院長の報告書は、嘘をついていた
第26話です。
公開監査で出た王立錬金術院の回答と、リーベル村に残った現物記録を照合します。
公開監査の翌朝、水番小屋の机は、もう作業机ではなくなっていた。
中央には、王宮監察官セリオ・ヴァルクが置いた黒い文箱。
その左に、昨日の公開監査記録。
右に、王立錬金術院から届いた院長回答と、第一錬金炉管理室の補足記録。
机の端には、俺の私物記録帳、中央井戸の水量記録、境界石の拓本、灰色粉の封印瓶、焦げた紙片の封印包みが並んでいる。
水番小屋に置くには、ずいぶん重い資料の山だった。
外では、中央井戸がいつもの音を立てている。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
昨日より、少しだけ澄んだ音だ。
それでも、完全に軽いわけではない。
西方不明流路の赤線はまだ残っている。
王都式浄水石を遠ざけても、第一錬金炉系統との干渉が消えたわけではなかった。
セリオは椅子に座り、羽ペンを手に取った。
「資料照合を始める」
水番小屋の中には、いつもの面々がそろっていた。
エルシアは入口側に立ち、外の様子も見ている。
ガイ老人は椅子に腰かけ、井戸の音を聞ける位置にいる。
ミラは木札と炭筆を抱え、俺の隣に立っていた。
ネリアは白露草の記録板を持ち、ガンズは腕を組んで壁際に寄りかかっている。
ドランは商人立会人として、帳面を開いていた。
そして、ヴェルナー伯爵家の代理人クレイン・ハーゼンもいた。
彼はあからさまに不快そうだった。
昨日の公開監査で、伯爵家による接収判断は保留になった。
現時点での設備移動、取水権変更、三滴印提出要求も認められない。
伯爵家にとっては、ここに残る理由がないように見える。
だが、セリオは帰さなかった。
「クレイン・ハーゼン殿。あなたにも立ち会ってもらう」
「なぜです。王立錬金術院の回答に不備があるなら、それは錬金術院と王宮監察局の問題でしょう。伯爵家は関係ありません」
「あなた方は、院長回答を根拠の一つとしてリーベル村の管理権を主張した」
セリオは、机の上の文書を指で軽く叩いた。
「その根拠の信頼性が揺らぐなら、あなた方の主張にも影響する。立会人として残るべきだ」
クレインは唇を引き結んだ。
「……承知しました」
セリオはうなずき、まず院長回答を広げた。
王立錬金術院長バルド・レイヴンの署名と印。
整った文字。
余白の取り方も、王都式の正式文書そのものだ。
王都にいた頃の俺なら、その印だけで相手が正しいように感じただろう。
だが、今は違う。
印は、誰が書いたかを示す。
何が正しいかまでは示さない。
「院長回答の要点を読む」
セリオが淡々と読み上げた。
「一つ。旧リーベル村中央井戸は、十年前の調査において自然枯渇と判断済み。二つ。王都第一錬金炉系統との接続記録なし。三つ。リーベル基準井という呼称は旧式資料に残る俗称であり、現行設備との関係は認められない。四つ。ルカ・オルメイン元品質管理官は、微細な誤差を過大に扱う傾向があり、同人の視認証言のみを基礎とする判断は避けるべきである」
読み上げられるたび、胸の奥が冷える。
事実と違う。
そう言いたかった。
だが、言葉を飲み込んだ。
王都で俺が失敗したことを、ここで繰り返してはいけない。
見えた赤線を叫ぶだけでは、報告書は変わらない。
どこが違うのかを、誰でも確認できる形にしなければならない。
ミラが小声で言った。
「お兄さん、これ、嘘なの?」
水番小屋が静かになった。
セリオはミラを見た。
責めるような目ではない。
ただ、言葉の置き方を確かめる目だった。
「今すぐ『嘘』とは書かない」
俺は答えた。
「どうして?」
「先に、どこが違うかを書く」
「違うところが全部出たら?」
「その時に、嘘かどうかを判断する」
ミラは少し考え、木札に書いた。
『どこがちがうか、先に書く』
セリオはその札を見た。
「その札は残せ。今日の方針だ」
ミラは真面目な顔でうなずいた。
セリオは次に、第一錬金炉管理室の補足記録を広げた。
