白い猫
五、
ヒコイチの住む長屋は狭いながらも一軒ごとに分かれて建っていて、それが六つ、同じ敷地内にきゅうと詰まっている。
ヒコイチと同じような歳の独り身のチョウスケという男がはす向かいにいるほかは、すべて所帯持ちの家なのだが、ヒコイチもチョウスケも身内のようにあつかってくれるひとたちばかりで、一人で暮らしている気にはならない。
だが、さすがに暮らしの様子が違えば動く時間も異なり、ヒコイチが仕事で動く日にみんなと顔を合わせるのは、朝早くと、品がはやくはけて帰りが早いときの夕刻だけとなる。
いまはどこの家ももう暗く静かで、めずらしくチョウスケの家からも明かりはない。
《元締め》のところからそのまま町にでて飯を食って酒も飲んでから戻ったので、かなりいい時間ではある。きょうは月があかるかったので提灯も借りずに帰ってきた。
真っ暗な自分の家の中に入る。
外よりも家の中の闇が濃い。
戸を閉めて闇の中でも慣れたかげんで柱をさぐり、草履をぬいでそのままあがろうとしたとき、足元をさっと何かがよぎった。
「っひ」
おもわず声をあげてしまうのを、ミャアオ、と猫がわらう。
「なんでエ、またおまえかよ」
覚えのある場所まで手をのばし、火うち箱をとる。知り合いの『おぼっちゃま』からもらった立派な蝋燭に火をつけ、その火を行燈のちいさな蝋燭へうつし、大きな蝋燭の火はすぐに消す。ぼっちゃまには悪いが、もらった蝋燭のつかいみちはこれぐらいしかない。いつものほのかなあかりのほうが、落ち着くのだからしかたがない。
ミャアオ
沓脱の石にかくれるように、白い猫がいた。
縁の下の穴からでも入り込んでくるようになったのは、ここ最近のことだった。長屋のおかみさんたちに聞けば、他の家の中にも好き勝手にはいりこむらしいが、悪さはしないので、誰もおいはらおうとはしていない。チョウスケなど『女のかわりに』抱えて寝ることがあるというから、猫にしてみればいい迷惑だろう。
「どうした?チョウスケがいねえンで、こっちにきたのかい?」
あがってすぐにある小さな座卓をのけながら白い猫にきくと、ミャアオ、と返事のようなものをする。
「まってりゃ帰って来るさ。きっとどっかで飲みすぎてねこけてやがんだ。前と違って、女のとこにころがりこむなんてねえからよ」
すこし前まで、あきれるくらい女にだらしがなかったあの男は、ある《妙な事》を体験したおかげで、女が怖くなってしまい、今では酒と食に楽しみをみいだしている。
「あんなんでも根がしっかりしてやがってよ、ずっとおんなじお屋敷に勤めてやがんだぜ」
ヒコイチだったらとっとと辞めているだろう。
チョウスケからきかされた《妙な事》とは、その『お屋敷』の旦那様と死んだ奥様たちとの《こわいはなし》に他ならない。
「だから、チョウスケのところで待ってりゃいいさ。いや、おめえが嫌だってわけじゃあなくってよお、おれア・・・、猫の毛がはいるとくしゃみがとまらなくってよ」
これは嘘だ。だが半分は本当で、ヒコイチはこの白い猫といっしょにいると、どうもからだの奥がむずむずとしてきて、落ち着かなくなる。
金茶の目をむけしばらくみあった白猫は、ヒコイチになにも言わずにしっぽをむけた。いやなはなしをきかされたときの女にそっくりなしぐさだ、と感心しながら縁の下にもぐりこむ背を見送る。
白くしなやかなそれがいなくなってから、このところずっと気になっていることをまた思い出す。
「 ―― おい、乾物屋」
誰もいない台所にむかって声をかける。
何の返事もない。
ないのが当然だが、このところヒコイチのまわりでは、こうやって声をかけると、勝手に家にはいりこみ、空桶や鍋のなかや、縁の下で寝ている《黒猫》がこたえるのだ。
『 なんだよ ヒコ おれアもお カンブツヤじゃねえよ 』
ひどく割れたじじいの声でこたえるその黒猫に『はいっている』のは、死んだはずの『乾物屋』の隠居である、カンジュウロウだ。




