裏門は、まだ閉じていなかった
グリム砦の裏門は、町のどこからも見えない場所にあった。
正面の大門は、王都の石工が磨いた白い石で飾られている。
勝利の門。
英雄の門。
そこには戦後に刻まれた碑文があり、観光客のいない辺境でも、兵たちは毎朝そこを磨いているらしい。
けれど、裏門へ向かう道には、誰の足跡もなかった。
崩れた外壁。
枯れた蔓。
黒い苔。
灰を含んだ風。
ここだけ、十年前から時間が止まっているようだった。
ルカは木札を胸に抱き、ノエルの肩を支えながら歩いていた。
クロが少し前を行く。
猫の足音はしない。
ただ、時々、短い尻尾が揺れる。
ノエルの息は荒い。
それでも、足は止まらない。
布を巻いた右手は、胸に押し当てられたままだ。
その中の真鍮の指輪が、布越しにも硬く浮いている。
「まだ平気?」
ルカが聞く。
「その質問、あと何回するんだよ」
「倒れるまで」
「じゃあ一生聞くな」
「一生倒れないなら、ありがたい」
ノエルは睨もうとして、失敗した。
痛みで顔が歪む。
ルカは支える腕に力を込めた。
「無理しないで」
「無理してる」
「正直だ」
「嘘つく余裕がない」
その言い方が妙にノエルらしくて、ルカは少しだけ息が抜けた。
すぐに、また胸が詰まる。
背後では、遠隔記録紙が一斉に開く音が、風に乗って届いていた。
ぱらり。
ぱらり。
町のあちこちで、紙が彼らを探している。
鐘はもう、何度鳴ったかわからない。
三つ。
四つ。
間隔が短くなっている。
グリムの町そのものが、紙に包まれていくようだった。
だが、砦の裏手に入ると、その音は少し鈍った。
風向きのせいか。
それとも、この場所の灰がまだ濃いからか。
ルカの薬指が冷たく痺れる。
壊れ物が多すぎる場所だ。
地面。
壁。
枯れた木。
落ちた釘。
折れた矢じり。
全部が何かを抱えている。
読むな。
全部を読もうとするな。
マレナの声が、頭の奥で響いた気がした。
ルカは木札を抱え直す。
その瞬間、木札が小さく鳴った。
こん。
ノエルが足を止めた。
「鳴った?」
「うん」
「ここが近いってことか」
「たぶん」
「便利だな」
「便利じゃない」
ルカは即座に言った。
「呼ばれてるだけだ」
ノエルは黙った。
その顔から、軽口が消える。
クロが低く鳴いた。
前方。
崩れた石壁の間に、黒い門が見えた。
裏門。
大きくはない。
荷車一台が通れる程度の幅。
厚い木扉は半分焼け、上から鉄板で補強されていた。
だが、その鉄板も古い。
錆びて膨らみ、ところどころ剥がれている。
門の上には、王都の封印板が打ちつけられていた。
白い石板。
新しい。
この場所の古さの中で、そこだけが異様に清潔だった。
刻まれた文字が見える。
ルカは近づき、息を止めた。
――グリム砦裏門跡。
魔王戦争終結時、補助兵カイル・ロイド、命令違反により持ち場を離脱。
裏門開放の責により、民間人被害拡大。
以後、封鎖。
ノエルの体が固まった。
右手の布が、ぎし、と鳴るほど握られる。
「……違う」
声は小さかった。
でも、石を削るみたいに硬かった。
「兄ちゃんは、逃げてない」
ルカは石板を見上げた。
白い。
綺麗だ。
文字も整っている。
きっと、王都の職人が丁寧に彫ったのだろう。
歪みもない。
欠けもない。
だから余計に、吐き気がした。
壊れていない嘘。
直すこともできない、綺麗な傷。
ルカの喉の奥が焼ける。
ノエルが一歩前へ出た。
「壊す」
「待って」
「壊す」
ノエルは左手で石を掴もうとした。
ルカは腕を押さえる。
「今はだめ」
「なんでだよ」
「音が出る。紙が来る」
「じゃあ、ずっとこれを残せって言うのか」
「違う」
ルカは石板を見た。
白い石。
新しい嘘。
その下。
門の古い木肌に、別の傷があった。
焼け焦げの中に、細い線。
何度も何度も、爪か刃物で削ったような跡。
「こっちが先だ」
ノエルが息を呑む。
ルカは封印板ではなく、その下の焦げた木へ近づいた。
触れない。
近づくだけ。
木札が胸の中で熱を持つ。
道具袋の奥で、欠けたナイフが冷たく震えた。
クロが門の前で背を低くする。
毛が逆立っている。
ルカは膝をついた。
焦げ跡の下に、白いものが挟まっていた。
布だ。
ほんの糸くずほどの白布。
鉄板と木の隙間に噛んでいる。
雨にも、風にも、十年にも取られず、そこに残っていた。
「兄ちゃんの……?」
ノエルの声が震えた。
ルカは首を横に振る。
「同じ布かもしれない。でも、槍のものとは別だ」
白布の先は、内側へ引き込まれていた。
門の向こう。
封じられた先へ。
ルカは指を伸ばしかけて、止める。
薬指が警告するように痛んだ。
触るな。
でも、読め。
厄介な話だ。
「ノエル、右手を貸して」
「は?」
「触らなくていい。近づけるだけ」
「俺の手を?」
「指輪が反応するかもしれない」
ノエルは眉を寄せた。
それでも、布を巻いた右手をゆっくり差し出した。
拳は開かない。
開けない。
ルカはその手を、門の焦げ跡のそばへ近づける。
白布が、風もないのに揺れた。
ノエルの喉が鳴る。
木札が、こん、と鳴る。
欠けたナイフが、道具袋の中で冷たく跳ねる。