署名は主任技官ヘルム。
形式は院長回答ほど整っていない。
だが、そこには古台帳からの写しが添えられていた。
『基準井との接続弱化時、第一錬金炉系統浄水石に濁り発生。浄水石の不良ではなく、基準流路を確認すること』
昨日も読んだ文だ。
だが、今朝あらためて見ると、その重さが増している。
リーベル基準井。
第一錬金炉系統。
浄水石の濁り。
基準流路。
院長回答が否定したものが、第一錬金炉管理室の古台帳には残っている。
「第一の相違」
セリオは羽ペンで紙に線を引いた。
「院長回答は、第一錬金炉系統との接続記録なし、とする。だが、第一錬金炉管理室の古台帳には、基準井との接続弱化時の対応記録がある」
記録官が横で清書する。
「第二の相違。院長回答は、リーベル基準井を俗称とする。だが、第一錬金炉管理室の古台帳では、設備運用上の確認対象として扱われている。俗称なら、炉の運用注意に記される理由がない」
ガンズが低く唸った。
「そりゃそうだ。鍛冶場の古い呼び名を、炉の危険札には書かねえ」
セリオは続ける。
「第三の相違。院長回答は、自然枯渇と判断済み、とする。だが、現地では中央井戸、北森井戸、南畑井戸の三本が順番に弱った証言があり、中央井戸には古代式制御井の内壁、三流路、西方不明流路が残っている。自然枯渇と断定するなら、十年前の測定値、採水記録、井戸番記録、流路図が必要だ」
ガイ老人が杖を握った。
「井戸番の記録は、王都の調査員が持っていった」
「その証言も、昨日までの記録にある」
セリオは別紙を見た。
「中央井戸が最初に重く鳴り、青い光が消え、三日後に水量低下。一月後に北森井戸、半年後に南畑井戸が弱った。これは、単純な同時枯渇ではない」
俺は黙って聞いていた。
最初の夜、ガイ老人が話してくれたこと。
王都の資料にはなかったこと。
ミラの両親が水を買いに行き、戻らなかったこと。
公式記録では、旧リーベル村はただの廃村だった。
だが、今ここにある記録では違う。
ここには、枯れたことにされた井戸がある。
捨てられたことにされた村がある。
そして、持ち去られた井戸番の記録がある。
クレインが口を挟んだ。
「しかし、十年前の記録が今ここにない以上、自然枯渇の判断を否定することもできないのでは」
「否定するのではない」
セリオは即答した。
「自然枯渇と確定した根拠がない、と記録する。院長回答は断定している。現地記録は断定を支えていない。この差が問題だ」
クレインは黙った。
セリオのやり方は、一つずつ線を引くようだった。
感情で斬らない。
怒りで決めない。
ただ、合わない箇所を重ねていく。
それは、俺がいつもやってきた検査と似ていた。
「第四の相違」
セリオは院長回答の最後の段落を指した。
「院長回答は、ルカ・オルメインの視認証言のみを基礎とする判断は避けるべき、と書いている」
「それ自体は、正しいです」
俺は言った。
「俺だけが見える赤線は、公的証拠にはなりません」
「その通りだ」
セリオはうなずいた。
「だが、昨日の公開監査は、君の視認証言のみではない。中央井戸の受け口通過水と直接採水の比較。白露草の露反応。北森結界柱の魔石灯揺れ。旧鍛冶場の炉音。境界石拓本。三滴印。複数の立会人。これらは視認証言のみではない」
ネリアが小さく息を吸った。
「つまり、院長回答は、こちらの監査内容を見ないまま、ルカさんだけの話にしているんですか」
「少なくとも、昨日の公開監査結果とは一致しない」
セリオはまた一行を書いた。
「第五の相違。王立錬金術院の簡易搬入札と類似する焦げ紙片、および王立機関系の荷札金具について、院長回答は触れていない。照会内容に含めたにもかかわらず、回答していない」
エルシアが眉を寄せた。
「触れていない、というのは逃げ道になりますか」
「なる。だが、触れていないこと自体も記録になる」
セリオは淡々と答えた。
「疑いを否定するなら、該当する搬入札の型、発行記録、職員の移動記録を出せばよい。出さずに関係なしとだけ書くなら、検証不能な否定だ」
