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呼ばない名前は、暗闇で息をする

 暗闇は、土の味がした。


 口の中に入った泥。


 崩れた石の粉。


 古い灰。


 ルカは木札を胸に抱いたまま、狭い抜け道をっていた。


 肩が壁に擦れる。


 膝が石を踏む。


 道具袋の中で、布包みがぶつかり合う。


 子どもの靴。


 割れた指輪。


 焼けた小皿。


 細い針。


 そして、欠けたナイフ。


 どれも、軽いはずだった。


 なのに、腰が沈むほど重かった。


 背後で、工房の音が遠ざかっていく。


 怒号。


 足音。


 何かが倒れる音。


 紙が裂けるような、乾いた悲鳴。


 それから、鍋が煮える音。


 ぐつぐつ、と。


 最後の飯が、まだ蓋の下で息をしている。


 その音が聞こえなくなった時、ルカは初めて、自分が工房を出たのだと知った。


「……マレナさん」


 声にすると、喉が痛かった。


 答えはない。


 上で何が起きているのかも、わからない。


 ただ、白い湯気の向こうで火掻ひかき棒を構えていた小さな背中だけが、目の裏に焼きついていた。


 灰かぶり。


 そのガラクタを、骨の髄まで焼き付けな。


 ルカは木札を抱く腕に力を込めた。


 木札は熱い。


 まるで、今もまだ誰かの手の中にあるみたいだった。


 前方で、クロの目が青白く光る。


 猫は音もなく進んでいる。


 片耳から血が垂れているのに、気にする様子もない。


 ノエルはその後ろを這っていた。


 荒い息。


 泥を吸い込むような咳。


 それでも、止まらない。


 右手だけは、胸の前で固く握ったままだった。


「ノエル」


 ルカは小さく呼んだ。


 名前を呼ぶのにも、少し勇気がいった。


 ノエルは返事をしない。


 息だけが返ってくる。


「怪我、見せて」


「あとで」


「今」


「あとでって言ってるだろ」


 声はかすれていた。


 いつものとげはある。


 でも、芯が震えている。


 ルカはそれ以上、言えなかった。


 狭すぎて、振り返ることもできない。


 這う。


 這う。


 這う。


 石の天井が低い。


 頭を少し上げるだけで、額をぶつける。


 空気は湿っているのに、喉は乾く。


 抜け道の壁には、ところどころ古い木の支えが入っていた。


 その木には、すすで小さな印が描かれている。


 丸。


 二本線。


 欠けた三角。


 マレナの印だ。


 たぶん、この道はずっと前からあった。


 十年より前から。


 もっと古い工房の、もっと古い腹の中。


 焼けたものを運ぶための道。


 王都の紙が届かない、灰の下の道。


 クロが急に止まった。


 ルカも止まる。


 ノエルが背中にぶつかった。


「急に止まるなよ」


 クロは前方ではなく、後ろを見ていた。


 ルカも耳を澄ませる。


 最初は何も聞こえなかった。


 ただ、遠い工房の音。


 土がきしむ音。


 ノエルの息。


 それから。


 ぱき。


 細い音がした。


 紙の音。


 ルカの首筋が冷えた。


 ぱき。


 ぱき。


 抜け道の後ろ。


 閉じたはずの低い扉の向こうから、何かが這ってくる。


 白いもの。


 暗闇の中で、紙だけがぼんやり光っていた。


 細く裂けた遠隔記録紙。


 蛇の舌みたいに、床の隙間から伸びてくる。


 紙の端に、黒い文字が浮いたり消えたりしていた。


 ミ。


 黒い滲み。


 空白。


 また、ミ。


 書けないまま、追ってくる。


「くそ……」


 ノエルが息を呑んだ。


 クロが低く唸る。


 ルカの木札が熱を増した。


 右手の薬指が痛む。


 紙はまっすぐ、ルカの胸元へ向かってくる。


 木札の熱を嗅いでいる。


 いや。


 名前の欠けた部分を、探している。


 ルカは後ずさろうとして、背中がノエルに当たった。


「進め」


 ノエルが低く言う。


「でも」


「俺がやる」


「何を」


「いいから進め!」


 ノエルが左手で泥を掴んだ。


 右手は開かない。


