表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/30

旧リーベル村、再開拓村として認められる

第10話です。

王都からの干渉を受け、ルカたちは旧リーベル村をただの放棄村として扱わせないために動き始めます。

セドリック・ロウの馬が村の入口から消えたあとも、旧リーベル村にはしばらく誰の声もなかった。

 中央井戸の水音だけが、壊れた家々の間に落ちている。

 ぽちゃん。

 ぽちゃん。

 その音は、昨日より少しだけ強い。

 だが、安心できるほど安定しているわけではない。

 井戸の奥には、まだ赤線が残っている。

 南畑の白露草は芽吹いたばかりだ。

 北森の結界柱は、封印紐で応急的に押さえているだけだ。

 王都の使者を追い返したからといって、何かが解決したわけではなかった。

「ルカさん」

 エルシアが、井戸の縁から少し離れた場所で手帳を閉じた。

「今日中に、この村の現況記録をまとめます」

「現況記録、ですか」

「はい。旧リーベル村を、ただの放棄村として扱わせないための書類です」

 放棄村。

 セドリックが言った言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 王都の台帳上では、旧リーベル村は十年前に水源を失い、住民に捨てられた村だ。

 ならば、水源も薬草畑も古い設備も、所有者不明の放棄資産として扱われる可能性がある。

 俺には、井戸の詰まりは見える。

 結界柱の傾きも見える。

 薬草畑の魔力流路のズレも見える。

 だが、台帳の上に引かれた線は見えない。

 見えないものは、俺一人では直せない。

「何が必要ですか」

「居住者の証言。水源の存在。復旧作業の記録。防衛設備の状態。薬草畑の有用性。それから、現地で継続して管理できる者がいるという証明です」

「管理できる者」

 エルシアの視線が、俺に向いた。

「あなたです」

「俺は、王立錬金術院から追放された開拓補助員です」

「だからこそ、です。あなたは王都に戻らず、現地の水源管理を継続すると明言しました。中央井戸、南畑、北森境界。どれも、あなたの記録がなければ現状を説明できません」

「俺の記録を、公式書類に使うんですか」

「使います。そうしなければ、王都の人間が別の記録を作ります」

 その言葉に、背筋が少し冷えた。

 記録を作る。

 記録を消す。

 記録を持ち去る。

 王都で何度も見たことだ。

 第七循環輪の警告報告書も、提出印を消された。

 ガイ老人の井戸番記録も、十年前に王都の調査員が持ち去ったまま戻っていない。

 記録がなければ、なかったことにされる。

 なら、今度は残すしかない。

「わかりました」

 俺は記録帳を開いた。

「中央井戸から始めます。水量はまだ少ないですが、飲用可能な範囲です。勝手な取水は禁止。白い結晶の剥離箇所は三箇所。完全復旧には、内壁の制御陣を傷つけずに詰まりを除く必要があります」