ドランが帳面を閉じた。
「商人なら、信用されませんね。荷札が見つかったのに、うちではない、とだけ言われても、台帳を出してくださいで終わりです」
セリオはうなずいた。
「王宮監察局も同じだ」
その時、ミラが木札を持ち上げた。
『どこがちがうか、五つあります』
ガンズが少し笑った。
「わかりやすいな」
「五つで合ってる?」
ミラが俺に聞く。
「ああ。今のところ五つだ」
「じゃあ、嘘って書いていい?」
俺は答えに詰まった。
その前に、セリオが言った。
「村の札としてなら、まだ早い。監査記録としても、まだ早い。ただし、次の文は書ける」
彼はミラの木札の下に、細い字で書いた。
『院長回答は、現地監査記録および第一錬金炉管理室補足記録と一致しません』
ミラはその文を見て、顔をしかめた。
「長い」
「正確だ」
「簡単に言うと?」
セリオは少しだけ考えた。
「王都の偉い紙と、井戸の記録が合わない」
ミラはすぐに書いた。
『王都のえらい紙と、井戸の記録が合わない』
ガイ老人が静かに笑った。
「そのほうが村には通じる」
「正式文も残す」
セリオは、今度は反論しなかった。
照合は続いた。
次に、俺の私物記録帳が出された。
上着の内側から取り出す時、少しだけ指が重くなった。
この帳面は、王都から持ち出した俺の記録だ。
大型浄化炉の赤線、薬品庫の湿度異常、結界石の劣化傾向、王都の魔力管の圧力差。
バルド院長が欲しがったもの。
俺が机の裏に隠していたもの。
それを、今ここで開く。
「ルカ・オルメイン」
セリオの声が少しだけ低くなった。
「この記録帳は、君の私物だな」
「はい」
「王立錬金術院の正式台帳ではない」
「はい」
「よって、これ単体では公的記録にはならない」
「わかっています」
「だが、正式台帳と照合するための手がかりにはなる。原本は君の手元に残せ。監察局は写しを取る。ただし、写しを取る箇所は君の同意を得て封印する」
俺は少し驚いた。
「原本を持っていかないのですか」
「持っていけば、また消えたと言われる」
セリオは当然のように言った。
「この村の原則は、原本を動かさない、写しを増やす、だったな」
ミラが小さく胸を張った。
「かってに持っていかない」
「そうだ」
セリオはうなずいた。
俺は記録帳を開いた。
王都を出る前のページ。
大型浄化炉の稼働前検査。
第七循環輪の刻印角。
魔力滞留の危険。
稼働停止、再刻印、炉心冷却検査の推奨。
そこには、俺の字でこう書かれている。
『提出済み。院長確認待ち。確認印、右下。翌朝、原本返却時には印なし。繊維剥離痕あり』
セリオが目を細めた。
「君が追放される原因になった大型浄化炉事故の記録か」
「はい」
「院長回答は、今回のリーベル村についてだけでなく、君の過去の傾向にも触れている。なら、この件も資料照合に入れる必要がある」
胸の奥が重くなった。
王都での事故。
講堂。
消された提出印。
笑い声。
誤差しか見えない無能。
あの場所へ、記録が戻っていく。
「ここも、書くの?」
ミラが記録帳を覗き込もうとして、俺は手で軽く止めた。
「これは王都の炉の話だ。まだ難しい」
「井戸とは違う?」
「違う。でも、やり方は似ている」
「やり方?」
「危ないと書いた記録が、なかったことにされた」
ミラは黙った。
それから、木札にゆっくり書いた。
『危ないと書いた紙を、なくさない』
俺は何も言えなかった。
セリオはその札を見て、静かに言った。
「その札も残せ」
昼前、照合表の第一版ができた。
一、院長回答は、第一錬金炉系統との接続記録なしとする。
確認記録、第一錬金炉管理室古台帳に基準井接続弱化時の対応記録あり。
二、院長回答は、リーベル基準井を俗称とする。
確認記録、古台帳では運用対象として記載あり。
三、院長回答は、自然枯渇と判断済みとする。
確認記録、三本井戸の順次弱化証言、青い光の消失、中央井戸制御陣、西方不明流路あり。自然枯渇断定の測定資料なし。
四、院長回答は、ルカ・オルメインの視認証言のみを避けるべきとする。
