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名前を持ち帰った右手

 グリム旧工房の炉は、朝から一度も大きく燃えなかった。


 灰の下で、赤い火が細く息をしているだけだ。


 マレナは火を足さなかった。


 ルカも、足せなかった。


 工房の中央。


 作業台の上には、木札が置かれている。


 一文字目。


 ミ。


 その横に、まだ読めない二文字目の輪郭りんかく


 さらに奥。


 焦げた木肌の底に、三文字目の横線が、黒く沈んでいた。


 昨夜は見えなかった。


 いや。


 見えてはいけないものだったのかもしれない。


 ルカは刷毛はけを持ったまま、動けずにいた。


 毛先は、木札に触れていない。


 それでも、右手の薬指がじんじんと冷えている。


 あの骨片こっぺんを前にした時と同じ、嫌な冷たさだった。


「まだ触るなよ」


 炉のそばで、マレナが言った。


 声は低い。


 眠っていない声だった。


「触ってません」


「目で触ってる」


「そんなこと」


「あるんだよ。あんたみたいな奴にはね」


 マレナは火掻ひかき棒を膝の上に置いていた。


 いつもの煙管きせるくわえていない。


 片目だけで、木札をにらんでいる。


 その目の奥にあるのは、怒りではない。


 恐怖でもない。


 もっと古くて、重いものだった。


「マレナさん」


「何だい」


「ノエルは、戻ってきますよね」


 マレナは答えなかった。


 炉の灰が、ぱち、と小さく鳴る。


 それだけで、ルカの肩が跳ねた。


「戻ってくるさ」


 少しして、マレナが言った。


「戻らなきゃ、あの猫が許さない」


「猫の方ですか」


「猫は約束を忘れない。人間よりましだ」


 そう言いながら、マレナの指先は火掻き棒を握り直していた。


 強く。


 骨が浮くほどに。


 ルカは窓を見る。


 板でふさがれた細い窓。


 その隙間から、町の光が少しだけ差している。


 遠くで鐘が鳴った。


 三つ。


 間を置いて、三つ。


 まただ。


 朝から、もう何度目かわからない。


 巡回の鐘。


 王都記録院の見張りが、町を輪切りにするように動いている合図。


 エルヴィンが去ってから、町の空気は変わった。


 旧工房の周りを通る足音が増えた。


 知らない兵が立ち止まる。


 遠隔記録紙の薄い音が、時々、外の路地で鳴る。


 ぱき。


 ぱき。


 紙が、名前を探している音。


 嫌な音だ。


 ルカは木札から目を離した。


 作業台の端には、細い布が置かれている。


 ノエルが南村へ向かう前に、クロの首に結んだ布の余りだ。


 ただの布。


 けれど、今はそれすら怖かった。


 何にでも残る。


 壊れたものには、特に。


 声。


 未練。


 名前。


 そして、呼んではいけないもの。


 ルカは右手を握った。


 薬指がまだ冷たい。


「ノエルが戻ったら」


 ルカは言った。


「すぐに、ここを出る準備をした方がいいですか」


「出られると思うかい」


「……思いません」


「なら、出る準備じゃない」


 マレナは火掻き棒の先で、床を軽く叩いた。


「迎え撃つ準備だ」


 迎え撃つ。


 その言葉が、工房の中で重く沈んだ。


 ルカは喉を鳴らす。


「俺に、何ができますか」


「木札を読む」


「でも、触るなって」


「触らずに読め」


「無茶です」


「無茶をやってきただろうが」


 マレナの声は荒い。


 でも、突き放してはいなかった。


聖剣せいけんの傷を見た。カイルの槍を読んだ。ダリオの盾の奥まで引きずり込まれた。今さら、ただの木札一枚に負けるのかい」


「ただの木札じゃありません」


「そうだよ」


 マレナは目を細めた。


「だから負けるな」


 ルカは息を吸った。


 木札へ向き直る。


 一文字目。


 ミ。


 二文字目。


 まだ戻りきっていない。


 三文字目。


 横線。


 そして、母親の声。


 その名で呼ばないで。


 ルカは刷毛を持ち直した。


 毛先を近づける。


 触れない。