「ゆっくりで構いません。私が書式に直します」

「では、まず水質から」

 俺は井戸から水を汲んだ。

 即席の桶は、昨日より少し重く感じる。

 水量が増えたのか、桶の布当てが湿って重くなったのか、どちらもあり得る。

 桶を井戸の縁に置き、小型魔石灯の光を水面に当てた。

 赤線はほとんど見えない。

 ただし、底に白い粒がいくつか沈んでいる。

 制御陣に付着していた結晶の欠片だ。

「飲めます。ただし、濾したほうがいい。今後三日は、最初に汲んだ水を捨てて、二回目以降を使うべきです」

 ミラが隣で真剣にうなずいた。

「最初の水は捨てる。二回目から。勝手に飲まない」

「よく覚えています」

「助手だから」

 ミラは胸を張った。

 その顔には、最初に会った時の乾いた弱々しさが少しずつ薄れている。

 水だけで人はすぐに元気になるわけではない。

 けれど、今日も飲める水があるという事実は、それだけで人の背筋を伸ばすらしい。

 ガイ老人は、井戸のそばの椅子に腰かけていた。

 エルシアが無理に立たせまいとして、壊れた家から椅子を運んだのだ。

「ガイさん。中央井戸の証言をお願いします」

「わしの記憶でいいのか」

「はい。十年前の井戸番記録は持ち去られています。ですが、井戸番本人の証言は残せます」

 ガイ老人は、しばらく井戸の底を見つめた。

「中央井戸は、昔から村の命だった。水だけではない。井戸底には青い根のような光があった。あれが消えた時、わしは村長に言った。井戸がおかしい、と」

 エルシアが手帳に書きつける。

「それは十年前ですか」

「ああ。光が消えて三日後、水量が落ちた。一月後には北森井戸。半年後には南畑井戸。順番は覚えている」

「王都の調査員にも話したのですね」

「話した。だが、自然に枯れたと書かれた」

「わかりました」

 エルシアの筆先が止まった。

 その横顔は、いつもより硬い。

 騎士として怒っているのか。

 辺境の村を軽視された人間として怒っているのか。

 その両方かもしれない。

「次は南畑です」

 俺たちは南畑へ向かった。

 試験区の前には、昨日立てた札がまだ残っている。

『試験区。水やり禁止。採取禁止。ルカ確認前に触らない』

 その横で、ネリアがしゃがみ込んでいた。

 彼女は白露草の芽を見つめながら、薄い木片に細かく記録をつけている。

「ネリアさん」

「はい。触っていません。水もやっていません。朝露だけです」

「状態は」

「昨日より葉が一枚増えています。葉先の白い露も消えていません。普通の白露草なら、移植後や水脈変化のあとに一度しおれるはずですが、この株は逆に魔力を吸い上げています」

 俺は試験区の土に手を近づけた。

 赤線はない。

 昨日あったねじれは、南畑井戸跡へ向かって細く流れ始めている。

 ただし、畑全体ではない。

 あくまで、試験区の一列だけだ。

「畑全体を戻したわけではありません。中央井戸からの流れが南畑へ届いた影響で、試験区だけが反応しています。南畑井戸を確認するまでは、拡張は危険です」

「でも、有用な薬草が出たことは事実ですね」

 エルシアが確認する。

 ネリアは迷いなくうなずいた。

「はい。薬草師見習いとして証言します。白露草は、王都でも高値で扱われます。ただし、この状態で採取すると畑を傷めます。今は保存より観察を優先すべきです」

「記録に入れます」

 エルシアが書く。

 ネリアは少しだけ不安そうに言った。

「あの、私の証言で足りますか。私はまだ正式な薬草師ではありません」

「足ります」

 エルシアが即答した。

「正式な薬草師でなくても、現地で観察している者の記録には意味があります。王都の机で書かれた空白の報告書より、ここで泥を見ているあなたの記録のほうが、今は価値があります」

 ネリアは目を瞬かせた。

「……ありがとうございます」

 王都では、同じような言葉を聞けなかったのだろう。

 俺には、少しだけわかる。

 記録は、誰が書いたかで価値が変わると言われる。

 だが本当は、何を見て、何を残したかのほうが大事なはずだ。

 少なくとも、この村ではそうしたい。

 次に、北森境界へ向かった。

 三本の結界柱は、朝の光の中で静かに立っていた。

 左柱はわずかに傾いたまま。

 中央柱には、黒い根を押さえた封印紐が巻かれている。

 右柱は比較的安定しているが、地面の下に細い赤線が残っていた。

「ここは防衛設備として書けますか」

 エルシアに問われ、俺は少し考えた。

「書けます。ただし、完全な防衛設備ではありません。昨日の灰牙狼は、結界柱の誘引波を止めたことで帰りました。今の状態は、魔物を強く退けるというより、呼び寄せない状態です」