 胸の前で、真鍮しんちゅうの指輪を握り潰すように固めたまま。


 左手だけで泥を掻き集める。


 紙が近づく。


 ぱき。


 ぱき。


 紙面に、黒い点が浮く。


 小さな目みたいだった。


 ノエルは泥をその白い紙へ叩きつけた。


 ぐしゃり、と濡れた音。


 紙が一瞬、止まる。


 だが、すぐに泥の中から白い端が這い出した。


「効かねえ!」


 クロが飛びかかった。


 爪で紙を裂く。


 白い紙片が散る。


 その切れ端一つ一つに、細い文字が浮かんだ。


 未登録。


 候補名。


 欠損。


 回収。


 ルカは息を詰めた。


 切っても増える。


 紙が、記録そのものみたいに増殖している。


 ノエルが短く罵った。


 ルカは木札を抱えたまま、壁の煤印を見る。


 丸。


 二本線。


 欠けた三角。


 その下に、擦れてほとんど消えた矢印があった。


 左。


 いや、下。


「クロ!」


 ルカが叫ぶ。


 クロが振り返る。


「下に道がある!」


 猫は迷わず、足元の灰を掘り始めた。


 小さな前足が、湿った灰を飛ばす。


 ノエルも左手で掘る。


 ルカは木札を片腕で抱え、空いた手で床を探った。


 古い板。


 灰に埋もれた取っ手。


 引く。


 動かない。


「どけ!」


 ノエルが体を寄せる。


 二人で取っ手を掴む。


 紙が近づく。


 クロがまた爪を立てる。


 ぱき。


 ぱき。


 紙の音が、耳元まで来る。


 ルカは奥歯を噛んだ。


「せーの!」


 板ががれた。


 下に穴。


 灰の匂いが、濃く吹き上がる。


 先が見えない。


 けれど、他に道はなかった。


「落ちるぞ!」


 ノエルがクロを掴もうとして、クロに引っ掻かれた。


「痛っ」


 クロは自分で穴へ飛び込んだ。


 青白い目が一瞬沈む。


 ルカは木札を抱え、穴へ体を滑らせる。


 足場がない。


 落ちた。


 灰の山に背中から沈み込む。


 息が詰まる。


 口の中に灰が入った。


 上からノエルが落ちてくる。


「ぐっ」


 二人で灰の中に転がった。


 直後、頭上で白い紙が穴の縁まで伸びてきた。


 だが、そこで止まった。


 紙の端が、灰に触れる。


 じゅ、と小さな音がした。


 白い紙が黒く焦げる。


 文字が滲む。


 ミ。


 欠損。


 回収。


 それらが、灰に吸われるように崩れていく。


 紙は震えた。


 逃げるように、上へ引っ込んでいった。


 暗闇が戻る。


 ノエルが咳き込んだ。


「……なんだよ、ここ」


 ルカも灰を吐き出しながら、周囲を見た。


 広い。


 さっきの抜け道より、ずっと広い空間だった。


 天井は低いが、立てる。


 床一面に、灰。


 壁にも灰。


 古い炉の腹の底。


 焼いたものを落とす場所。


 灰溜はいだまり。


 クロが灰の上に座り、体を振った。


 黒猫が、一瞬だけ灰色になる。


 ノエルはそれを見て、笑いそうになって、すぐに顔を歪めた。


 背中が痛むのだろう。


 ルカは近づいた。


「見せて」


「だから、あとで」


「もうあとだ」


 ノエルは睨んだ。


 だが、立ち上がろうとして膝をついた。


 痛みを隠しきれていない。


 ルカは無理に肩を掴んだ。


 ノエルが抵抗する。


「いいって」


「よくない」


「時間ないだろ」


「だから見る」


 ノエルは歯を食いしばった。


 ルカは外套の裂けた背中をめくる。


 泥と血。


 蹴られたあざ


 石で擦れた傷。


 深くはない。


 でも、ひどい。


 子どもの体に乗せていい痛みじゃなかった。


 ルカの喉が詰まる。


「誰に」


「商会の奴」


「クロを助けた時?」


「……見てたのかよ」


「見てない。でも、わかる」


 ノエルは少し黙った。


「猫を踏むって言った」


 それだけで、十分だった。


 ルカは布包みの中から、細い布を取り出す。


 元は何かの包み布だった。


 灰を払って、ノエルの背中に当てる。


「痛むよ」


「もう痛い」


「じゃあ、もっと痛む」