 紙一枚より薄い距離で止める。


 そこから先は、手ではない。


 呼吸だ。


 息を細くする。


 目を閉じる。


 木札の表面を見るのではなく、その下に残った削り跡の熱を探る。


 ぱき。


 かすかな音がした。


 工房の外ではない。


 木札の中だ。


 ルカの右手の薬指が、ぴくりと震えた。


 冷たい。


 けれど、拒絶ではない。


 近づくな、ではない。


 呼ぶな。


 その一点だけが、鋭く尖っている。


 ルカは声に出さない。


 頭の中でも、呼ばない。


 ただ、削られた形だけを見る。


 音ではなく。


 名前ではなく。


 傷の形。


 木目の歪み。


 焦げの厚み。


 エナという女が、何を隠したのか。


 何を守ろうとしたのか。


 ぱき。


 また、木札が鳴った。


 今度は少し大きい。


 炉の灰が、呼応するように赤く瞬いた。


 マレナが火掻き棒を構える。


「ルカ」


「まだです」


 ルカは目を閉じたまま答えた。


「まだ、名前じゃない」


 喉の奥が乾く。


 耳の奥に、別の声が混ざりそうになる。


 聖剣の奥で聞いた男の声。


 坊主を、頼む。


 カイルの槍で聞いた声。


 ノエルを、頼む。


 ダリオの盾で聞いた、幼い声。


 ぼく、ここにいるよ。


 全部が、木札の奥へ流れ込もうとする。


 違う。


 今は違う。


 ルカは奥歯を噛んだ。


 混ざるな。


 答えを急ぐな。


 壊れ物は、急かすと、もっと壊れる。


 昔、下請けの親父が言っていた。


 焦った手は、割れ目を増やすだけだ。


 親父の荒れた手。


 灰の匂い。


 欠けたナイフ。


 思い出した瞬間、腰の道具袋が冷たくなった。


「っ」


 ルカは息を詰める。


 欠けたナイフが、布の奥で震えた。


 小さく。


 けれど、はっきりと。


 マレナが立ち上がる。


「あんたのナイフかい」


「……はい」


「離せ」


「触ってません」


「違う。木札から意識を離せ」


 ルカは刷毛を引いた。


 その瞬間、作業台の上で木札が強く鳴った。


 こん。


 盾ではない。


 木札だ。


 小さな板が、内側から叩かれたように震えた。


 炉の火が、青白く揺れる。


 マレナの顔から血の気が引いた。


「来る」


「何が」


 ルカが聞いた時、工房の外で足音が止まった。


 一つではない。


 複数。


 重い靴。


 兵の足音。


 そして、紙が開かれる音。


 ぱらり。


 ルカは刷毛を置いた。


 マレナが火掻き棒を握る。


 扉はまだ叩かれない。


 外の声もない。


 ただ、紙の音だけがする。


 ぱき。


 ぱき。


 ぱき。


 木札の中の音と同じだ。


 ルカは思わず、作業台の木札を見た。


 三文字目の横線が、黒く沈んでいる。


 その奥で、何かが動こうとしていた。


 その時。


 遠くで、轟音ごうおんが響いた。


 工房の壁が、わずかに揺れた。


 棚の奥のかぶとが鳴る。


 指輪が転がる。


 蓋の閉まった鍋が、低くうなった。


 マレナが歯をいた。


「南村だ」


「ノエル……!」


「まだ叫ぶな」


 マレナが鋭く言う。


「名前も、呼ぶな」


 ルカは口を閉じた。


 外の足音が、動く。


 兵たちも、いまの音を聞いたらしい。


 扉の向こうで誰かが低く命じる。


「監視紙を確認しろ」


 別の声。


「残響名、更新」


 ルカの血が凍った。


 更新。


 何が。


 どの名前が。


 聞いてはいけない。


 でも、聞きたい。


 右手が震える。


 腰のナイフが、また小さく震えた。


 マレナがルカの肩を掴んだ。


「呑まれるんじゃないよ」


「でも、今」


「ノエルが何かを掴んだ。だから王都の紙が鳴った。そこまではわかる」


「だったら」


「だからこそ、待つんだ」


 マレナの片目が、真正面からルカを射抜いた。


「外の紙が先に読む前に、あんたが焦って名前を呼べば、同じことになる」


 ルカは息を止めた。


 同じこと。


 エナの声。


