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11/30

水が戻った村には、人も問題も戻ってくる

第11話です。

再開拓準備村となったリーベルに、今度は水を求める人たちがやって来ます。

リーベル再開拓準備村。


 古い村札の下に打ちつけられた新しい板は、朝になると少しだけ傾いていた。


 俺には、その右上に細い赤線が見える。

 釘の打ち込みが浅い。強い風が吹けば、板ごと落ちる。


「そこも直すの?」


 隣でミラが尋ねた。


「直す。けど、今は優先順位が低い」


「ゆうせんじゅんい」


「先にやる順番だ」


 ミラは真剣にうなずき、手に持っていた小さな板を見下ろした。

 そこには、炭で大きくこう書かれている。


『水あります。勝手に飲まないでください』


 昨日の札は、夜の湿気で文字がにじんだ。

 だから今朝、エルシアが板を削り直し、ネリアが炭を濃く溶き、ミラがもう一度書いた。


 字は曲がっている。

 けれど、意味ははっきりしている。


 今のリーベル村で、一番大事な規則だった。


 中央井戸の水音は、今朝も続いている。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 昨日よりも、少しだけ間隔が短い。

 水面も上がっていた。


 だが、安心して使える量にはまだ遠い。

 一回目に汲んだ水には、制御陣に付着していた白い結晶の欠片が混じる。二回目以降は飲めるが、布で濾す必要がある。


 しかも、水を急に増やせば、中央制御環に負荷が戻る。

 南畑の白露草も、北森の結界柱も、まだ応急状態だ。


 水は戻った。

 けれど、自由に使えるわけではなかった。


「ミラ。もう一枚、札を作る」


「なんて書くの?」


「一回目の水は捨てる。二回目から布で濾して使う」


「長い」


「長いが、必要だ」


 ミラは少し考え込んだ。

 それから、別の板に炭でゆっくり書く。


『一回目はすてる。二回目からのむ』


「どう?」


「わかりやすい」


 俺が言うと、ミラは得意そうに胸を張った。


「助手だから」


 王都では、こういう仕事は雑用と呼ばれただろう。

 ここでは、村を守る作業だった。


「ルカさん」


 エルシアが村の入口から戻ってきた。

 外套の前を留め、左腰の短剣に手を添えている。長剣はまだ使えない。鍔元の亀裂は布で巻いてあるが、強く振れば折れる。


「南の道に足跡があります」


「足跡?」


「大人が二人、子どもが一人。荷物を引きずった跡もあります」


 人だ。


 水が戻れば、人が来る。

 ドランも、ネリアも、エルシアもそう言っていた。


 ただ、こんなに早いとは思っていなかった。


「流民でしょうか」


「まだわかりません。ただ、村の入口で足を止めています。こちらを見ています」


 俺は中央井戸を見た。


 飲ませる水はある。

 だが、好きなだけ汲ませられる水はない。


 新しく人が来るなら、飲み水だけでは済まない。

 寝る場所。食料。火。薬。排泄場所。井戸の使い方。畑への立ち入り。

 全部、決める必要がある。


 井戸の詰まりは見える。

 結界柱の傾きも見える。

 白露草の根の赤線も見える。


 だが、人が増えた時に起きる問題は、赤線としては見えない。


「会いに行きます」


「私も行きます」


 エルシアは即答した。


「ミラはガイさんの家へ」


「助手は?」


「今回の助手の仕事は、入口の札を守ることだ。誰かが勝手に井戸へ行こうとしたら、俺かエルシアさんを呼ぶ」


 ミラは少し不満そうだったが、すぐにうなずいた。


「わかった」


 村の入口へ向かうと、壊れた柵の向こうに三人の姿があった。


