第一錬金炉の異常は、リーベル村の水脈とつながっていた
第20話です。
辺境市で持ち込まれた王都式浄水石をきっかけに、リーベル村の西方不明流路と王都の第一錬金炉がつながり始めます。
辺境市が終わった後も、リーベル村の中央井戸の音は重かった。
ぽちゃん。
いつもの音より、少し低い。
水が落ちる音というより、深いところで何かが引かれている音に近い。
俺は市の片づけを後回しにして、水番小屋の作業台に王都式浄水石を置いた。
行商人リードが持ち込んだ、灰色の小さな石だ。
王都の生活用水を通すための浄水石。
王立錬金術院にいた頃、俺も何度も検査したことがある。
ただし、目の前の浄水石は普通ではなかった。
石の表面に走る赤線は、ひび割れではない。
石そのものの劣化でもない。
赤線は、石の奥からさらに遠くへ伸びている。
方向は、西。
中央井戸で見えた西方不明流路。
旧鍛冶場の炉底石で見えた赤線。
それと同じ角度だった。
「ルカさん、石を井戸から離したほうがいいですか」
エルシアが短剣の柄に手を置いたまま言った。
彼女は第八話で長剣の亀裂を確認してから、まだ本来の剣を使っていない。
今も腰にあるのは短剣だ。
「すぐに危険が出る線ではありません。ただ、井戸の音が変わっています」
「石が原因ですか」
「石単体ではないと思います。これは……石を通して、別の場所のズレが見えている」
自分で言ってから、少し嫌な感覚がした。
王都では、こういう言い方をすると笑われた。
意味がわからない。証拠はどこだ。誤差しか見えない無能がまた騒いでいる。
けれど、リーベル村では誰も笑わなかった。
ミラは三滴印の箱を抱えたまま、浄水石をじっと見ていた。
「それ、井戸をいじめてるの?」
「まだ、そこまではわからない」
「じゃあ、いじめてるかどうか調べる?」
「ああ。調べる」
俺は記録帳を開いた。
まず、浄水石を中央井戸から水番小屋へ離した状態で記録する。
『王都式浄水石、第一錬金炉系統との証言あり。赤線方向、西。中央井戸音、通常より低い。浄水石を水番小屋へ移動して観察』
そこまで書いて、エルシアに頼んだ。
「石を布で包んで、村の入口まで運んでください。井戸から距離を取ります。俺は井戸の音を記録します」
「了解しました」
エルシアが浄水石を持って村の入口へ向かう。
ミラが手を上げた。
「わたしも行く」
「井戸から離れすぎるな。エルシアさんの横を歩け」
「わかった」
エルシアとミラが歩き出す。
浄水石が中央井戸から十歩、二十歩、三十歩と離れていく。
俺は井戸の縁に手を置き、耳を澄ませた。
ぽちゃん。
重い。
さらに離れる。
ぽちゃん。
少しだけ軽くなった。
「……反応している」
俺は記録帳へ書き込んだ。
『浄水石を井戸より離すと、中央井戸音がわずかに軽くなる。水量変化はまだ不明。赤線濃度、低下傾向』
ガイ老人が杖をついて、井戸の反対側に立った。
顔色は以前より良いが、その目は厳しい。
「今の音は、やはり十年前の春に似ている」
「どのくらい似ていますか」
「最初は、もっとかすかだった。桶を落としても水はあった。だが、底の音だけが重くなった。まるで、遠い誰かが井戸の底に縄をかけて、少しずつ引いているような音だった」
「その後、青い光が消えた」
「ああ」
ガイ老人は井戸を見下ろした。
「今日の音は、まだそこまでひどくはない。だが、同じ種類の音だ」
同じ種類。
それだけで十分だった。
まだ断定はできない。
だが、自然な詰まりではない。
外からの干渉だ。
エルシアが村の入口から戻ってきた。
手には布で包んだ浄水石がある。
「入口まで運びました。戻した途端、少し重くなったように感じました」
「感じたのですか」
「私には赤線は見えません。ただ、音は違います」
ガイ老人がうなずいた。
「騎士殿にも聞こえるなら、わしの耳だけではないな」
エルシアは少しだけ眉を寄せた。
「喜んでいい話ではありませんが、証言としては使えます」
俺は浄水石を受け取った。
布越しでも赤線は見える。
石の中心から西へ伸びる細い線。
それは中央井戸の底にある赤線と、同じ間隔で脈打っていた。
「次は旧鍛冶場です」
ガンズが、旧鍛冶場の入口で腕を組んで待っていた。
市の片づけをしていたはずだが、俺たちの様子を見て先回りしたらしい。
「やっぱりあの炉か」
「炉底石にも同じ方向の赤線がありました。確認します」
「壊すなよ。やっと火が戻ったところだ」
「壊しません。見るだけです」
「お前の見るだけは、たいてい面倒の始まりだ」