 老人の恐怖。


 木札の拒絶。


 全部が、腹の底で繋がった。


 外で兵が動く。


「旧工房内に反応あり」


「封鎖命令の前倒しを要請する」


「監査官へ伝達」


 ルカは拳を握った。


 前倒し。


 三日ではない。


 時間が、潰されていく。


 マレナは火掻き棒を持ったまま、工房の奥へ歩いた。


「ルカ、作業台の下を開けな」


「え?」


「早く」


 ルカは膝をつき、作業台の下を探る。


 古い板が一枚、わずかに浮いていた。


 引くと、きし、と音を立てて外れる。


 中には、布包みがいくつも入っていた。


「これは」


「持ち出し用の厄介者だ」


 マレナは言った。


「封鎖された時のために、十年かけて分けておいた」


 布包みの中から、細い針。


 割れた指輪。


 焼けた小皿。


 子どもの靴の片方。


 どれも、小さい。


 どれも、汚れている。


 どれも、重い。


「全部は持てない」


 マレナの声は冷たい。


「だから、選ぶ」


「選ぶって」


「王都に渡したら二度と戻らないものからだ」


 ルカは布包みを見る。


 選ぶ。


 壊れ物を。


 声を。


 誰かの最後を。


 自分の手で。


「そんなの」


「できないなら、全部燃やされる」


 マレナは言った。


 ルカの胸が詰まる。


 外でまた紙が鳴った。


 ぱき。


 ぱき。


 ぱき。


 ルカは歯を食いしばり、布包みを掴んだ。


 子どもの靴。


 割れた指輪。


 小皿。


 針。


 どれが大事かなんて、わからない。


 でも、手が勝手に動いた。


 いや。


 動かした。


 ルカは布包みを自分の道具袋へ詰める。


 欠けたナイフが、その奥で冷たく震えた。


「お前も、まだだ」


 ルカは小さく呟いた。


 呼ぶな。


 急ぐな。


 でも、置いていかない。


 外の足音が、扉の前で止まった。


 今度は叩かれた。


 どん。


 重い音。


「開けろ。王都記録院だ」


 マレナが鼻で笑う。


「朝からよく働くねえ」


「臨時封鎖命令の準備が整った。抵抗すれば反逆罪に問う」


「準備が早いじゃないか。昨日は三日後と言ってたくせに」


「状況が変わった」


 扉の向こうの声は、エルヴィンではなかった。


 もっと若い。


 焦っている。


「未登録残響名の更新を確認した。旧工房は監査対象から封鎖対象へ移行する」


 ルカは木札を見る。


 マレナも見た。


 互いに、言葉はなかった。


 ノエルが、見つけた。


 たぶん。


 けれど、それを王都も拾った。


 扉の向こうで、金属音。


 鍵だ。


 記録院の鍵。


 この工房の扉は、外から開けられる。


 六話の朝と同じ。


 マレナが舌打ちした。


「あいつら、今度は断りもなしだね」


 鍵が回る。


 がちゃり。


 扉が内側へ押し開けられる。


 その瞬間。


 工房の奥で、蓋の閉まった鍋が鳴った。


 ぐらり、と。


 まるで、長いあいだ煮え続けていた何かが、ついに沸騰ふっとうしたように。


 白い湯気が、蓋の隙間から細く漏れた。


 開いていない。


 でも、漏れた。


 兵たちが一歩、後ずさる。


「何だ」


 マレナが低く笑った。


「だから言ったろ。ここは死人の工房だ」


 扉の向こうに、記録院の兵が三人。


 その背後に、黒冠商会の男。


 さらにその奥。


 眼鏡をかけた男が立っていた。


 エルヴィン・クロウ。


 昨日と同じ黒い外套。


 泥ひとつついていない靴。


 けれど、その眼鏡の奥の目だけは、昨日よりわずかに鋭かった。


「マレナ・グリム」


 エルヴィンは言った。


「警告は済ませた」


「まだ朝飯も済んでないよ」


「工房内の未登録遺物を、すべて提出してもらう」


「やなこった」


「ならば押収する」


 兵が動く。


 ルカは作業台の前へ立った。


 自然に。


 昨日と同じように。


 でも、昨日より手が震えていない。


 いや、震えている。


 震えたまま、立っている。


「退きなさい」


 エルヴィンが言った。