確認記録、公開監査では水、露、炉音、魔石灯、拓本、立会人による確認あり。
五、院長回答は、焦げ紙片および荷札金具への回答なし。
確認記録、王立機関系荷札金具、王立錬金術院簡易搬入札と類似する焦げ紙片を封印済み。
六、院長回答は、ルカ・オルメインの過大報告傾向を指摘する。
確認記録、私物記録帳に大型浄化炉事故前の警告記録あり。正式台帳および原本との照合が必要。
六項目。
そこまで書くと、セリオは羽ペンを置いた。
「ここから先は、王都で原本を確認する必要がある」
エルシアが表情を引き締めた。
「王立錬金術院へ行く、ということですか」
「王宮監察局を経由し、王立錬金術院の資料庫、第一錬金炉管理室、十年前のリーベル調査記録保管先を確認する」
セリオは俺を見た。
「ルカ・オルメイン。君にも同行してもらう」
水番小屋が静かになった。
ミラが俺の袖をつかんだ。
「お兄さん、王都に戻るの?」
その声は小さかった。
俺はすぐに答えられなかった。
王都。
王立錬金術院。
俺を追放した場所。
報告書を消した場所。
俺の警告を、事故の責任に変えた場所。
戻りたくない。
その気持ちは、はっきりあった。
だが、戻らなければ確認できないものがある。
十年前の井戸番記録。
第一錬金炉古台帳の原本。
大型浄化炉事故報告書。
院長回答の根拠資料。
それらを見ずに、リーベル村を守り切れるとは思えない。
「戻る」
俺は言った。
ミラの手に力が入った。
「ここには帰ってくる?」
「ああ」
「ほんと?」
「本当だ」
俺は中央井戸の音を聞いた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
「俺の仕事場は、もうここだ。王都には、謝りに行くんじゃない。記録を取りに行く」
ミラは少しだけ黙った。
それから、袖を離した。
「じゃあ、持っていかれるんじゃないね」
「持っていかれない」
ミラは木札に書いた。
『お兄さんは、記録を取りに行きます。持っていかれません』
「それは掲示しなくていい」
「なんで?」
「村のみんなが読む」
「読んだら安心するかも」
言い返せなかった。
エルシアが俺の横に来た。
「私も同行します」
「北東詰所は」
「現地保全中の証人として、辺境警備隊から一名同行する必要があります。加えて、あなた一人で王都へ戻すのは危険です」
「危険、ですか」
「あなたを追放した場所です。しかも、今はその報告書の嘘を調べに行く。安全なはずがありません」
セリオは短くうなずいた。
「エルシア・グランツの同行を認める。リーベル村側の記録保全者としては、ガイ老人、ドラン、ネリア、ガンズ、ミラで原本を管理しろ。三滴印は移動禁止。中央井戸は大量取水禁止。北森結界柱は現状維持。旧鍛冶場は低火のみ」
「おい、俺は留守番か」
ガンズが不満そうに言った。
「炉を見られる者が残る必要がある」
セリオが返す。
「それを言われると面倒だな」
ガンズは頭をかいた。
ネリアも頷いた。
「白露草は私が見ます。出荷はしません。露の記録だけ続けます」
ドランは帳面を閉じた。
「私は商人ギルドへ追加写しを送ります。ルカさんとエルシアさんが王都へ向かうなら、その前に写しをもう二系統増やしましょう」
ガイ老人は、井戸の音を聞きながら言った。
「井戸は、わしとミラで聞く。水量板は勝手に変えん」
ミラは胸を張った。
「札係もする」
「頼む」
俺がそう言うと、ミラは真剣にうなずいた。
午後、王都行きの準備が始まった。
と言っても、荷物は多くない。
俺の記録帳、写しの束、公開監査記録、封印済みの灰色粉と焦げ紙片の写し、王都式浄水石の検体番号、第一錬金炉管理室補足記録。
原本の大半は水番小屋に残す。
持っていくのは、王都で照合するための写しだけだ。
王都では、原本を持っている者が強かった。
だがリーベルでは違う。
原本を一つにしない。
写しを増やす。
消すには、多すぎるようにする。
日暮れ前、セリオは王宮監察局の封筒を二つ作った。
一つは王宮監察局本部宛。
