辺境市、開かれる
第19話です。
水、白露草、規格部品、再生鉄。少しずつ価値を持ち始めたリーベル村に、初めての市が開かれます。
旧鍛冶場の炉を直した翌朝、リーベル村の入口には、ミラの書いた木札が三枚並んでいた。
『きょうは市です』
『リーベルの水は、じゅんばんをまもる』
『三滴印のないものを、リーベル産とは言いません』
最後の一枚だけ、文字が少し大きい。
おそらくミラなりに、一番大事だと思ったのだろう。
俺はその木札の前で立ち止まり、下に小さく補足を書き足した。
『本日は試験市。販売、交換、見本展示はすべて記録対象』
「試験市って、辺境市じゃないの?」
ミラが首を傾げた。
「呼び名は辺境市でいい。ただ、正式な商人ギルドの市ではありません。最初は試験です」
「また仮?」
「また仮です」
ミラは少しだけ口を尖らせた。
「リーベル、仮ばっかり」
「仮をきちんと積み重ねれば、正式になります」
「じゃあ、今日も記録する?」
「します」
俺が答えると、ミラは満足したようにうなずいた。
リーベル再開拓準備村。
暫定水源管理者。
仮水路。
試験取引。
そして今日の試験市。
確かに、今のリーベルには仮のものが多い。
だが、王都で正式な印をもらっていたものが正しかったとは限らない。
正式な報告書は握り潰された。
正式な検査印は消された。
正式な処分書で、俺は追放された。
なら、仮でもいい。
消されない記録のほうが、ずっと価値がある。
村の中央では、すでにドランが荷馬車の位置を決めていた。
「水は中央井戸の近く。薬草は南畑の入口。部品は東水路の横。再生鉄は旧鍛冶場へ運ばず、こちらに見本だけ置きましょう」
「白露草は売りません」
ネリアが少し強い声で言った。
彼女は南畑から運んできた小さな鉢を両手で抱えている。
鉢の中には、白露草の試験株が一本だけ植え替えられていた。
葉先には白い露が残っているが、根元には土ごと固定するための薄い布が巻かれている。
「これは見本です。根を傷めないよう、日が高くなったら南畑へ戻します。葉も採りません。粉にも加工しません」
「そこまで言わなくても、わかる者はわかりますよ」
ドランが言うと、ネリアは首を振った。
「わからない人のために書くのが、検査票です」
その答えに、ドランは一瞬目を丸くし、それから笑った。
「ずいぶんリーベルらしくなりましたね」
「褒めていますか」
「商人としては、かなり」
ネリアは少しだけ照れたように視線を落とした。
ガンズは東水路の近くで、木箱の上に部品を並べていた。
リーベル一番枠。
リーベル二番枠。
リーベル三番釘。
名前だけ聞けば大げさだが、実物は小さな木樋と留め金と釘だ。
一番枠は水路用の標準木樋。
二番枠は薬草畑へ細く水を送るための半幅木樋。
三番釘は、昨日、旧鍛冶場で廃鉄を打ち直して作った最初の釘だった。
数は少ない。
売れるほどない。
それでも、同じ形で作れる見本がある。
それだけで、今日の市には意味がある。
「おい、ルカ」
ガンズが三番釘を指で弾いた。
「これは売らねえぞ」
「売りません」
「見せるだけだ」
「はい」
「見せるだけで金を取るのか?」
「取りません」
「つまらねえな」
売りたいのか売りたくないのか、よくわからない。
俺は木箱の横に札を立てた。
『リーベル三番釘。再生鉄。村内廃鉄を旧鍛冶場で打ち直したもの。現時点では見本のみ。外部販売不可』
ミラが覗き込み、すぐ下に炭で書き足す。
『まだうれません』
「助かります」
「むずかしい字だけだと、また勝手に買おうとする人がいるから」
「そうですね」
ミラの札は、時々俺の記録より実用的だった。
昼前になると、南西の道から荷車が集まり始めた。
最初に来たのは、ハルカ村の寄合代表バーナンだった。
今日は空の樽ではなく、麻袋を三つ積んでいる。
「麦と干し豆を持ってきた」
バーナンは、中央井戸の前でそう言った。
「水と交換できるか」
「水の交換量は、今日の取水順に従います」
俺は水番小屋の札を示した。
『一、村の飲み水
二、来訪者の飲み水
三、南畑試験区
四、東水路の点検
五、外部持ち帰り用小瓶』
樽は、今日も最後にない。
バーナンは札を見て、渋い顔をした。
「樽はまだ駄目か」
「駄目です。中央井戸は安定していますが、大量取水には耐えません」
「わかっている。だから今日は小瓶でいい」
そう言って、彼は麻袋を下ろした。
「麦一袋を、リーベルの水小瓶五本と交換したい。残りは市場の飯に使え」
俺は少し驚いた。
「いいんですか」
「昨日、うちの年寄りが言っていた。リーベルの水は、ただ買うものじゃない。戻ってきたばかりなら、育てるものだとな」
ガイ老人が、中央井戸の縁で小さく笑った。
「まともな年寄りがいるな」
「口は悪いがな」
バーナンはそう返し、俺の検査票を待った。
俺は小瓶五本を検査した。
一本目。
二本目。
三本目。
四本目。
五本目。
