ヴァルクの公用馬車は村の入口に止まっている。
王宮監察局の小さな銀章が側面に打たれた、飾りの少ない馬車だ。
派手ではない。
だが、王都へ戻るには十分すぎるほど重い印だった。
ガイ老人は椅子に腰かけたまま、俺を見上げた。
「井戸番の記録が残っていたら、まず写しを取れ」
「はい」
「原本を見つけても、持ち出そうとするな。王都では、原本を持った者が勝ったつもりになる」
「わかっています。写しを取り、保全命令をかけます」
ガイ老人はうなずいた。
「十年前は、わしらはそれを知らなかった」
その言葉には、後悔があった。
だが、責める響きではない。
ネリアは白露草の記録板を抱えていた。
「南畑は見ます。露の採取は一日一回。葉は取りません。偽白露草粉の件も、商人ギルドへ写しを送ります」
「お願いします」
「はい」
以前のネリアなら、返事の最後が小さくなったかもしれない。
今は違う。
南畑試験区の管理者としての声になっていた。
ガンズは腕を組み、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
「炉は低火だけだな」
「はい。西方流路の反応が残っています。高温運転はしないでください」
「わかってる。お前がいない間に爆ぜたら、戻ってきた時に説教されるからな」
「説教ではなく、検査です」
「同じだ」
ドランは帳面を閉じ、荷台のほうを示した。
「写しは三系統に分けました。一つはセリオ様の馬車へ。一つは私の商人便で北東詰所へ。もう一つは村に残します。リーベルの記録は、これで簡単には消せません」
「助かります」
「商人としても、消されては困りますので」
その時、エルシアが村の入口から戻ってきた。
腰には短剣。
本来の長剣は、まだ修理待ちだ。
「出発準備は整いました。王都までは監察局の通行証で進みます。途中の詰所で一度、封書を預けます」
「はい」
「ルカさん」
「何でしょう」
「王都で挑発されても、正面から受けないでください」
「努力します」
「努力ではなく、約束してください」
エルシアはいつもより強い声だった。
「あなたは証人です。技術協力者です。リーベル村の暫定水源管理者です。王立錬金術院に謝りに行く人ではありません」
「……約束します」
そう答えると、エルシアはようやくうなずいた。
セリオは馬車の横で、黒い外套を整えていた。
「時間だ」
俺は一度だけ、中央井戸を振り返った。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
水音は続いている。
俺がいなくても、井戸は鳴っている。
それを頼もしいと思えたことに、自分でも少し驚いた。
「行ってくる」
ミラが木札を胸に抱えて言った。
「行ってらっしゃい。帰ってきて」
「ああ。帰る」
馬車が動き出した。
旧リーベル村の壊れた柵が、ゆっくり後ろへ下がっていく。
中央井戸、水番小屋、南畑へ続く細い道、北森の影。
王都を出た時、俺の荷物は木箱一つだった。
今、王都へ戻る荷物は、写しの束と記録だけだ。
だが、重さはまるで違った。
王都へ向かう道中、セリオはほとんど話さなかった。
馬車の中には、俺、エルシア、セリオ、それから監察局の記録官が一人。
膝の上には、封印された写し箱がある。
箱の中身は、リーベル村の記録だ。
中央井戸の水量記録。
ガイ老人の証言写し。
境界石の拓本。
白露草試験区の露反応記録。
北森結界柱の応急修正記録。
旧鍛冶場の炉底石反応記録。
受け口付着粉の検体番号。
焦げた紙片と荷札金具の写し。
そして、第一錬金炉管理室補足記録。
リーベル村は、まだ小さな村だ。
けれど、記録の量だけなら、王立錬金術院の小さな研究室より多いかもしれない。
「確認しておく」
セリオが馬車の揺れに合わせず、淡々と言った。
「王都では、君の能力を証拠にはしない」
「はい」
「見えたものを言うのは構わない。ただし、必ず確認方法を添えろ」
「水音、寸法、封印痕、濁り、台帳、署名、立会人」
「それでいい」
セリオは少しだけ目を細めた。