「これは王都の命令だ」


「これは、まだ壊れ物です」


 ルカは答えた。


 声が少し掠れた。


 でも、出た。


「俺がまだ、このガラクタの時間を巻き戻していない」


「君の修復は必要ない」


「あなたたちには、直す気がない」


 エルヴィンの目が細くなる。


 黒冠商会の男が、後ろで嫌な笑みを浮かべた。


「また職人ごっこか、灰かぶり」


 その言葉で、ルカの胃が縮んだ。


 王都。


 工房。


 バルザックの声。


 灰かぶり。


 不要。


 一瞬、膝が折れそうになる。


 だが、作業台の上で木札が鳴った。


 こん。


 小さく。


 内側から。


 ルカは息を吸った。


 恐怖が消えたわけじゃない。


 消えない。


 たぶん、一生。


 でも、その上から、どす黒いものが燃えた。


「灰に埋めたものほど」


 ルカは商会の男を見た。


「よく残りますよ」


 男の顔が引きつる。


 エルヴィンが片手を上げた。


「その木札を押収しろ」


 兵が作業台へ近づく。


 ルカは動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動かないと決めた。


 兵の手が木札へ伸びる。


 その瞬間。


 外から、甲高い鳴き声が響いた。


 猫。


 クロだ。


 ルカの心臓が跳ねた。


 工房の扉の外。


 兵たちの背後。


 路地の入り口に、黒い影が立っていた。


 クロ。


 泥だらけ。


 毛が逆立っている。


 片耳から血が滲んでいる。


 その口には、布切れが咥えられていた。


 そして、さらに奥。


 壁に手をつきながら、ノエルが立っていた。


 泥まみれ。


 頬に傷。


 唇に血。


 右手を、胸の前で固く握りしめている。


 ルカは名前を呼びそうになった。


 でも、マレナの声が頭を殴った。


 名前を呼ぶな。


 ルカは口を閉じる。


 ノエルが、こちらを見た。


 息を荒くしている。


 歩くのも限界に見えた。


 それでも、その目は折れていなかった。


 エルヴィンが振り返る。


「南村へ向かった子どもか」


 ノエルの肩がわずかに跳ねた。


 だが、逃げない。


 クロが布切れを落とした。


 それは、小さな服の端だった。


 焦げている。


 刺繍の跡が、黒く潰れている。


 ほんの端切れ。


 石箱から引きちぎれたものか。


 それとも、老人が押し込んだのか。


 わからない。


 だが、それが床に落ちた瞬間、作業台の木札が強く震えた。


 こん。


 こん。


 こん。


 ダリオの盾も、壁際で鳴り始める。


 鍋が唸る。


 兜が揺れる。


 指輪が跳ねる。


 工房中のガラクタが、一斉に息をし始めた。


 兵たちが怯む。


 黒冠商会の男が後ずさる。


 エルヴィンだけが、その場に立っていた。


 眼鏡の奥の目が、ノエルの握った右手を見ている。


「何を持っている」


 ノエルは答えなかった。


 答えられないのかもしれない。


 右手を握りしめたまま、唇だけが震える。


 ルカはその口元を見た。


 音にはならない。


 でも、形だけでわかった。


 ミ。


 オ。


 リ。


 ルカの頭の中で、何かが砕けた。


 ミオ。


 ではない。


 木札の三文字目。


 エナの拒絶。


 南村の石箱。


 ノエルの血のついた唇。


 全部が、一瞬で噛み合ってしまった。


 でも、声にしてはいけない。


 その名は、呪いのように工房の空気へ滲んでいた。


 エルヴィンの手元で、遠隔記録紙が激しく鳴った。


 ぱき。


 ぱき。


 ぱき。


 紙面に、黒い文字が浮かび上がる。


 エルヴィンが視線を落とす。


 その表情が、初めてはっきり変わった。


「残響名、更新」


 彼が低く呟く。


 ルカは息を止めた。


 紙に、文字が刻まれていく。


 ミオ。


 その横に、黒い滲み。


 もう一文字分の空白。


 だが、最後までは浮かばない。


 紙が震えている。


 書こうとして、書けない。


 何かが、王都の記録を拒んでいる。