「それでも、村の境界設備として機能している」

「応急的には」

「では、応急稼働中と書きます」

 エルシアは、俺の言い方に慣れてきたらしい。

 危険を小さく言わず、成果も大きく言いすぎない。

 王都では嫌がられた言い方だ。

 ここでは、報告の土台になっている。

「ルカさん」

「はい」

「あなたの記録は、少し面倒です」

「よく言われます」

「ですが、嘘が少ない」

 その評価は、俺には少し慣れなかった。

「嘘を書かないだけです」

「それが難しい場所もあります」

 エルシアは北の森を見た。

「王都のように」

 俺は返事をしなかった。

 代わりに、結界柱の根元へ手を置いた。

 赤線はまだある。

 だが、昨日より薄い。

 北森井戸へ向かう流路も、かすかに見え始めている。

 中央井戸。

 南畑。

 北森境界。

 別々に見えていたものが、少しずつつながっていく。

 旧リーベル村は、ただの集落ではなかった。

 井戸と畑と結界が、水と魔力を分け合っていた。

 それを誰かが止めた。

 あるいは、どこかへ引いた。

 まだ証拠は足りない。

 だが、自然に枯れた村ではないという確信だけは強くなっていた。

 昼過ぎ、エルシアは報告書をまとめ終えた。

 紙は三枚になった。

 一枚目は、居住者と現地状況。

 ガイ老人とミラが村に残っていること。

 ルカ・オルメインが辺境開拓補助任務地で水源管理を継続していること。

 ネリアが薬草師見習いとして南畑を観察していること。

 二枚目は、水源と設備。

 中央井戸の水量回復。

 南畑の白露草。

 北森境界の結界柱。

 いずれも応急状態で、放置すれば再び失われること。

 三枚目は、王立錬金術院からの干渉。

 セドリック・ロウが王都出頭と記録帳持参を求めたこと。

 命令書に現地引き継ぎも安全確保も記されていなかったこと。

 放棄村の管理権確認を示唆したこと。

 エルシアはその三枚に署名した。

「辺境警備隊の巡回報告として、北東詰所へ送ります」

「今からですか」

「はい」

「村の見張りは」

「私が行くのではありません」

 エルシアが村の入口へ目を向ける。

 そこには、彼女の馬がつながれていた。

 だが、その横にもう一人、革鎧を着た若い兵が立っている。

 いつの間に来たのかと驚いていると、エルシアが言った。

「朝のうちに、巡回路の合図石を使いました。近くの見回りが来ています」

「合図石?」

「辺境警備隊の連絡用です。村から半里ほど南にあります。壊れていなかったので助かりました」

「それも、後で見たほうがよさそうですね」

「あなたは今、見るものを増やさないでください」

「はい」

 若い兵は報告書を受け取り、短く敬礼した。

「北東詰所まで、早馬で届けます」

 エルシアがうなずく。

「詰所長に伝えてください。旧リーベル村は、放棄村ではありません。水源復旧中の有人村です。王都側からの接収や人員移動がある場合、辺境警備隊の立ち会いを求める、と」

「了解しました」

 若い兵は馬に乗り、南の道へ駆けていった。

 蹄の音が遠ざかる。

 王都の使者が去った時とは、違う音だった。

 あの時は、村から何かが奪われそうな音に聞こえた。

 今の音は、村の存在を外へ運んでいく音に聞こえた。

 報告書を送ったあと、俺たちは村の入口へ向かった。

 入口の木札は、半分腐っていた。

 刻まれている文字は、かろうじて読める。

『リーベル村』

 だが、王都の台帳では、ここに「旧」がつく。

 旧リーベル村。

 放棄村。

 水源枯渇により廃村。

 ガイ老人は木札を見上げ、静かに言った。

「昔は、もっと立派な札だった」

「直しますか」

 俺が尋ねると、ガイ老人は首を横に振った。

「今は、直すな」

「なぜです」

「古い札は、村がここにあった証だ。腐っていても、捨てるには早い」

 俺はうなずいた。

 捨てるには早い。

 それは、村そのものにも言える言葉だった。

 ミラが、古い札の下に小さな板を持ってきた。

 どこから見つけたのか、薄い板に炭で文字を書いている。

『水、あります。勝手に飲まないで』

 俺は思わず見下ろした。

「これは」

「だめ?」

「いえ。重要です」

「助手だから」

「そうでしたね」

 ミラはその板を入口の横に立てかけた。

 少し不格好だ。

 文字も曲がっている。

 だが、たぶん今の村に一番必要な札だった。

 ネリアも、南畑から戻ってきて小さな板を差し出した。

『白露草試験区。採取禁止』

「こちらも立てます」

「お願いします」

 エルシアはそれを見て、短く息を吐いた。

「村らしくなってきましたね」

「札が増えただけです」

「村は、そういうものです。誰かが何かを守るために、決まりを立てる場所です」

 決まり。

 記録。

 札。

 報告書。

 王都では、俺を縛るものだった。

 ここでは、村を守るものになるのかもしれない。

 夕方近くになって、南の道から馬の音が聞こえた。

 朝の若い兵が戻ってきた。

 馬は汗をかいている。

 兵の手には、折り畳まれた文書があった。

 エルシアが受け取る。

 文書の下には、辺境警備隊北東詰所の封印が押されていた。

 エルシアは一度だけ内容を確認し、俺たちへ向き直った。

「北東詰所長の臨時命令です」

 ミラが俺の袖を掴んだ。

 ガイ老人は椅子から立とうとして、ネリアに止められた。

 エルシアは文書を読み上げた。

「旧リーベル村について、居住者、水源、薬草畑、境界設備の存在を確認。正式な代官審査までの間、同地を再開拓準備村として臨時保全対象に指定する。水源、薬草畑、旧式設備について、現地管理者の許可なき接収、破壊、持ち出しを禁ずる」