そう言いながらも、ガンズは炉の灰をどけてくれた。
炉底石が露出する。
三つの水滴に似た印と、小さな炉印。
その横に、西へ伸びる赤線がある。
俺は浄水石を炉底石から一尺ほど離して置いた。
その瞬間、炉の奥で炭が小さく爆ぜた。
ぱち。
ただの残り火ではない。
赤線が一瞬だけ濃くなった。
「反応しました」
「今、火が鳴ったな」
ガンズの声が低くなる。
「水の石で、炉が鳴るのか」
「普通は鳴りません」
「なら、普通じゃねえんだな」
「はい」
俺は炉底石、浄水石、中央井戸の方向を記録帳に書き込んだ。
線を引く。
中央井戸から西。
旧鍛冶場から西。
浄水石から西。
三本の線が、同じ方向を指している。
それだけでは場所は特定できない。
だが、同じ系統に触れている可能性は高い。
「ルカさん」
ネリアが南畑のほうから駆けてきた。
手には白露草の記録板を持っている。
「白露草の露が、少しだけ濁りました」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「採取は?」
「していません。葉先の露を小瓶に一滴だけ落として見ました。昨日までより、白い筋が乱れています。赤くはありません。ただ、いつもの白線が少し揺れています」
ネリアには赤線は見えない。
だが、彼女はこの数日で白露草の状態をよく覚えている。
見えるものは違っても、変化を見つけられる。
「南畑にも影響が出ていますね」
「中央井戸からですか」
「中央井戸から南畑へはつながっています。原因は西方流路か、浄水石か、あるいはその先です」
俺は浄水石を布に包み直した。
「この石は、封印して保管します。水番小屋ではなく、井戸から一番遠い家へ置きます。三滴印は押さない。リーベル産ではないからです。ただし、検体として記録します」
「検体札を作る?」
ミラがすぐに聞いた。
「作る。赤い札にしましょう。リーベルの品ではない、注意が必要な検体です」
「赤い札、わかった」
ミラは走り出しかけて、すぐに立ち止まった。
「走ったらだめ?」
「石を持っていないなら、走っていい」
「うん」
ミラは水番小屋へ駆けていった。
こういう時のミラは早い。
この村で最初に水音を聞いた子どもは、今では村の札を一番早く増やす助手になっている。
ドランは浄水石を見て、商人らしく難しい顔をしていた。
「第一錬金炉系統の浄水石に問題があるとなると、王都の品そのものに影響します」
「まだ問題とは断定できません」
「断定しなくても、商人は動きます。品薄で値が上がっているところへ、品質不良の疑いが出る。しかも、辺境のリーベル村で見つかったとなれば、面白がって運ぶ者もいるでしょう」
「広めないでください」
「広めません。今は」
ドランは正直に言った。
「ただし、記録は残します。あとで誰かが隠した時に、こちらが先に見つけていた証拠になりますから」
記録。
その言葉に、俺はうなずいた。
「お願いします。リードさんにも、この石を検体として預かる証書を渡します。勝手に没収した形にはしません」
「それがいいでしょう。商人の荷を取り上げたとなると、別の面倒が起きます」
リードは緊張した顔でうなずいた。
「預けます。正直、持って帰るのも怖いです」
「怖がらせるつもりはありません」
「いえ、怖いほうが助かります。王都では、濁っても『よくある不良』で済まされましたから」
その言葉が、少し引っかかった。
「よくある不良、と言われたのですか」
「はい。最近、第一錬金炉系統の浄水石は、濁りやすいものが多いと。けれど品薄だから、多少なら売れるって」
エルシアの表情が険しくなった。
「王都の生活用水に関わる品で、それを多少で済ませるのですか」
「商人の噂です。正式な話ではありません」
リードは慌てて付け加えた。
だが、十分だった。
炉が止まった。
浄水石が濁る。
品薄になっている。
第一錬金炉系統。
西方不明流路。
中央井戸の音が十年前と似ている。
断片が増えすぎている。
俺は記録帳を開き、順番に書いた。
『王都式浄水石、中央井戸から遠ざけると井戸音軽化。近づけると重化。旧鍛冶場炉底石、同石に反応。南畑白露草露、微弱変化。第一錬金炉系統浄水石に濁りやすい品が増えているとの証言あり』
そして、最後に少し迷ってから書く。
『仮説。第一錬金炉系統の異常は、リーベル村西方流路と干渉している可能性あり』
仮説。
まだ事実ではない。
だが、記録しなければ次に進めない。
エルシアが俺の手元を見た。
「王都へ報告しますか」