三つの音が、ほとんど同時だった。
ルカの視界が白く揺れた。
けれど、引きずり込まれはしない。
まだ、触れていない。
見えたのは、ほんの断片だけだった。
泥。
白布。
火の粉。
誰かの腕。
門を押す、大きな手。
その手に、血が流れている。
カイルの声。
『走れ!』
別の男の声。
『先に行け、ロイド!』
ノエルが息を止めた。
彼にも聞こえたのかもしれない。
ルカは奥歯を噛む。
視界の中で、男が振り返った。
顔は見えない。
煙が濃い。
だが、その腰に吊られているものだけは見えた。
半分焼けた、欠けたナイフ。
ルカの腰の道具袋が、痛いほど冷えた。
「っ……」
ルカは体を引いた。
断片が途切れる。
現実に戻る。
息が荒い。
ノエルが肩を掴んでいた。
「ルカ」
「大丈夫」
「大丈夫な顔じゃねえ」
「見えた」
「何が」
ルカは答えようとして、口を閉じた。
言葉にしたら、壊れる気がした。
あの男。
ナイフ。
カイル。
裏門。
ルカは喉の奥で、煙を呑み込んだ。
ノエルは問い詰めなかった。
ただ、門を見た。
「兄ちゃん、ここにいたんだな」
「うん」
「逃げてないよな」
「うん」
ノエルは目を伏せた。
拳が震える。
泣いてはいない。
でも、泣くより痛そうな顔だった。
クロが短く鳴いた。
門の脇。
崩れた石の下に、小さな穴があった。
猫一匹なら通れる。
人間には無理だ。
クロはそこへ鼻を入れ、すぐに顔を引いた。
低く唸る。
その奥から、冷たい風が吹いた。
土の匂い。
古い血の匂い。
そして、甘い匂い。
花の腐ったような、嫌な甘さ。
ノエルの顔色が変わった。
「石箱で聞いたやつ」
ルカも同じことを思った。
あいつら。
王都の兵ではない。
言葉じゃない。
ただ、笑った。
その笑いの気配が、門の向こうにある。
ルカは封印板を見上げた。
王都は、この門を閉じた。
カイルの罪を刻んだ。
けれど、本当に閉じたかったものは、たぶん別にある。
ノエルが低く言った。
「開けるのか」
ルカはすぐには答えられなかった。
開ければ、何かが来るかもしれない。
開けなければ、何もわからない。
胸の木札が熱い。
布に包まれたノエルの拳が冷たい。
腰のナイフが、まだ震えている。
クロが穴の前で、じっと待っている。
選べ、と言われているようだった。
「今すぐ全部は開けない」
ルカは言った。
「でも、ここを読まないと進めない」
「どうやって」
「嘘じゃない方を見る」
ルカは封印板ではなく、焼けた門の下へ目を落とした。
白布。
焦げた木。
爪のような傷。
そして、門の下端に、細い金属片が刺さっていた。
鍵の欠片。
いや、違う。
刃の先端だ。
焼けて、折れて、木に食い込んだまま残っている。
ルカの息が止まった。
形が似ている。
あまりにも。
自分の欠けたナイフの先端に。
ノエルも気づいた。
「それ……」
「触らないで」
ルカの声は、自分でも驚くほど鋭かった。
ノエルが手を止める。
ルカは震える指で、道具袋を開いた。
欠けたナイフを取り出す。
半分焼けた刃。
欠けた先端。
名前を削り取ったような柄。
今まで何度も、触れようとして弾かれたもの。
ルカ自身の壊れ物。
ナイフを門の下端へ近づける。
欠けた刃と、木に刺さった刃先。
距離が縮まる。
ぴたりと重なる直前、磁石が反発し合うような鋭い痛みが、ルカの薬指を貫いた。
欠けた断面から、焼けた鉄の匂いと、十年前の乾いた血の気が、泥濘のように溢れ出る。
二つの刃先が接触した瞬間、ルカの視界が白く濁った。
空気が止まった。
木札が鳴る。
ノエルの指輪が鳴る。
白布が揺れる。
そして、門の向こうから。
小さな笑い声がした。
子どもではない。
女でもない。
男でもない。
喉のない何かが、暗い水の底で笑っているような声だった。
クロが全身の毛を逆立てた。
ノエルが左手でルカの袖を掴む。
「ルカ」
ルカは動けなかった。
欠けたナイフが、初めて、自分の手を拒まなかった。
そのかわり。
門に刺さった刃先が、ゆっくりと震えた。
まるで、十年ぶりに持ち主を見つけたみたいに。
ルカの視界が暗くなる。
白ではない。
黒だ。
黒い残響が、刃先から滲み出す。
そこに、声が混ざった。
『ミ――』
ルカは歯を食いしばった。
呼ぶな。
まだ呼ぶな。
だが、その声は木札ではない。
ノエルでもない。
門の向こうからでもない。
欠けたナイフの、折れた断面から漏れていた。
その声は、ルカの耳ではなく、ナイフを握る右手の骨の奥へ直接刻み込まれた。
『坊主を、門の向こうへ入れるな』
ルカの全身が凍った。
ノエルが何か叫んだ。
クロが鳴いた。
遠くで、記録院の鐘が鳴る。
しかし、それらは全部、薄い膜の向こうへ遠ざかった。
裏門の白い封印板に、細い亀裂が入った。
ぴしり、と。
綺麗な王都の文字が、一本だけ割れる。
ルカはナイフを握ったまま、息をしていた。
ノエルの右手が、布の下で激しく震えている。
門の向こうの甘い匂いが、濃くなる。
そして、焼けた裏門の内側から。
誰かが、三度、叩いた。
こん。
こん。
こん。
門そのものが鳴っていた。