 俺は息を止めた。

 再開拓準備村。

 完全な認定ではない。

 正式な村として復帰したわけでもない。

 代官の審査も、追加の調査も必要になる。

 だが、放棄村ではなくなった。

 少なくとも、今日この時点で、王都の錬金術院が勝手に水源や記録を持ち去ることはできない。

「現地管理者は」

 エルシアが続きを読む。

「辺境開拓補助任務者、ルカ・オルメインを暫定水源管理者とする。辺境警備隊エルシア・グランツは、巡回監視を継続すること」

 ミラがぱっと俺を見上げた。

「お兄さん、井戸番?」

「暫定です」

「ざんてい?」

「今だけ、という意味です」

 ガイ老人が笑った。

「今だけでも十分だ。十年、誰も井戸番を名乗れなかったんだ」

 俺は文書を見た。

 そこに俺の名前がある。

 王都の処分書では、事故の責任者として書かれた名前。

 辺境開拓補助任務者として、追放先を示すために書かれた名前。

 その同じ名前が、今度は水源管理者として書かれている。

 胸の奥に、妙な重さが落ちた。

 嬉しい、とは少し違う。

 誇らしい、というほど大きくもない。

 責任だ。

 井戸が鳴っている限り、俺はその音を聞かなければならない。

 水が戻った限り、勝手に飲ませてはいけない。

 薬草が芽吹いた限り、採り尽くされないようにしなければならない。

 結界柱が動いた限り、もう一度魔物を呼ばないようにしなければならない。

「ルカさん」

 エルシアが文書を差し出した。

「受けますか」

 形式的な問いだったのかもしれない。

 だが、俺には必要な問いだった。

 王都では、俺の仕事はいつも命じられたものだった。

 測れ。

 記録しろ。

 黙れ。

 止めるな。

 責任を取れ。

 出ていけ。

 ここで初めて、受けるかどうかを問われている。

 俺は中央井戸を見た。

 ぽちゃん。

 水音が返ってくる。

 南畑の白露草が、夕方の光の中で淡く白く光っている。

 北森の結界柱には、封印紐が揺れている。

 ミラは俺の袖を掴んでいる。

 ガイ老人は、椅子に座ったまま井戸の音を聞いている。

 ネリアは薬草の記録板を抱えている。

 エルシアは、文書を差し出したまま待っている。

 王都へ戻らない理由は、もう言葉にした。

 なら、次はここに残る理由を、記録に残すべきだ。

「受けます」

 俺は文書を受け取った。

「ただし、現状は応急です。中央井戸の完全復旧、北森井戸の確認、南畑井戸の調査、結界柱の再固定、どれも必要です。俺一人では間に合いません」

「それも書きます」

 エルシアが言った。

「再開拓村には、人手が必要ですから」

 その言葉に、ネリアが小さく笑った。

「つまり、私はまだ残ってもいいということですね」

「残ってください。白露草は、ネリアさんが見てくれたほうがいい」

「はい」

 ミラが手を上げた。

「助手も残る」

「助手は元から住民です」

「じゃあ、一番強い」

 ミラが得意そうに言うと、ガイ老人が低く笑った。

「ああ。この村では、住んでいる者が一番強い」

 その言葉は、妙にまっすぐ胸に入ってきた。

 王都では、肩書きが強かった。

 勲章が強かった。

 院長印が強かった。

 ここでは、井戸の音を聞いている者が強い。

 水を待っていた者が強い。

 残っていた者が強い。

 なら、この村はまだ弱くない。

 俺たちは、古い村札の下に新しい板を打ちつけた。

 板には、エルシアが丁寧な字で書いた。

『リーベル再開拓準備村』