「報告するべきです。ただ、書き方を間違えると、ただの憶測になります」
「では、事実だけを書きます。浄水石の来歴、井戸音の変化、旧鍛冶場の反応、南畑の変化。あなたの仮説は別紙に分けましょう」
「助かります」
「それと、ルカさん」
「はい」
「あなたは王都に戻るつもりはありませんね」
突然の確認だった。
けれど、意味はわかった。
第一錬金炉。
王都の浄水石。
リーベルの水脈。
もし本当にそれらがつながっているなら、王都はまた俺を呼ぶかもしれない。
戻れ、と命じるかもしれない。
今度は処分の取り消しではなく、危機対応として。
俺は中央井戸を見た。
ぽちゃん。
音はまだ重い。
「戻りません」
俺は答えた。
「必要なら、記録は送ります。調査もします。ですが、俺の仕事場はここです。リーベルの井戸を放って、王都の炉だけを見ることはできません」
エルシアは静かにうなずいた。
「その答えを聞いておきたかっただけです」
ミラが赤い札を持って戻ってきた。
『王都式浄水石。リーベルの品ではありません。井戸からはなしておく』
少し字が曲がっている。
だが、意味は十分に伝わる。
「これでいい?」
「いい。下に、検体番号を書こう」
「けんたい?」
「調べるために預かるもの、という意味だ」
「じゃあ、調べ石」
「……それも札に書いておくか」
ミラは得意そうに笑い、赤い札の下に小さく書き足した。
『しらべ石』
ガンズがそれを見て吹き出した。
「王都式浄水石より、ずっとわかりやすいな」
「正式名ではありません」
「村で扱うなら、わかりやすいほうがいいだろ」
反論できなかった。
浄水石は、水番小屋から一番遠い空き家へ移した。
窓を閉め、赤い札を扉に掛け、エルシアが封印紐を結ぶ。
リードには預かり証を渡した。
ドランは商人ギルド宛に、内容を伏せた形で記録保存の依頼を書くと言った。
すべてが終わる頃、夜になっていた。
中央井戸の音は、昼より少し軽くなっている。
浄水石を遠ざけた影響だろう。
それでも、完全には戻っていない。
俺は井戸の縁に立ち、【修正眼】を使った。
赤線は、西へ伸びている。
今日初めて、それがどこかへつながっていると確信できた。
自然な詰まりではない。
ただの古い設備不良でもない。
王都の第一錬金炉系統と、リーベル村の水脈は、同じ赤線で揺れている。
俺は記録帳を閉じた。
同じ夜。
王都、王立錬金術院地下。
第一錬金炉管理室では、技官たちが眠れない顔で計器を見つめていた。
北東基準流路の圧は、朝から何度も上下している。
下がったかと思えば戻る。
戻ったかと思えば、また落ちる。
「主任、また揺れています」
若い技官が言った。
主任技官ヘルムは、壁に並ぶ古い計器を睨んだ。
「原因は」
「第一炉心ではありません。下層循環輪も、再起動後は回っています。ただ、北東基準流路だけが不安定です」
「北東基準流路……」
ヘルムは古い台帳を開いた。
そこには、何度も消された跡のある地名があった。
リーベル基準井。
その文字の横には、赤いインクで古い注記が残っている。
『基準井との接続弱化時、第一錬金炉系統浄水石に濁り発生。浄水石の不良ではなく、基準流路を確認すること』
ヘルムの手が止まった。
「……書いてあるじゃないか」
だが、今の錬金術院に、基準井を確認できる者はいない。
台帳の別頁には、最近まで貼られていたはずの小さな紙片の跡がある。
誰かが注記を剥がした跡だ。
ヘルムは、その空白を見つめた。
そこに何を書いていたのか、もうわからない。
だが、誰の字だったのかだけは想像がついた。
ルカ・オルメイン。
誤差しか見えない無能と呼ばれ、数日前に追放された品質管理官。
その男がいなくなってから、炉は止まり、薬品庫は乱れ、浄水石は濁り、第一錬金炉の基準流路は揺れている。
ヘルムは台帳を閉じた。
「北東辺境の旧リーベル村について、古い資料を全部出せ」
「旧リーベル村ですか」
「今すぐだ」
若い技官が走る。
その背後で、第一錬金炉の管理盤が低く鳴った。
赤い警告石が、一つだけ点滅している。
リーベル基準井。
王都の地下で、その名は十年ぶりに読み上げられようとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第20話では、王都式浄水石をきっかけに、リーベル村の西方不明流路と王都の第一錬金炉系統が干渉している可能性が明確になりました。
次回、第21話「廃村の所有権を主張する貴族」。リーベル村に価値が戻ったことで、今度は土地そのものを狙う者が現れます。