「最悪だな、お前」


 ノエルは言いながらも、逃げなかった。


 ルカは布を押さえた。


 ノエルの肩が跳ねる。


 歯を食いしばる音が聞こえた。


 右手は、まだ開かない。


 握ったまま。


 泥と血で固まっている。


「その手」


 ルカが言うと、ノエルは右手を胸に引いた。


「だめだ」


「開かないと、血が止まってるか見えない」


「だめだ」


「指輪、持ってるんだろ」


 ノエルの目が鋭くなった。


「見たのか」


「少し」


「落とさない」


「わかってる」


「開いたら、こぼれる気がする」


 ノエルの声が小さくなった。


 灰溜まりの空気より暗い声だった。


「何が?」


 ルカは聞いた。


 ノエルは答えない。


 答えないまま、唇が震える。


 あの形。


 ミ。


 オ。


 リ。


 ルカは胸の木札を強く抱いた。


「言わなくていい」


 ノエルが息を吐いた。


 安心ではない。


 恐怖が少しだけ形を失ったような息だった。


「聞いた」


 ノエルは言った。


「石箱の中で」


「うん」


「じいさんが……逃がしてくれた」


 灰の上に、沈黙が落ちた。


 ルカは何も言えなかった。


 マレナも。


 南村の老人も。


 みんな、背中を向けて立った。


 逃げ道を開けて、自分は残った。


 それがこの土地の大人たちのやり方なのかと思うと、胸が痛くなった。


「俺」


 ノエルの声が崩れかける。


「また、置いてきた」


「違う」


 ルカは即座に言った。


 ノエルが顔を上げる。


「違う?」


「持ってきた」


「何を」


 ルカはノエルの右手を見た。


「その手を」


 ノエルの目が揺れた。


 ルカは続けた。


「老人が返せって言ったものを、君は持ってきた。クロも。指輪も。声も」


「でも、じいさんは」


「それも持ってきた」


 ルカの声が震えた。


 自分でもわかった。


「置いてきたんじゃない。背負わされたんだ」


 ノエルは何か言おうとして、口を閉じた。


 灰の上に、血が一滴落ちる。


 ノエルの噛み切った唇からだった。


 ルカは布を裂き、ノエルの右手に巻こうとした。


 今度はノエルも拒まなかった。


 ただ、拳は開かなかった。


 握ったまま、その上から布を巻く。


 指輪ごと。


 傷ごと。


 名前ごと。


 ルカはその上から、柔らかい布を巻いた。


 今度はきつくしない。


 こぼれないように。


 でも、壊れないように。


 布越しに伝わる指輪の輪郭は、すでにノエルの皮膚の一部のように硬かった。


 血と泥に濡れた小さな拳の中で、それはただの金属ではなく、誰かが最後に残した祈りの形をしていた。


 ルカの右手が、その硬い輪郭を包み込むようにして布を縛った。


 クロが灰溜まりの奥へ歩き出した。


 そこで、短く鳴く。


 進め、という声だった。


 ルカは立ち上がる。


 灰を払う。


 木札を抱き直す。


 ノエルも立ち上がろうとして、よろめいた。


 ルカが支える。


「一人で歩ける」


「知ってる」


「じゃあ離せ」


「支えるだけ」


「それを離せって言ってる」


「嫌だ」


 ノエルは睨んだ。


 ルカも見返した。


 先に目を逸らしたのはノエルだった。


「……勝手にしろ」


「うん」


 二人は灰溜まりの奥へ進む。


 足を踏み出すたび、灰が静かに沈む。


 音が吸われる。


 息の音さえ、遠くなる。


 ここでは、王都の紙が追ってこない。


 けれど、そのかわりに、別のものが満ちていた。


 灰の下に、何かがある。


 小さな金属片。


 焼けた木片。


 皿の欠片。


 爪ほどの骨。


 名札の破片。


 それらが、踏むたびに低く鳴る。


 声にはならない。


 でも、確かに鳴る。


 ルカの薬指が、ずっと冷えていた。


 触るな。


 読め。


 呼ぶな。


 でも、忘れるな。


 そんな矛盾した圧が、灰の底から押し上げてくる。


「ここも、目録にあるのか」


 ノエルが聞いた。


「たぶん」


「全部?」


「たぶん、全部じゃない」


 ルカは壁を見る。