 男が一人。

 女が一人。

 子どもが一人。


 男は片足を少し引きずっている。

 女は大きな包みを背負い、片手で子どもの肩を押さえていた。

 子どもは六つか七つほどだろう。顔色が悪く、唇が乾いている。


 俺たちが近づくと、男は慌てて頭を下げた。


「す、すみません。村に入るつもりはありません。ただ、札を見て」


 男の目は、入口の札ではなく、その奥の中央井戸へ向いていた。


 水の匂いを感じているのだろう。

 いや、乾いた体には、水の気配そのものがわかるのかもしれない。


 エルシアが一歩前に出た。


「身元を」


「ロウムと言います。妻のサナ、息子のトトです。南の街道沿いで炭焼きをしていましたが、井戸が濁って、家畜も死んで、もう残れなくなりました」


「どこの村の所属ですか」


「所属はありません。炭焼き小屋です。税は南の宿場町へ払っていました」


 エルシアは男の荷物と腰を確認した。

 短い鉈はあるが、炭焼きなら道具として持っていてもおかしくない。


「水を求めて来たのですね」


 エルシアが言うと、ロウムは唇を噛んだ。


「はい。噂を聞いたわけではありません。煙が見えて、村札を見て、それで……水があると」


 トトが小さく咳をした。


 飲ませるべきだ。

 そう思った。


 だが、無制限には出せない。

 最初の水は捨てる必要がある。

 水を渡すなら、量を測らなければならない。


 今ここで好きに汲ませれば、次に来た人も同じように求める。

 それを続ければ、せっかく戻った水脈を傷める。


 助けたい。

 だが、助け方を間違えれば、村も井戸も壊れる。


「水はあります」


 俺は言った。


 ロウムの顔が明るくなる。

 だが、俺は続けた。


「ただし、井戸は応急復旧中です。勝手に汲めません。一回目の水は捨てる。二回目以降を布で濾す。量は、一人一杯ずつからです」


 ロウムの表情が少し曇った。


「一杯だけ、ですか」


「今は」


「息子が、二日ほとんど飲んでいません」


「だから、一気に飲ませないほうがいい」


 俺はできるだけ静かに言った。


「乾いた体に大量の水を入れると、吐くことがあります。まず口を湿らせて、少しずつです」


 サナが息子を抱き寄せた。


「お医者様ですか」


「違います。井戸の状態を見ているだけです」


 エルシアが短く言う。


「ですが、従ってください。水源管理者の判断です」


 水源管理者。


 昨日から文書上はそうなった。

 だが、まだその言葉には慣れない。


 俺は井戸へ向かい、即席の桶を下ろした。


 一回目の水を汲む。

 白い粒が混ざっているのを確認し、乾いた土へ捨てた。


 ロウムが思わず声を上げる。


「捨てるんですか」


「必要な手順です」


 二回目の水を汲み、布で濾し、木杯に少しだけ注ぐ。

 まず自分で一口飲む。


 赤線はない。


「飲めます」


 トトに渡すと、子どもは両手で杯を掴んだ。

 サナが慌てて支える。


「少しずつ」


 俺が言うと、トトはほんの少しだけ口をつけた。


 次の瞬間、子どもの目が揺れた。


「つめたい」


 ミラが小さくうなずいた。


「リーベルの水、冷たいんだよ」


 その言い方に、俺は少しだけ手を止めた。


 ミラはもう、この水を自分の村のものとして語っている。


 それは嬉しいことだった。

 同時に、責任が増えるということでもあった。


 ロウムとサナにも水を渡した。

 二人とも、杯を見つめてから、ゆっくり飲んだ。


 ロウムは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。代金は、今は銅貨が少ししかありません。炭ならあります。鉈も使えます。家の修理くらいなら」