 正式な村名ではない。

 まだ仮だ。

 だが、王都の台帳にある「放棄村」よりは、ずっと正しい名前だった。

 ミラはその板を見上げて、何度も口の中で読んでいた。

「リーベル、さいかいたく、じゅんびむら」

「長いですね」

「うん。でも、旧ってついてない」

 俺はその言葉で、初めて気づいた。

 旧リーベル村。

 ずっとそう呼んでいた。

 資料にも、命令書にも、俺の記録帳にもそう書いていた。

 だが、ミラにとってここは、最初からリーベル村だった。

 旧ではない。

 捨てられた場所でもない。

 待っていた場所だ。

「これからは、リーベル村と書きます」

 俺がそう言うと、ミラは満足そうにうなずいた。

 中央井戸の水音がした。

 ぽちゃん。

 ぽちゃん。

 その音は、村の奥まで届いている。

 水が戻った。

 薬草が芽吹いた。

 結界が一晩持った。

 商人が価値を認めた。

 王都の使者を断った。

 そして今日、放棄村だった場所は、再開拓準備村として認められた。

 もちろん、問題は増えている。

 王都は諦めないだろう。

 水源の管理権も、薬草畑の価値も、古い結界柱も、記録帳も、欲しがる者は出てくる。

 それでも、今日は一つだけ確かだった。

 この村は、もう紙の上でも完全な廃村ではない。

 俺は記録帳を開き、今日の最後に書いた。

『旧リーベル村、再開拓準備村として臨時保全指定。暫定水源管理者として、中央井戸、南畑、北森境界の記録を継続する。以後、村名記録はリーベル村とする』

 書き終えると、インクが乾くまで待った。

 それから、記録帳を閉じる。

 王都では、俺の記録は邪魔だった。

 ここでは、村がここにある証になる。

 そう思った時、遠く離れた王都で、別の記録石が赤く光っていたことを、俺はまだ知らなかった。

 王立錬金術院地下。

 第一錬金炉管理室。

 そこは、王都の浄水結界に魔力を送る中枢設備の一つだった。

 分厚い石壁の奥で、巨大な炉心が低く唸り続けている。

 壁に並ぶ圧力計のうち、一つが、ゆっくりと下がった。

 北東基準流路。

 その文字が刻まれた古い計器だった。

「主任、圧が落ちています」

 若い技官が声を上げる。

 主任技官ヘルムは、台帳から顔を上げた。

「どこの圧だ」

「北東基準流路です。数値が、昨日から少しずつ下がっています」

「許容範囲内だろう」

「いえ、下限を割りました」

 その瞬間、管理盤の警告石が赤く光った。

 甲高い音が、地下室に響く。

 第一錬金炉の低い唸りが、一拍だけ乱れた。

 ヘルムの顔色が変わる。

「第一錬金炉、下層循環を確認しろ!」

 技官たちが走る。

 だが、誰も気づいていなかった。

 管理盤の端に、古びた小さな刻印があることに。

 その刻印の下に、かすれて読みにくい文字が残っていることに。

 リーベル基準井。

 その文字の上で、赤い警告石が、もう一度強く光った。

 そして、王都の第一錬金炉で、下層循環輪が止まった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

第10話で、リーベル村はひとまず放棄村ではなくなりました。ですが、村に価値が戻ったことで、人も問題も集まり始めます。

次回、第11話「水が戻った村には、人も問題も戻ってくる」。再開拓準備村となったリーベルに、新しい来訪者と新しい課題がやって来ます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