 灰の壁に、古い木札がいくつも打ちつけられていた。


 文字は煤で潰れている。


 読めない。


 けれど、ひとつひとつに、細い赤い糸が結ばれていた。


 マレナの印。


 ここまで目録なのだ。


 工房の棚だけじゃない。


 床下。


 灰溜まり。


 抜け道。


 逃がせなかったもの。


 逃がしてはいけなかったもの。


 すべて、あの老婆の管理の中にあった。


 ルカは息を呑む。


 十年。


 長い、と思っていた。


 でも違う。


 十年では足りないほどの量だった。


 クロがまた止まった。


 前方に、二つの道。


 左は低い。


 水の匂いがする。


 右は乾いている。


 だが、右の奥から、かすかな紙の音がした。


 ぱき。


 ぱき。


 ノエルの顔が強張る。


「右はだめだ」


 ルカも頷く。


 クロは左へ入った。


 水の匂い。


 古い排水路だ。


 足元に浅い水が流れている。


 灰が水に混じり、黒い筋になっている。


 ルカはノエルを支えながら進む。


 水が靴に入る。


 冷たい。


 ノエルの右手が震えた。


「平気?」


「平気じゃない」


「そう」


「でも歩く」


「うん」


 少しだけ、ノエルが笑った気配がした。


 見えない。


 でも、わかった。


 暗闇の中で、笑いは声より小さい。


 でも、残る。


 排水路は途中で少し広くなっていた。


 天井の割れ目から、細い光が落ちている。


 昼の光。


 外だ。


 ルカは思わず上を見た。


 割れ目の向こうに、灰色の空がある。


 だが、そのすぐ下に、鉄格子がはまっていた。


 古い。


 錆びている。


 押せば開くかもしれない。


 ノエルが息を上げながら言った。


「出口か」


「たぶん」


 クロが格子の下を嗅いだ。


 そして、低く唸った。


 上から声がした。


「排水口を確認しろ」


 兵だ。


 ルカとノエルは同時に身を伏せた。


 上の光が揺れる。


 誰かが格子を覗いている。


 顔は見えない。


 だが、槍の先が差し込まれた。


 鉄が石を擦る音。


「古い水路だ」


「中は?」


「暗い。灰が溜まっている」


「紙は反応しているか」


 少し間。


 ぱき、と遠い音。


「弱い。灰に吸われている」


「なら煙であぶる。中にいれば出てくる」


 ノエルが目を見開いた。


 ルカの背中に冷たい汗が流れる。


 煙。


 この狭い水路で煙を入れられたら、終わる。


 上で誰かが命じる。


「火を持ってこい」


 クロが、音もなく後ずさった。


 ルカは左右を見る。


 戻れば紙の音。


 進めば格子。


 煙が来る。


 ノエルが右手を握り直した。


 ルカはそれを見た。


 右手。


 指輪。


 冷たい光。


 胸の木札が熱を持つ。


 ミオリ。


 呼ばない。


 でも、その響きは暗闇で明滅している。


 まるで、ここを出ろ、と急かすように。


 ルカは腰の道具袋を探った。


 細い針。


 持ち出し用の厄介者。


 折れかけた、古い縫い針。


 なぜ自分がこれを掴んだのか、わからなかった。


 でも、今、指がそれを選んでいる。


 針の先は曲がっていた。


 折れてはいない。


 ルカは鉄格子の錆びた留め具を見る。


 細い隙間。


 届く。


「ノエル」


「何」


「少しだけ、上を見てて」


「見てどうすんだよ」


「兵が覗いたら、教えて」


「わかった」


 ルカは針を留め具の隙間へ差し込んだ。


 右手の薬指が痛む。


 針の声は小さい。


 誰かの服を最後まで縫えなかった、かすかな未練。


 ほどけるな。


 裂けるな。


 留めろ。


 その願いが、ルカの指先に伝わる。


「逆だ」


 ルカは小さく言った。


「今だけ、ほどけてくれ」


 針が震えた。


 錆びた留め具の奥で、何かがかちりと鳴る。


 上で兵が動く。


「火はまだか」


 ノエルが低く言う。


「急げ」


「やってる」


「急げって」


「言われると手が滑る」


「めんどくせえ職人だな」