 エルヴィンの眉が動いた。


「なぜ、欠損する」


 ノエルが、笑った。


 血まみれの口で。


 ほんの少しだけ。


「紙じゃ、聞こえねえんだよ」


 声は掠れていた。


 でも、工房に届いた。


「泥の中まで来なきゃ、聞こえねえ」


 黒冠商会の男が怒鳴った。


「捕らえろ!」


 兵がノエルへ向かう。


 ルカは作業台を蹴った。


 木札が跳ねる。


 落ちる前に、ルカはそれを掴んだ。


 触れた瞬間、右手の薬指が凍りついた。


 痛い。


 焼けるほど冷たい。


 だが、離さない。


 同時に、木札の奥から声があふれた。


『その名で――』


 エナの声。


 叫び。


 恐怖。


 怒り。


 ルカは歯を食いしばった。


 呼ばない。


 まだ呼ばない。


 名前を奪うためじゃない。


 守るために読む。


 木札の焦げた二文字目が、熱を持つ。


 三文字目の横線が、黒い煤の奥から浮き上がる。


 外の遠隔記録紙が悲鳴のように裂けた。


 エルヴィンが目を見開く。


「止めろ!」


 その声と同時に。


 工房の奥。


 蓋の閉まった鍋が、とうとう大きく跳ねた。


 どん、と。


 湯気が噴き出す。


 白い湯気が、兵たちの視界を覆う。


 その匂いは、飯の匂いだった。


 焦げた麦。


 薄いかゆ


 塩も足りない、戦場の朝の匂い。


 ルカの目に涙が滲む。


 ルカの道具袋の中で、欠けたナイフが冷たく震えた。


 それは、武器ではない。


 あの老婆が十年かけて「ガラクタ」として封印してきた、無数の未練の重みだった。


「走りな!」


 マレナが叫んだ。


 火掻き棒が、兵の足元を払う。


 クロが兵の顔へ飛びかかる。


 ノエルが転がるように工房へ飛び込む。


 ルカは木札を抱えたまま、作業台の下へ手を伸ばし、布包みを掴めるだけ掴んだ。


「マレナさん!」


「裏へ!」


「でも」


「いいから行け!」


 マレナの片目が、炉の火より赤く光って見えた。


「私が十年守ったものだ。逃げ道くらい、用意してる」


 ルカはノエルの腕を掴んだ。


 ノエルの右手は、まだ固く握られている。


 真鍮の指輪が、その指の間から少しだけ見えた。


 冷たく、重く、鈍い光。


 ノエルは息を切らしながら、ルカを見た。


 何かを言おうとする。


 ルカは首を振った。


「まだ」


 ノエルの唇が止まる。


 ルカは小さく言った。


「まだ、言うな」


 ノエルの目が揺れた。


 そして、頷いた。


 その瞬間、二人の間で、名前ではないものが通った。


 恐怖。


 衝撃。


 そして、約束。


 工房の奥の棚が、マレナの蹴りで倒れる。


 その裏に、低い扉が現れた。


 石の床下へ続く抜け道。


 クロが先に飛び込む。


 ルカはノエルを押し込む。


 背後でエルヴィンの声が響く。


「逃がすな!」


 マレナが笑った。


「記録にない工房の道を、紙の上の役人が知ってるわけないだろ」


 ルカは最後に振り返る。


 白い湯気の向こう。


 マレナが火掻き棒を構えて立っている。


 小さく、曲がった背中。


 でも、その姿は工房そのものだった。


「灰かぶり」


 マレナはそれだけ呼んだ。


「……そのガラクタを、あんたの骨の髄まで焼き付けな」


 ルカは頷いた。


 木札を抱え、抜け道へ身を滑らせる。


 暗闇が、全身を包んだ。


 上で扉が閉まる。


 轟音。


 怒号。


 紙が裂ける音。


 鍋が煮える音。


 全部が遠ざかっていく。


 狭い暗闇の中で、ノエルが荒い息をしていた。


 クロの目が前で青白く光る。


 ルカの腕の中で、木札が熱い。


 ノエルの右手の中で、指輪が冷たい。


 そして、その名だけが。


 声にしていないのに。


 二人の頭の中で、同じ音を立てていた。


 ミオリ。


 その響きだけが、二人の頭の中で呪いのように明滅する。


 ノエルは泥まみれの右手を握りしめ、暗闇の奥へ、二人と一匹はうように進んだ。

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