もう一つは王立錬金術院宛。
王立錬金術院宛の文書には、短くこう書かれていた。
『旧リーベル村現地監査において、王立錬金術院院長回答と、第一錬金炉管理室補足記録および現地記録に重大な相違を確認。関連原本の提出を命じる。対象、十年前の旧リーベル村調査記録、第一錬金炉古台帳、大型浄化炉事故報告書、ルカ・オルメイン元品質管理官提出報告書原本』
俺はその最後の一文から目を離せなかった。
ルカ・オルメイン元品質管理官提出報告書原本。
王都の机のどこかに、まだ残っているのだろうか。
それとも、もう消されているのだろうか。
提出印の跡だけが残った羊皮紙を思い出す。
もし原本が残っているなら、そこには赤線が見えるはずだ。
印を剥がした跡。
書き換えられた日付。
あるいは、消された注記。
セリオが封を閉じた。
「明朝、王都へ向かう」
「はい」
「ルカ・オルメイン」
「はい」
「君は容疑者として戻るのではない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「証人として、技術協力者として、そしてリーベル村の暫定水源管理者として戻る。勘違いするな」
少しだけ、息が楽になった。
「……わかりました」
夜、中央井戸の前に立った。
ミラも隣にいる。
今日は井戸を覗き込まない。
ただ、水音を聞いている。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
「お兄さん」
「どうした」
「王都の人がまた『誤差しか見えない無能』って言ったら?」
「たぶん、言うだろうな」
「怒る?」
「少しは」
「でも、記録する?」
「ああ。記録する」
ミラは満足したように頷いた。
「じゃあ、大丈夫」
「どうして?」
「お兄さんは、怒っても記録するから」
それは褒め言葉なのか、よくわからなかった。
だが、少しだけ笑ってしまった。
同じ夜。
王都、王立錬金術院。
院長室に、王宮監察局からの封書が届いた。
バルド・レイヴンは、封を切った瞬間から顔色を変えなかった。
文書を読み終えても、表情は変わらない。
だが、右手の金の指輪だけが、机の上で小さく音を立てた。
こつ。
こつ。
短い音だった。
「第一錬金炉管理室は、誰の許可で補足記録を出した」
室内にいた若い技官が、慌てて答えた。
「ヘルム主任が、古台帳の写しを王宮監察局へ……」
「余計なことを」
バルドの声は低かった。
「旧リーベル村は、十年前に自然枯渇と処理済みだ。今さら掘り返す必要はない」
「ですが、監察局は関連原本の提出を命じています」
「原本など、古い資料だ。整理中に散逸したものもあるだろう」
若い技官は返事をしなかった。
バルドは文書を机に置いた。
そこには、こう記されている。
『ルカ・オルメイン元品質管理官を、資料照合の技術協力者として同行させる』
バルドの指輪が、また机を叩いた。
こつ。
「あの男を、錬金術院に入れるな」
「しかし、王宮監察局の同行者として来るなら」
「入れるなと言った」
若い技官は青ざめた。
バルドは窓の外を見た。
王都の尖塔の奥、地下の第一錬金炉から、かすかな振動が上がっている。
最近は、その音が日ごとに乱れている。
ルカがいた頃は、こんな音はしなかった。
そう思いかけて、バルドはすぐにその考えを消した。
「誤差しか見えない無能が」
彼は小さく呟いた。
「今さら戻ってきて、何が見えるというのだ」
その問いに答える者はいなかった。
ただ、院長室の床下から、第一錬金炉の低い音が響いていた。
王都もまた、赤線を隠しきれなくなっていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第26話では、王立錬金術院の院長回答と、リーベル村の現地記録、第一錬金炉管理室の古台帳が食い違い始めました。
次回、第27話「王都へ戻る。ただし、謝るためではない」。ルカは証人として、技術協力者として、かつて追放された王立錬金術院へ向かいます。




