水が戻った村には、人も問題も戻ってくる
第11話です。
再開拓準備村となったリーベルに、今度は水を求める人たちがやって来ます。
リーベル再開拓準備村。
古い村札の下に打ちつけられた新しい板は、朝になると少しだけ傾いていた。
俺には、その右上に細い赤線が見える。
釘の打ち込みが浅い。強い風が吹けば、板ごと落ちる。
「そこも直すの?」
隣でミラが尋ねた。
「直す。けど、今は優先順位が低い」
「ゆうせんじゅんい」
「先にやる順番だ」
ミラは真剣にうなずき、手に持っていた小さな板を見下ろした。
そこには、炭で大きくこう書かれている。
『水あります。勝手に飲まないでください』
昨日の札は、夜の湿気で文字がにじんだ。
だから今朝、エルシアが板を削り直し、ネリアが炭を濃く溶き、ミラがもう一度書いた。
字は曲がっている。
けれど、意味ははっきりしている。
今のリーベル村で、一番大事な規則だった。
中央井戸の水音は、今朝も続いている。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
昨日よりも、少しだけ間隔が短い。
水面も上がっていた。
だが、安心して使える量にはまだ遠い。
一回目に汲んだ水には、制御陣に付着していた白い結晶の欠片が混じる。二回目以降は飲めるが、布で濾す必要がある。
しかも、水を急に増やせば、中央制御環に負荷が戻る。
南畑の白露草も、北森の結界柱も、まだ応急状態だ。
水は戻った。
けれど、自由に使えるわけではなかった。
「ミラ。もう一枚、札を作る」
「なんて書くの?」
「一回目の水は捨てる。二回目から布で濾して使う」
「長い」
「長いが、必要だ」
ミラは少し考え込んだ。
それから、別の板に炭でゆっくり書く。
『一回目はすてる。二回目からのむ』
「どう?」
「わかりやすい」
俺が言うと、ミラは得意そうに胸を張った。
「助手だから」
王都では、こういう仕事は雑用と呼ばれただろう。
ここでは、村を守る作業だった。
「ルカさん」
エルシアが村の入口から戻ってきた。
外套の前を留め、左腰の短剣に手を添えている。長剣はまだ使えない。鍔元の亀裂は布で巻いてあるが、強く振れば折れる。
「南の道に足跡があります」
「足跡?」
「大人が二人、子どもが一人。荷物を引きずった跡もあります」
人だ。
水が戻れば、人が来る。
ドランも、ネリアも、エルシアもそう言っていた。
ただ、こんなに早いとは思っていなかった。
「流民でしょうか」
「まだわかりません。ただ、村の入口で足を止めています。こちらを見ています」
俺は中央井戸を見た。
飲ませる水はある。
だが、好きなだけ汲ませられる水はない。
新しく人が来るなら、飲み水だけでは済まない。
寝る場所。食料。火。薬。排泄場所。井戸の使い方。畑への立ち入り。
全部、決める必要がある。
井戸の詰まりは見える。
結界柱の傾きも見える。
白露草の根の赤線も見える。
だが、人が増えた時に起きる問題は、赤線としては見えない。
「会いに行きます」
「私も行きます」
エルシアは即答した。
「ミラはガイさんの家へ」
「助手は?」
「今回の助手の仕事は、入口の札を守ることだ。誰かが勝手に井戸へ行こうとしたら、俺かエルシアさんを呼ぶ」
ミラは少し不満そうだったが、すぐにうなずいた。
「わかった」
村の入口へ向かうと、壊れた柵の向こうに三人の姿があった。
男が一人。
女が一人。
子どもが一人。
男は片足を少し引きずっている。
女は大きな包みを背負い、片手で子どもの肩を押さえていた。
子どもは六つか七つほどだろう。顔色が悪く、唇が乾いている。
俺たちが近づくと、男は慌てて頭を下げた。
「す、すみません。村に入るつもりはありません。ただ、札を見て」