「君は、以前の王都でそれをできなかったのか」
「できなかったというより、届きませんでした」
「なぜ」
「報告書を書けば、読まれると思っていました」
言ってから、自分でも少し苦く感じた。
「読まれなければ、何も残らない。印を消されれば、提出したことも消える。俺はそれを、追放される日まで本当にはわかっていなかったんだと思います」
エルシアは黙って聞いていた。
セリオは短く言った。
「今回は、読ませる」
「はい」
「読まないなら、読まなかったことを記録する」
その言い方は、少しミラに似ていた。
そう思ったが、口には出さなかった。
昼前、王都の城壁が見えた。
白い石壁。
尖塔。
魔石灯の柱。
遠くに見える、王立錬金術院の銀色の屋根。
胸の奥が、嫌な形で縮んだ。
ここから出ていった時、俺は追放された人間だった。
荷馬車の荷台で、旧リーベル村の地図だけを持っていた。
今は違う。
そう言い聞かせても、王都の城門をくぐる時、手は自然に記録帳を押さえていた。
北門の衛兵は、王宮監察局の銀章を見るとすぐに姿勢を正した。
「王宮監察局、現地監査帰還。通行記録を」
セリオが言うと、衛兵は台帳を開いた。
「同行者名をお願いします」
「セリオ・ヴァルク。記録官ロイ。辺境警備隊、エルシア・グランツ。技術協力者、ルカ・オルメイン」
ルカ・オルメイン。
その名を聞いた衛兵の筆が、一瞬止まった。
すぐに書き続けたが、反応は隠しきれていない。
「何か」
セリオが尋ねる。
「いえ。王立錬金術院から、同名の者について通達がありましたので」
「内容は」
「懲戒処分者につき、王立錬金術院への単独立入禁止、と」
「単独ではない。王宮監察局の同行者だ。記録しろ」
「はい」
衛兵は慌てて台帳へ書き足した。
単独立入禁止。
バルド院長らしい手だと思った。
俺を王都から遠ざけるだけでは足りず、戻った時の入口にも札を掛けておく。
だが、今日はそれで止まらない。
馬車は王都の大通りを進んだ。
石畳は磨かれ、店の看板は整っている。
水路の上には小さな浄水石がはめ込まれ、街角の魔石灯は昼でも淡く光っている。
美しい街だ。
けれど、俺の視界には別のものも見えた。
魔石灯の基部に、細い赤線。
水路の蓋の隙間に、古い黄線。
浄水石の一つに、ほんのわずかな白い乱れ。
王都は壊れていない。
まだ、表面上は。
だが、リーベル村で水音を聞き続けた後では、王都の整った石畳の下にも、無理に隠されたズレがあるのだとわかった。
「見えているのですか」
エルシアが小声で聞いた。
「少しだけ」
「危険ですか」
「今すぐではありません。ただ、放っておけば危険になる線が多い」
セリオが言った。
「今は記録するな。目的は王立錬金術院の資料保全だ。街路設備の監査は別件にする」
「わかっています」
見えるもの全部を直せるわけではない。
リーベルで学んだことだ。
目的を決めなければ、修正の順序は見えない。
今の目的は、王立錬金術院の記録を見ること。
王宮監察局に着くと、セリオは馬車を止めず、通用門で封書だけを渡した。
「本部へ。旧リーベル村関連原本の保全命令を正式発行。写しは第三保管室へ」
受け取った監察局員は、封印を確認して走った。
セリオは俺たちを見た。
「このまま王立錬金術院へ向かう。院長が資料を動かす前に入る」
王立錬金術院。
その名が、また胸の中で重くなる。
だが、馬車は止まらなかった。
銀色の屋根が近づく。
高い門。
白い石壁。
歴代の大錬金術師の像。
七年間通った場所だった。
門の前で、二人の守衛と、若い技官が待っていた。
技官の顔には見覚えがある。
名前は知らないが、第三実験棟で何度かすれ違ったことがある。
彼は俺を見ると、すぐに表情を硬くした。
「ルカ・オルメインの立ち入りは認められません」
最初の一言がそれだった。
セリオは馬車から降り、黒い外套の内側から文書を出した。
「王宮監察局による資料保全命令だ。王立錬金術院資料庫、第一錬金炉管理室、第三実験棟事故関係記録の確認を行う」
「院長命令です。懲戒処分者を院内に入れることはできません」