「知ってる」


 かち。


 留め具がひとつ外れた。


 鉄格子がわずかに浮く。


 だが、まだ足りない。


 もう一つ。


 ルカは針を差し直す。


 その瞬間、上から火の匂いが落ちてきた。


 油。


 布。


 煙。


 ノエルが咳をした。


 まだ火は入っていない。


 でも、匂いだけで体が拒絶する。


 ルカの喉が焼ける。


 昔の煙。


 聖剣の幻視。


 欠けたナイフの拒絶。


 灰の中の子ども。


 全部が、喉の奥を掻きむしる。


「ルカ」


 ノエルの声が焦る。


 ルカは奥歯を噛んだ。


 今、止まるな。


 ここで止まったら、全部燃える。


 木札も。


 指輪も。


 ノエルも。


 クロも。


 マレナが渡したガラクタも。


 針が、指先で熱くなった。


 かち。


 二つ目の留め具が外れる。


 鉄格子が浮いた。


 クロが飛びつく。


 小さな体で、格子を押し上げる。


 ノエルも左手を伸ばす。


 ルカも押す。


 ぎぎぎ、と錆びた音。


 上の兵が気づいた。


「下だ!」


「出てくるぞ!」


 煙のついた松明たいまつが格子の隙間へ突っ込まれる。


 火が近い。


 ルカは針を握ったまま、格子を押し上げた。


 ノエルが先に体を滑り込ませる。


 右手は胸に抱えたまま。


 クロが飛び出す。


 兵の叫び。


「猫だ!」


 クロが兵の顔へ飛ぶ。


「うわっ!」


 松明が揺れる。


 ルカは木札を抱え、排水口から這い出た。


 外の光が目に刺さる。


 冷たい空気。


 灰色の空。


 崩れた石垣。


 ここは工房の裏ではない。


 町の外れ。


 古い水路の出口。


 遠くに、グリム砦の黒い壁が見えた。


 近い。


 近すぎる。


 ノエルが地面に転がり、すぐに立とうとして失敗した。


 ルカが腕を掴む。


 兵が二人。


 一人はクロに顔を引っ掻かれている。


 もう一人が剣を抜く。


「止まれ!」


 止まれるわけがない。


 ルカはノエルを支え、走った。


 走るというより、転がるように進んだ。


 足がもつれる。


 背中で木札が熱い。


 道具袋が重い。


 ノエルの右手が、自分の胸に押し当てられている。


 冷たい。


 熱い。


 どちらも、同時だった。


 クロが前を走る。


 水路沿いの細道。


 崩れた壁の影。


 枯れた草。


 灰の匂い。


 背後で兵が叫ぶ。


「追え!」


「監査官へ報告!」


「残響名保持者、逃走!」


 保持者。


 その言葉に、ルカの腹が冷えた。


 もう、遺物ではない。


 自分たちが、記録の対象になっている。


 ノエルが息を切らして笑った。


「変な名前、つけやがって」


「笑ってる場合じゃない」


「笑わねえと、倒れる」


「じゃあ笑って」


「命令すんな」


 その声が、少しだけノエルらしくて、ルカは泣きそうになった。


 クロが突然、道を外れた。


 水路の脇。


 枯れ草の奥。


 小さな石段がある。


 下へではない。


 上へ。


 砦の外壁に沿って、古い見張り台へ続く階段。


 ルカは息を呑んだ。


「そっち?」


 クロは振り返らない。


 ノエルが苦しそうに言う。


「猫を信じろ」


「君がそれ言うんだ」


「あいつ、性格は悪いけど道は知ってる」


「信用してるんだ」


「してねえ」


 ルカはノエルを支えたまま、石段を上る。


 足音が響く。


 背後の兵の声が少し遠ざかる。


 水路からは見えにくい道だ。


 マレナの逃げ道。


 いや、クロの道。


 石段の上には、崩れかけた見張り小屋があった。


 屋根は半分落ちている。


 中には、古い毛布と木箱。


 誰かが使っていた跡。


 クロはその木箱の上に乗り、短く鳴いた。


 ルカはノエルを座らせる。


 ノエルはすぐ立とうとした。


「まだ来る」


「少しだけ」


「来るって」


「少しだけ!」


 ルカの声が大きくなった。


 ノエルが驚いたように黙る。


 ルカも自分で驚いた。


 息が荒い。


 手が震えている。


 怖い。