男の目は、入口の札ではなく、その奥の中央井戸へ向いていた。
水の匂いを感じているのだろう。
いや、乾いた体には、水の気配そのものがわかるのかもしれない。
エルシアが一歩前に出た。
「身元を」
「ロウムと言います。妻のサナ、息子のトトです。南の街道沿いで炭焼きをしていましたが、井戸が濁って、家畜も死んで、もう残れなくなりました」
「どこの村の所属ですか」
「所属はありません。炭焼き小屋です。税は南の宿場町へ払っていました」
エルシアは男の荷物と腰を確認した。
短い鉈はあるが、炭焼きなら道具として持っていてもおかしくない。
「水を求めて来たのですね」
エルシアが言うと、ロウムは唇を噛んだ。
「はい。噂を聞いたわけではありません。煙が見えて、村札を見て、それで……水があると」
トトが小さく咳をした。
飲ませるべきだ。
そう思った。
だが、無制限には出せない。
最初の水は捨てる必要がある。
水を渡すなら、量を測らなければならない。
今ここで好きに汲ませれば、次に来た人も同じように求める。
それを続ければ、せっかく戻った水脈を傷める。
助けたい。
だが、助け方を間違えれば、村も井戸も壊れる。
「水はあります」
俺は言った。
ロウムの顔が明るくなる。
だが、俺は続けた。
「ただし、井戸は応急復旧中です。勝手に汲めません。一回目の水は捨てる。二回目以降を布で濾す。量は、一人一杯ずつからです」
ロウムの表情が少し曇った。
「一杯だけ、ですか」
「今は」
「息子が、二日ほとんど飲んでいません」
「だから、一気に飲ませないほうがいい」
俺はできるだけ静かに言った。
「乾いた体に大量の水を入れると、吐くことがあります。まず口を湿らせて、少しずつです」
サナが息子を抱き寄せた。
「お医者様ですか」
「違います。井戸の状態を見ているだけです」
エルシアが短く言う。
「ですが、従ってください。水源管理者の判断です」
水源管理者。
昨日から文書上はそうなった。
だが、まだその言葉には慣れない。
俺は井戸へ向かい、即席の桶を下ろした。
一回目の水を汲む。
白い粒が混ざっているのを確認し、乾いた土へ捨てた。
ロウムが思わず声を上げる。
「捨てるんですか」
「必要な手順です」
二回目の水を汲み、布で濾し、木杯に少しだけ注ぐ。
まず自分で一口飲む。
赤線はない。
「飲めます」
トトに渡すと、子どもは両手で杯を掴んだ。
サナが慌てて支える。
「少しずつ」
俺が言うと、トトはほんの少しだけ口をつけた。
次の瞬間、子どもの目が揺れた。
「つめたい」
ミラが小さくうなずいた。
「リーベルの水、冷たいんだよ」
その言い方に、俺は少しだけ手を止めた。
ミラはもう、この水を自分の村のものとして語っている。
それは嬉しいことだった。
同時に、責任が増えるということでもあった。
ロウムとサナにも水を渡した。
二人とも、杯を見つめてから、ゆっくり飲んだ。
ロウムは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。代金は、今は銅貨が少ししかありません。炭ならあります。鉈も使えます。家の修理くらいなら」
「滞在を希望しますか」
エルシアが確認する。
ロウムは一瞬、妻を見た。
「できれば、二、三日だけ。息子が歩けるようになるまでで構いません」
俺はエルシアを見た。
彼女はすぐには答えなかった。
当然だ。
リーベル村は、再開拓準備村として臨時保全指定を受けただけだ。
人を受け入れる準備はない。
空き家はあるが、屋根は落ちている。
食料も限られている。
水もまだ完全ではない。
「受け入れるなら、条件が必要です」
エルシアが言った。
「勝手な取水は禁止。南畑と北森境界への立ち入りは禁止。夜は指定した家から出ない。火の管理はガイさんの指示に従う。それから、入村者として名前を記録します」