危険な赤線はない。
ただし、五本目だけ瓶口の布に古い油の筋が見えた。
「この瓶は使えません」
「水は悪いのか」
「水ではなく、瓶口の布です。油が残っています。別の布に替えます」
バーナンは眉を上げた。
「そこまで見るのか」
「見えたので」
俺が答えると、彼は少しだけ笑った。
「なら、安心だ」
その言葉に、周囲の者たちが小さくざわついた。
水は、ただ透明ならいいわけではない。
入れる瓶、塞ぐ布、運ぶ手順。
そこまで含めて品質になる。
王都では、俺がそう言えば面倒がられただろう。
ここでは、それが安心になる。
市が始まると、村は急に音で満ちた。
荷車の車輪。
人の足音。
ミラが札を読み上げる声。
ガンズが釘を弾く音。
ネリアが白露草に触れようとする手を止める声。
ドランが帳面に取引を書き込む音。
リーベル村に、これほど人の声が響くのは十年ぶりかもしれない。
ただし、にぎわいは必ず誤差を連れてくる。
「白露草を一枚でいい。銀貨二枚出す」
南畑の見本鉢の前で、毛皮の外套を着た男が言った。
ネリアはすぐに首を振った。
「売りません。これは試験株の見本です」
「見本なら、一枚くらい問題ないだろう」
「問題あります」
「薬草師見習いが値を吊り上げるな。銀貨三枚」
その言い方に、俺は南畑へ向かった。
「白露草は販売品ではありません」
男は俺を見た。
「お前が噂の井戸番か」
「暫定水源管理者です」
「肩書きはどうでもいい。草を売れ。ここは市だろう」
「市ですが、すべてが売り物ではありません」
俺は見本鉢の札を指した。
『白露草試験株。採取禁止。販売不可。見本のみ。確認者、ネリア、ルカ』
ミラの札も隣にある。
『とらない。さわらない。ふまない』
男は舌打ちした。
「なら、何を売っているんだ」
「記録です」
「記録?」
「白露草がここにあり、まだ採取されていないという記録です。買えるものではありませんが、信用の元になります」
男は理解できないという顔をした。
だが、ドランが横から静かに言った。
「その記録があるから、次に本物が出た時、値がつきます。今日、無理に一枚売れば、次は誰も本物かどうかを信じません」
商人の言葉は、商人には届くらしい。
男は不満そうに鼻を鳴らし、白露草から手を離した。
ネリアは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「札があったから止められました」
「ミラちゃんの札ですね」
ミラは少し離れた場所で、得意そうに胸を張っていた。
次の誤差は、水の場所で起きた。
小柄な行商人が、古い樽を一つ転がしてきた。
「小瓶では足りない。こっちの樽に半分でいい。銀貨で払う」
「樽への注水は本日行いません」
俺が言うと、行商人はすぐに手を振った。
「飲み水じゃない。見本として持っていくだけだ。水が良ければ、次の市で大口をつける」
「その樽を見せてください」
「樽?」
「水を入れる容器も検査対象です」
行商人は嫌そうな顔をしたが、樽の蓋を開けた。
その瞬間、俺の視界に赤線が走った。
水の赤線ではない。
樽の内側に染み込んだ古い油と、発酵した酒の残りが筋になっている。
見た目は乾いているが、水を入れれば溶け出す。
「使えません」
「空樽だぞ」
「空ですが、清浄ではありません。この樽にリーベルの水を入れれば、持ち帰る途中で臭いが出ます。水が悪いと言われる」
行商人の顔色が変わった。
「そんなことはしない」
「するつもりがなくても、そうなります」
俺は記録帳を開いた。
『持ち込み樽一。内壁に油分、酒滓由来の赤線。飲用水用として使用不可。所有者へ返却』
行商人は周囲の視線に気づき、口を閉じた。
エルシアが一歩前に出る。
「リーベル水を持ち帰る場合、容器検査を受けてください。検査を拒む容器には水を入れません」
その声はよく通った。
市に来ていた者たちが、自然にうなずく。
面倒な規則だ。
だが、面倒な規則は、理由が見えれば守られる。
午後になる頃には、リーベル村の市には奇妙な列ができていた。
水を買う列ではない。
検査を受ける列だ。
水瓶を見てほしい者。
木樋の寸法を見てほしい者。
古い釘が再生できるか聞きたい者。
薬草畑に持ち込む土が危なくないか確認してほしい者。
俺一人では足りない。
「全部を今日見るのは無理です」
俺が言うと、ミラがすぐに木札を出した。
『きょう見られるもの』
その下に、俺は項目を書いた。
『水瓶、十個まで』
『木樋見本、五本まで』
『鉄くず、片手で持てる量まで』
『薬草土、袋一つまで』
ガンズがそれを見て、笑った。
「俺の仕事も増えてるじゃねえか」
「鉄くずはガンズさんが見てください」
「俺は市へ遊びに来たんじゃねえぞ」
「仕事をしに来たんですよね」
「言い返すようになったな、井戸番」
ガンズはそう言いながら、鉄くずの箱の前に座った。
ネリアは薬草土の袋を開き、匂いを確かめている。