「命令者名を確認する」
「院長、バルド・レイヴンです」
「時刻は」
「昨夜です」
「では記録する。王立錬金術院は、王宮監察局の資料保全命令に対し、院長命令を理由に技術協力者の立ち入りを拒否した」
セリオが記録官へ目を向けた。
記録官はすぐに羽ペンを走らせる。
若い技官の顔色が変わった。
「い、いえ、拒否というわけでは」
「では通すのか」
「確認を」
「確認中に原本が動けば、責任者は君と院長になる」
セリオの声は荒くない。
だからこそ、逃げ道がなかった。
門の内側から、別の声がした。
「通してください」
主任技官ヘルムだった。
以前より少し疲れた顔をしている。
白衣の袖には、薬液の薄い染みが残っていた。
「ヘルム主任」
若い技官が振り返る。
「第一錬金炉管理室の補足記録は、私が出しました。王宮監察局の命令であれば、資料保全が優先です」
「ですが、院長が」
「院長命令の記録も残せばいい」
ヘルムはそう言って、俺を見た。
「ルカ君」
「ヘルム主任」
「久しぶりだな」
「はい」
「戻ってきた、とは言わないほうがいいか」
その言葉に、俺は一瞬だけ答えを探した。
「戻ったわけではありません」
俺は言った。
「記録を照合しに来ました」
ヘルムは小さくうなずいた。
「そうか」
門が開いた。
王立錬金術院の敷地に足を踏み入れた瞬間、石畳の感触が昔の記憶を引きずり出した。
朝の炉心温度。
薬液庫の湿度。
提出印のない報告書。
講堂で降ってきた笑い声。
思い出す必要のないものまで、勝手に戻ってくる。
だが、俺は記録帳を握り直した。
今の俺の後ろには、セリオがいる。
エルシアがいる。
リーベル村の写しがある。
ミラの木札がある。
俺は一人ではなかった。
第一廊下へ入ると、数人の錬金術師が足を止めた。
その中に、ライナス・ケイルがいた。
彼は俺を見るなり、目を見開いた。
それから、いつものように口元を少しだけ歪めた。
「ルカ。戻ってきたのか」
「資料照合に来た」
「追放処分を取り消してもらうためじゃないのか」
「違う」
「では、謝罪か?」
エルシアの目が鋭くなった。
だが、俺は先に答えた。
「謝るためではない」
ライナスの笑みが少し止まった。
「ここで消された記録を、確認しに来た」
廊下が静かになった。
セリオは余計な言葉を足さなかった。
ただ、記録官が今の会話を書き留めている。
ヘルムが小さく息を吐いた。
「資料庫へ案内します」
俺は歩き出そうとして、足を止めた。
視界に、赤線が入った。
壁だ。
王立錬金術院の第一廊下。
いつも磨かれていた白い壁。
歴代の大錬金術師の肖像画が並ぶ、あの壁。
そこに、細い赤線が何本も走っている。
ひび割れではない。
汚れでもない。
壁の中を通る魔力管の圧力差が、石材の継ぎ目に負荷をかけている。
天井にもある。
床にもある。
肖像画の裏にも、細い赤線が隠れている。
「ルカさん」
エルシアが低く呼んだ。
「何が見えますか」
俺は廊下の奥を見た。
王都で七年間、毎日歩いていた場所だった。
その時も、赤線は見えていた。
だが、ここまで濃くはなかった。
「壁です」
俺は言った。
「王立錬金術院の壁が、もう限界に近い」
ライナスが笑いかけて、途中でやめた。
ヘルムの顔から血の気が引く。
セリオは静かに言った。
「確認方法は」
俺は記録帳を開いた。
「魔力管の圧力記録、壁裏の結界石配置図、第一廊下の補修台帳。それから、今この場の振動音です」
廊下の奥で、低い音がした。
こつん。
石が鳴る音だった。
王立錬金術院は、俺を追放した場所だ。
そして今、その場所そのものが、壊れる前の音を立てていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第27話では、ルカが証人として王都へ向かい、王宮監察局の立会いのもと王立錬金術院へ入ります。
次回、第28話「王立錬金術院の壁は、もう限界でした」。資料庫へ向かう前に、ルカは王立錬金術院そのものに走る赤線を確認します。