「記録、ですか」
ロウムが少し身を固くした。
その反応はわかる。
王都や役所の記録は、人を守ることもあれば、縛ることもある。
俺も、記録で追放されたようなものだ。
だが、今の村では必要だった。
「誰がいるかわからない村は危険です」
俺は言った。
「火を使う人、水を汲む人、薬草畑に近づく人。全部、把握しないと事故になります」
ロウムは少し黙り、それからうなずいた。
「わかりました。書いてください」
エルシアが手帳を開く。
俺は別の紙を用意し、見出しを書いた。
『リーベル再開拓準備村 入村記録』
その文字を見て、ガイ老人が家の戸口から低く笑った。
「村らしくなってきたな」
「人が増えただけです」
「村は、人が増えて面倒が増える場所だ」
ガイ老人はそう言った。
「面倒がない村は、廃村だ」
それは、妙に説得力のある言葉だった。
ロウム一家を泊める場所は、中央井戸から三軒離れた空き家に決めた。
屋根は半分残っている。
壁の一部は崩れているが、火を焚かなければ今夜はしのげる。
俺は入口と梁を見た。
赤線が三箇所。
黄線が一箇所。
「この梁には触らないでください。押すと落ちます。寝るなら奥ではなく入口側。雨が降ったら使えません」
ロウムは真剣にうなずいた。
「直せますか」
「応急なら。ですが、今すぐ全部は無理です」
「俺が手伝います。炭焼き小屋は何度も直しました」
手は足りない。
だが、技術があるかどうかわからない人に壊れた家を任せれば、事故になる。
「まず、俺が危険箇所に印をつけます。触っていい場所と、触ってはいけない場所を分ける。それから作業です」
「わかりました」
ミラが横から言った。
「お兄さん、家のお医者さんもできるの?」
「ただ危ない場所が見えるだけだ」
「それ、できるってことだよ」
ネリアが南畑から戻ってきて、くすりと笑った。
「この村では、井戸のお医者さんで、畑のお医者さんで、結界のお医者さんで、今度は家のお医者さんですね」
「増やさないでください」
エルシアが淡々と言う。
「役職名が増えると、報告書が面倒です」
「そこですか」
「そこも重要です」
少しだけ空気が緩んだ。
しかし、問題はすぐに戻ってきた。
昼前、一人の老人が村へ来た。
背中に空の水瓶を三つ背負い、杖をついている。
「水を分けてくれ」
それが第一声だった。
エルシアが身元を尋ねると、老人は南西のハルカ村から来たと言った。
村の井戸が濁り、家畜の水にも困っているらしい。
飲み水だけではない。
家畜の水。
畑の水。
薬草の水。
鍛冶に使う水。
水が戻れば、それを求める理由はいくらでも出てくる。
俺は老人に一杯だけ水を渡した。
水瓶三つを満たすことは断った。
老人は不満そうだった。
「井戸があるのに、なぜ出せん」
「井戸が完全に戻っていないからです」
「水音はしている」
「音がしているからこそ、壊さないように使う必要があります」
「難しいことを言うな。水は水だろう」
俺は言葉に詰まった。
水は水。
たしかにそうだ。
だが、この井戸の水はただの水ではない。
古代式の制御陣を通り、中央制御環から南畑と北森へ流れを分ける、まだ不安定な水脈の一部だ。
説明すれば長くなる。
長くなれば、相手は苛立つ。
王都で何度も経験したことだった。
その時、ガイ老人が椅子から立ち上がった。
「水は水だ。だが、井戸は井戸だ」
老人がガイを見た。
「何だと」
「水を出すには井戸を守らにゃならん。井戸を守るには順番を守らにゃならん。昔からそうだ。好き勝手に汲む者がいる村は、井戸を枯らす」
ガイ老人の声はかすれている。
だが、井戸番の言葉には重みがあった。
エルシアが静かに言う。