 ずっと怖い。


 でも、もう誰かが倒れるのを見たくなかった。


「少しだけ、手当てする」


 ルカは低く言った。


「それから逃げる」


 ノエルは顔を逸らした。


「……早くしろ」


 ルカは頷く。


 布を巻き直す。


 背中。


 腕。


 唇。


 右手は、やはり開かない。


 ノエルの拳は、石みたいに固かった。


 その中で真鍮の指輪が皮膚に食い込んでいる。


 血が滲んでいた。


「痛いだろ」


「痛い」


「開かない?」


「開けたくない」


「うん」


 ルカはその上から、柔らかい布を巻いた。


 今度はきつくしない。


 こぼれないように。


 でも、壊れないように。


 布越しに伝わる指輪の輪郭は、すでにノエルの皮膚の一部のように硬かった。


 血と泥に濡れた小さな拳の中で、それはただの金属ではなく、誰かが最後に残した祈りの形をしていた。


 ルカの右手が、その硬い輪郭を包み込むようにして布を縛った。


 木札が、ルカの膝の上で小さく鳴った。


 こん。


 ノエルの右手も、同じ瞬間に震える。


 二人は顔を見合わせた。


 声にしない。


 その約束だけが、空気に浮いた。


 見張り小屋の外で、鐘が鳴った。


 三つ。


 間を置かず、三つ。


 いている。


 町が変わっていく音。


 追手が増える音。


 クロが小屋の入口で、外を睨んでいる。


 ルカは木札を胸に抱いた。


 ノエルは布の巻かれた右手を胸に当てた。


 遠くの旧工房の方角から、黒い煙が細く上がっていた。


 燃えているのか。


 鍋の湯気なのか。


 わからなかった。


 ただ、その煙の下に、マレナがいる。


 そう思った。


「ルカ」


 ノエルが言った。


「何」


「俺、聞いた」


「うん」


「でも、全部じゃない」


 ルカはノエルを見る。


 ノエルの顔は青白い。


 それでも、その目はまっすぐだった。


「あの名前を聞いた時、じいさん、あいつらって言った。王都の兵じゃないって」


「うん」


「声がした」


 ノエルは喉を鳴らした。


「石箱の中じゃない。もっと奥から」


 ルカの薬指が冷えた。


「何て」


 ノエルは首を振った。


「言葉じゃない。ただ……笑った」


 風が見張り小屋を抜けた。


 灰が舞う。


 クロの毛が逆立つ。


 ルカは木札を見る。


 一文字目。


 ミ。


 戻りかけの二文字目。


 三文字目の横線。


 そこに、細い影が重なっているように見えた。


 文字ではない。


 傷でもない。


 何かの爪痕つめあとのような、黒い筋。


 ルカは触れなかった。


 触れてはいけない。


 けれど、見えてしまった。


 王都の紙が書けなかった空白。


 エナが焼いて消した理由。


 老人が恐れた「あいつら」。


 その全部が、まだ向こう側で息をしている。


 ノエルが拳を握る。


 指輪が布の下で鈍く鳴った。


「次、どこ行く」


 ノエルが聞いた。


 ルカは遠くの砦を見た。


 黒い壁。


 十年前の裏門。


 カイルが立った場所。


 白布が揺れた場所。


 誰かが子どもを抱えて走った場所。


「裏門」


 ルカは言った。


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


 ノエルは少しだけ目を伏せた。


 兄の名を聞いた時のように。


 それから、頷いた。


「行こう」


 クロが短く鳴いた。


 まるで、とっくにそのつもりだ、と言うように。


 見張り小屋の外で、記録院の鐘がまた鳴った。


 今度は、四つ。


 町のどこかで、遠隔記録紙が一斉に開く音がした。


 ぱらり。


 ぱらり。


 ぱらり。


 紙が、彼らを探している。


 ルカは木札を抱え直した。


 ノエルは泥と血に汚れた右手を、布越しに胸へ押し当てる。


 二人はまだ、その名を呼ばない。


 灰色の空の下。


 グリム砦の裏門へ向かって、二人と一匹の足音が、静かに灰を沈めていった。

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