ドランは取引帳をつけ、エルシアは入口で人の流れを整理する。
バーナンはハルカ村から来た若者たちに、水瓶の洗い方を教えていた。
ガイ老人は中央井戸の音を聞き、ミラは札を増やしていく。
俺は、ふと足を止めた。
リーベル村は、廃村だった。
壊れた家。乾いた井戸。雑草に飲まれた畑。誰も来ない道。
その場所に、今は人が並んでいる。
水を求め、記録を求め、部品を求め、自分の持ち込んだものを見てもらうために並んでいる。
俺が何か大きな奇跡を起こしたわけではない。
井戸の詰まりを剥がした。
水の順番を決めた。
畑のズレを直した。
木樋を同じ形にした。
偽物を記録で否定した。
古い炉を起こした。
一つ一つは小さい。
けれど、小さな修正が積み重なると、村の音が変わる。
井戸の音だけではない。
人の声も、槌の音も、荷車の音も、記録帳に羽ペンが走る音も、今はリーベルの音になっていた。
夕方、市の終わりに、ドランが取引帳を閉じた。
「本日の記録です」
彼は俺に帳面を見せた。
水小瓶、二十三本。
麦、干し豆、布、薪との交換。
リーベル一番枠の見本注文、七件。
二番枠の試作依頼、三件。
三番釘の再生相談、五件。
白露草は販売なし。見本確認者、十四名。
検査票発行、十二枚。
容器不合格、四件。
「市としては小さいです」
ドランは言った。
「ですが、試験市としては十分です。次は人が増えます」
「増えますか」
「間違いなく」
ガンズが肩を回した。
「勘弁しろ。今日だけで鉄くずを三箱見たぞ」
「次は鉄くず用の札を作りましょう」
ミラが言う。
「もう作るのか」
「作らないと、みんなガンズさんにそのまま渡しちゃう」
「それは困るな」
ガンズは真顔でうなずいた。
市は無事に終わった。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
最後の荷車が帰ろうとした時、一人の若い行商人が、荷台の奥から布包みを取り出した。
「ルカさん、これも見てもらえますか」
彼は今日の市の最初の頃に、水瓶の検査を受けた男だった。
名前はたしか、リード。
王都と南西の町を行き来していると言っていた。
「何ですか」
「王都で仕入れた浄水石です。最近、妙に濁るものが多くて。リーベルの水を見る人なら、これも見えるかと思って」
布を開くと、掌ほどの灰色の石が出てきた。
浄水石。
王都の生活用水を通す小型の魔石だ。
王立錬金術院でも、検査対象として何度も見たことがある。
俺は石へ視線を向けた。
次の瞬間、背筋が冷えた。
赤線が走っている。
石の中ではない。
石を通して、ずっと遠くへ伸びるような赤線だった。
方向は、西。
中央井戸の底で見た西方不明流路。
旧鍛冶場の炉底石で見た赤線。
それと同じ角度で、浄水石の中にも細い赤線が脈打っている。
「どこで仕入れましたか」
俺の声は、少し硬くなっていた。
リードは戸惑いながら答えた。
「王都の外れです。第一錬金炉の系統で作られた浄水石だと聞きました。最近、品薄で値が上がっていて」
「第一錬金炉……」
その名前を聞いた瞬間、エルシアがこちらを見た。
ドランの表情も変わる。
俺は浄水石を手の上で転がした。
赤線は消えない。
むしろ、中央井戸の水音に合わせるように、わずかに揺れている。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
井戸の音が、いつもより少し重い。
ガイ老人もそれに気づいたのか、中央井戸へ顔を向けた。
「ルカさん」
老人の声が低い。
「今の音は、十年前の春に似ている」
市のにぎわいが、一瞬で遠くなった。
俺は記録帳を開き、震えないように文字を書いた。
『辺境市、第一回終了。水、白露草、規格部品、再生鉄の試験取引を実施。大きな事故なし。市場記録、保管』
そこまで書いて、次の行に移る。
『王都式浄水石に赤線。第一錬金炉系統との証言あり。赤線方向、西。中央井戸西方不明流路、旧鍛冶場炉底石の赤線と同方向』
最後に、もう一行。
『井戸音、変化。要緊急確認』
市は終わった。
けれど、リーベル村に人と荷車が集まったその日、俺たちは別のものまで呼び込んでしまったのかもしれない。
王都の炉。
リーベルの井戸。
西へ伸びる不明流路。
それらは、まだ言葉にはならない。
だが、俺には見えていた。
市の終わった夕暮れの中で、中央井戸の底から伸びる赤線が、初めて王都の浄水石と同じ色で脈打っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第19話では、リーベル村で初めての辺境市が開かれ、水、白露草、規格部品、再生鉄が外の人々に見られることになりました。
次回、第20話「第一錬金炉の異常は、リーベル村の水脈とつながっていた」。市で持ち込まれた王都の浄水石をきっかけに、リーベルの西方流路と王都側の異常がつながり始めます。