「本日は、飲用分のみ渡します。家畜用、畑用の取水は認めません。必要であれば、明日以降、代表者を立てて正式に申し出てください」
老人は渋い顔をしたが、最後にはうなずいた。
「明日、村の者を連れてくる」
そう言って、水を一杯だけ受け取って帰っていった。
俺はその背中を見送った。
「明日、また来るそうです」
「でしょうね」
エルシアは手帳に書きながら答えた。
「これで、来訪者は一日で二組です」
「水量は足りますか」
「足りません」
俺は即答した。
中央井戸の水量は、昨日より増えている。
だが、村外の人間へ継続して分けられる量ではない。
しかも、人が来れば、汚れも増える。
井戸周りの土が踏み固められる。
捨てた水がどこへ流れるかも考えなければならない。
排水が中央井戸へ戻れば、水質が落ちる。
水源を戻しただけでは、村は動かない。
水を汲む場所。
水を捨てる場所。
泊まる場所。
火を使う場所。
薬草畑に近づいてはいけない範囲。
全部、線を引く必要がある。
「エルシアさん」
「はい」
「村の中に、取水場所を分ける必要があります。今は全員が中央井戸へ来てしまう。飲む人、洗う人、捨てる人が同じ場所に集まると危険です」
「なら、水場を分ける?」
「本来は、そうだったはずです。中央井戸、北森井戸、南畑井戸。三本の井戸がそれぞれ役割を持っていた。中央だけを使うから無理が出る」
エルシアはすぐに理解したようだった。
「つまり、次に直すべきは水路ですか」
「はい。少なくとも、中央井戸の負荷を下げるための仮水路が必要です。生活用の水を少し離れた場所へ流す。洗い物や捨て水を井戸の周りでさせないために」
「北森井戸と南畑井戸ではなく?」
「そちらも見ます。ただ、今すぐ全部は無理です。まず、中央井戸を守るための仮水路です」
また優先順位だ。
何を先に直すか。
誰に先に水を渡すか。
どの場所を立ち入り禁止にするか。
王都では、俺は誤差を報告するだけだった。
ここでは、報告した後に決めなければならない。
夕方、南の道からまた人の声が聞こえた。
今度は、一人ではなかった。
村の入口へ向かうと、五人の男たちが立っていた。
背後には荷車が一台。
荷車には、空の樽が二つ積まれている。
先頭の男は、四十代ほど。
厚手の上着を着て、腰に古い短剣を下げている。
旅人というより、村の代表者のような雰囲気だった。
「ここがリーベル村か」
男は札を見て、眉を寄せた。
「水が戻ったというのは、本当か」
エルシアが一歩前に出る。
「身元を名乗ってください」
「南西のハルカ村、寄合代表のバーナンだ。うちの井戸が濁った。家畜も畑も限界だ。水を分けてもらいに来た」
昼に来た老人の村だ。
そして、空の樽が二つ。
飲み水だけではない。
大量取水を求めている。
ミラが俺の袖を握った。
「お兄さん」
俺は中央井戸の水音を聞いた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
水は戻った。
人も戻ってきた。
だが、問題も一緒に戻ってきた。
井戸の赤線よりも、村の線引きのほうが難しいかもしれない。
それでも、決めなければならない。
俺はバーナンと空の樽を見て、静かに言った。
「水はあります。ですが、樽二つ分は出せません」
男たちの表情が変わった。
中央井戸の水音が、壊れた村の中に落ちる。
ぽちゃん。
その音は、今までで一番重く聞こえた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第11話では、水が戻ったことで人も戻り、リーベル村が「水をどう使うか」を決めなければならなくなりました。
次回、第12話「水路を直すには、村の順番を決めなければならない」。中央井戸の水を守るため、ルカは村の水路と取水の順番を決めることになります。