「滞在を希望しますか」


 エルシアが確認する。


 ロウムは一瞬、妻を見た。


「できれば、二、三日だけ。息子が歩けるようになるまでで構いません」


 俺はエルシアを見た。


 彼女はすぐには答えなかった。

 当然だ。


 リーベル村は、再開拓準備村として臨時保全指定を受けただけだ。

 人を受け入れる準備はない。

 空き家はあるが、屋根は落ちている。

 食料も限られている。

 水もまだ完全ではない。


「受け入れるなら、条件が必要です」


 エルシアが言った。


「勝手な取水は禁止。南畑と北森境界への立ち入りは禁止。夜は指定した家から出ない。火の管理はガイさんの指示に従う。それから、入村者として名前を記録します」


「記録、ですか」


 ロウムが少し身を固くした。


 その反応はわかる。

 王都や役所の記録は、人を守ることもあれば、縛ることもある。


 俺も、記録で追放されたようなものだ。


 だが、今の村では必要だった。


「誰がいるかわからない村は危険です」


 俺は言った。


「火を使う人、水を汲む人、薬草畑に近づく人。全部、把握しないと事故になります」


 ロウムは少し黙り、それからうなずいた。


「わかりました。書いてください」


 エルシアが手帳を開く。

 俺は別の紙を用意し、見出しを書いた。


『リーベル再開拓準備村 入村記録』


 その文字を見て、ガイ老人が家の戸口から低く笑った。


「村らしくなってきたな」


「人が増えただけです」


「村は、人が増えて面倒が増える場所だ」


 ガイ老人はそう言った。


「面倒がない村は、廃村だ」


 それは、妙に説得力のある言葉だった。


 ロウム一家を泊める場所は、中央井戸から三軒離れた空き家に決めた。

 屋根は半分残っている。

 壁の一部は崩れているが、火を焚かなければ今夜はしのげる。


 俺は入口と梁を見た。


 赤線が三箇所。

 黄線が一箇所。


「この梁には触らないでください。押すと落ちます。寝るなら奥ではなく入口側。雨が降ったら使えません」


 ロウムは真剣にうなずいた。


「直せますか」


「応急なら。ですが、今すぐ全部は無理です」


「俺が手伝います。炭焼き小屋は何度も直しました」


 手は足りない。

 だが、技術があるかどうかわからない人に壊れた家を任せれば、事故になる。


「まず、俺が危険箇所に印をつけます。触っていい場所と、触ってはいけない場所を分ける。それから作業です」


「わかりました」


 ミラが横から言った。


「お兄さん、家のお医者さんもできるの?」


「ただ危ない場所が見えるだけだ」


「それ、できるってことだよ」


 ネリアが南畑から戻ってきて、くすりと笑った。


「この村では、井戸のお医者さんで、畑のお医者さんで、結界のお医者さんで、今度は家のお医者さんですね」


「増やさないでください」


 エルシアが淡々と言う。


「役職名が増えると、報告書が面倒です」


「そこですか」


「そこも重要です」


 少しだけ空気が緩んだ。


 しかし、問題はすぐに戻ってきた。


 昼前、一人の老人が村へ来た。

 背中に空の水瓶を三つ背負い、杖をついている。


「水を分けてくれ」


 それが第一声だった。


 エルシアが身元を尋ねると、老人は南西のハルカ村から来たと言った。

 村の井戸が濁り、家畜の水にも困っているらしい。


 飲み水だけではない。

 家畜の水。

 畑の水。

 薬草の水。

 鍛冶に使う水。


 水が戻れば、それを求める理由はいくらでも出てくる。


 俺は老人に一杯だけ水を渡した。

 水瓶三つを満たすことは断った。


 老人は不満そうだった。


「井戸があるのに、なぜ出せん」


「井戸が完全に戻っていないからです」


「水音はしている」


「音がしているからこそ、壊さないように使う必要があります」


「難しいことを言うな。水は水だろう」


 俺は言葉に詰まった。


 水は水。

 たしかにそうだ。


 だが、この井戸の水はただの水ではない。

 古代式の制御陣を通り、中央制御環から南畑と北森へ流れを分ける、まだ不安定な水脈の一部だ。


 説明すれば長くなる。

 長くなれば、相手は苛立つ。


 王都で何度も経験したことだった。


 その時、ガイ老人が椅子から立ち上がった。


「水は水だ。だが、井戸は井戸だ」


 老人がガイを見た。


「何だと」


「水を出すには井戸を守らにゃならん。井戸を守るには順番を守らにゃならん。昔からそうだ。好き勝手に汲む者がいる村は、井戸を枯らす」


 ガイ老人の声はかすれている。

 だが、井戸番の言葉には重みがあった。


 エルシアが静かに言う。


「本日は、飲用分のみ渡します。家畜用、畑用の取水は認めません。必要であれば、明日以降、代表者を立てて正式に申し出てください」


 老人は渋い顔をしたが、最後にはうなずいた。


「明日、村の者を連れてくる」


 そう言って、水を一杯だけ受け取って帰っていった。


 俺はその背中を見送った。


「明日、また来るそうです」


「でしょうね」


 エルシアは手帳に書きながら答えた。


「これで、来訪者は一日で二組です」


「水量は足りますか」


「足りません」


 俺は即答した。


 中央井戸の水量は、昨日より増えている。

 だが、村外の人間へ継続して分けられる量ではない。


 しかも、人が来れば、汚れも増える。

 井戸周りの土が踏み固められる。

 捨てた水がどこへ流れるかも考えなければならない。

 排水が中央井戸へ戻れば、水質が落ちる。


 水源を戻しただけでは、村は動かない。


 水を汲む場所。

 水を捨てる場所。

 泊まる場所。

 火を使う場所。

 薬草畑に近づいてはいけない範囲。


 全部、線を引く必要がある。


「エルシアさん」


「はい」


「村の中に、取水場所を分ける必要があります。今は全員が中央井戸へ来てしまう。飲む人、洗う人、捨てる人が同じ場所に集まると危険です」


「なら、水場を分ける?」


「本来は、そうだったはずです。中央井戸、北森井戸、南畑井戸。三本の井戸がそれぞれ役割を持っていた。中央だけを使うから無理が出る」


 エルシアはすぐに理解したようだった。


「つまり、次に直すべきは水路ですか」


「はい。少なくとも、中央井戸の負荷を下げるための仮水路が必要です。生活用の水を少し離れた場所へ流す。洗い物や捨て水を井戸の周りでさせないために」


「北森井戸と南畑井戸ではなく?」


「そちらも見ます。ただ、今すぐ全部は無理です。まず、中央井戸を守るための仮水路です」


 また優先順位だ。


 何を先に直すか。

 誰に先に水を渡すか。

 どの場所を立ち入り禁止にするか。


 王都では、俺は誤差を報告するだけだった。

 ここでは、報告した後に決めなければならない。


 夕方、南の道からまた人の声が聞こえた。


 今度は、一人ではなかった。


 村の入口へ向かうと、五人の男たちが立っていた。

 背後には荷車が一台。

 荷車には、空の樽が二つ積まれている。


 先頭の男は、四十代ほど。

 厚手の上着を着て、腰に古い短剣を下げている。

 旅人というより、村の代表者のような雰囲気だった。


「ここがリーベル村か」


 男は札を見て、眉を寄せた。


「水が戻ったというのは、本当か」


 エルシアが一歩前に出る。


「身元を名乗ってください」


「南西のハルカ村、寄合代表のバーナンだ。うちの井戸が濁った。家畜も畑も限界だ。水を分けてもらいに来た」


 昼に来た老人の村だ。


 そして、空の樽が二つ。


 飲み水だけではない。

 大量取水を求めている。


 ミラが俺の袖を握った。


「お兄さん」


 俺は中央井戸の水音を聞いた。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 水は戻った。

 人も戻ってきた。


 だが、問題も一緒に戻ってきた。


 井戸の赤線よりも、村の線引きのほうが難しいかもしれない。


 それでも、決めなければならない。


 俺はバーナンと空の樽を見て、静かに言った。


「水はあります。ですが、樽二つ分は出せません」


 男たちの表情が変わった。


 中央井戸の水音が、壊れた村の中に落ちる。


 ぽちゃん。


 その音は、今までで一番重く聞こえた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第11話では、水が戻ったことで人も戻り、リーベル村が「水をどう使うか」を決めなければならなくなりました。

次回、第12話「水路を直すには、村の順番を決めなければならない」。中央井戸の水を守るため、ルカは村の水路と取水の順番を決めることになります。

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