壊れる前の朝
こん。
こん。
こん。
門そのものが、内側から鳴っていた。
ルカはナイフを握ったまま、息を忘れていた。
欠けた刃。
門に刺さった刃先。
二つの断面が触れ合った場所から、焼けた鉄の匂いが滲んでいる。
右手の薬指が痛い。
痛い、では足りない。
骨の内側に、冷えた釘を打ち込まれているようだった。
「ルカ!」
ノエルの声が、遠い。
肩を掴まれている。
揺さぶられている。
でも、手が離れない。
ナイフが、今度は拒まない。
拒まないかわりに、逃がしてくれない。
ノエルは、血と泥に汚れた自身の右手を、ルカの握るナイフへ重ねた。
二人で、その地獄を受け止めるように。
裏門の白い封印板に入った亀裂が、ゆっくり伸びていく。
ぴし。
ぴし。
王都の綺麗な文字が、細く割れる。
補助兵カイル・ロイド。
命令違反。
その文字の上を、黒い線が走った。
門の向こうの甘い匂いが濃くなる。
腐った花。
古い血。
濡れた灰。
クロが背を丸め、喉の奥で唸っている。
猫の目は、門ではなく、門の下の暗い隙間を見ていた。
そこに、何かがいる。
見えない。
でも、いる。
「手、離せ!」
ノエルが叫んだ。
左手でルカの腕を引く。
布を巻いた右手は、ルカの手の上に重なっている。
その中の指輪が、ぎし、と鈍く鳴った。
木札も鳴る。
こん。
門も鳴る。
こん。
ナイフの断面が、冷たく脈打つ。
こん。
三つの音が、ルカの胸の奥で重なった。
次の瞬間。
裏門の隙間から、光が漏れた。
闇ではなかった。
白でもない。
朝の色だった。
薄い金色。
煙に濁った、壊れる前の朝の色。
「……何だよ、これ」
ノエルの声が震えた。
ルカは答えられない。
門は開いていない。
扉は閉じている。
鉄板も、封印板も、焼けた木も、全部そこにある。
それなのに。
その奥から、朝が染み出していた。
風が吹いた。
灰ではなく、麦の匂いがした。
炊きかけの粥。
濡れた革。
人の汗。
馬の鼻息。
そして、遠くで子どもが泣く声。
ルカの足元が崩れた。
いや、地面は崩れていない。
世界の方が、薄く剥がれた。
門の木目が伸びる。
焦げ跡が消える。
錆びた鉄板が黒く濡れた鉄へ戻る。
白い封印板が視界から消えた。
そこにあったのは、十年前の裏門だった。
まだ焼け落ちていない。
まだ嘘を刻まれていない。
まだ閉じていない。
グリム砦の裏門。
壊れる前の朝。
ルカは息を呑んだ。
自分の体は、そこに立っている。
ノエルもいる。
クロもいる。
けれど、誰もこちらを見ない。
門の前を、兵が走っていく。
荷物を抱えた女が、泣きながら子どもの手を引いている。
老人が鍋を抱えている。
若い男が、背中に戸板を背負っている。
誰かが叫ぶ。
「南側はもう燃えてる!」
「裏門へ回せ!」
「正門はだめだ、王都兵が塞いでる!」
声が重なる。
足音が重なる。
世界が生きている。
生きて、壊れようとしている。
ノエルがふらりと前へ出た。
「兄ちゃん……」
ルカはその視線を追った。
裏門の横。
鎖を外そうとしている若い補助兵がいた。
汚れた革鎧。
額の汗。
口元の血。
背は高くない。
けれど、足を踏ん張る姿は、折れた槍みたいにまっすぐだった。
カイル・ロイド。
ノエルの兄。
彼は、鎖に食い込んだ鉄杭を抜こうとしていた。
腕が血で濡れている。
それでも止まらない。
「開けるな!」
別の兵が怒鳴った。
胸に王都の紋章。
綺麗な鎧。
泥のついていない靴。
「裏門開放は許可されていない! 待機命令だ!」
カイルは振り返らない。
「待ってたら村の連中が焼け死ぬ!」
「命令だ!」
「命令で火は止まらねえ!」
カイルが鉄杭を蹴った。
がん、と音が響く。
鎖が少し緩む。
民たちが門の前に集まっていく。
泣き声。
咳。
祈り。
怒鳴り声。
ノエルの喉から、獣みたいな息が漏れた。
飛び出そうとする。
ルカは腕を掴んだ。
「だめだ」
「兄ちゃんが」
「触れない」
「でも!」
「これは、もう壊れた時間だ」
言いながら、ルカ自身の喉が詰まった。
もう壊れた。
その言葉が、こんなに残酷だとは思わなかった。
ノエルは歯を食いしばり、前を見た。
涙は出ていない。
目だけが、焼けるように赤かった。
その時。
門の奥から、男が走ってきた。
顔は煙でよく見えない。
肩に外套。
腰に、半分焼ける前のナイフ。
まだ欠けていない。
黒い革巻きの柄。
細い刃。
ルカの道具袋の中にある、あのナイフの元の姿だった。
ルカの右手が痛んだ。
男は片腕に小さな包みを抱えていた。
子どもだ。
布にくるまれている。
顔は見えない。
ただ、小さな手だけが布の外に出ていた。
その手首に、細い赤い糸。
ノエルの右手の布の下で、真鍮の指輪が震えた。
男の後ろから、女が走ってくる。
髪が乱れている。
頬に煤。
片手に、焼け焦げた木札。
もう片方の手は血で濡れていた。
エナ。
名前を聞かなくても、ルカにはわかった。
彼女は木札を胸に押し当てていた。
呼吸が荒い。
目だけが、恐ろしく冴えている。
「呼ばないで」
彼女は言った。
誰に向けてでもなく。
空気そのものへ釘を打つように。
「その名で呼ばないで」
男が振り返る。
「エナ、こっちだ!」
エナは首を振った。
「だめ。門の向こうに出したら、見つかる」
「ここに残せば死ぬ!」
「呼ばれたら、もっと悪い」
女の声は震えていた。
それでも、言葉は折れていない。
男は子どもを抱き直す。
布の中で、小さな声が漏れた。
眠りかけた子どもの、頼りない声。
『……ミ』
エナがその口を塞いだ。
強く。
泣きそうな顔で。
「だめ」
彼女の爪が、自分の手の甲に食い込んでいる。
「お願い。まだ、呼ばないで」
ルカの胸の木札が焼けるように熱くなった。
ノエルの右手が震えている。
クロが低く唸る。
門の向こう。
まだ開いていない扉の外。
何かが笑った。
薄く。
遠く。
人の声の形を真似ただけのような笑い。
カイルが顔を上げた。
「今のは」
男が、ナイフに手をかけた。
「入れるな」
「何をだ」
「門の向こうから来るもの全部だ」
「外は逃げ道だぞ」
「逃げ道にも口はある」
男の声は低かった。
その顔は、煙で見えない。
ただ、ナイフを握る手だけがはっきり見えた。
指先に血。
手首に古い火傷。
そして、小さな傷跡がいくつもある。
職人の手だ。
刃物を使う手。
火を知っている手。
ルカはその手を見た瞬間、自分の右手がひどく冷えるのを感じた。
男がカイルへ白布を投げた。
「ロイド、これを結べ」
「何だ」
「出口の目印だ。煙の中でも見える」
「お前は」
「後で行く」
「嘘つけ」
カイルが男を睨んだ。
男は笑わなかった。
「お前の弟が、この布を覚える日が来る」
カイルの顔が変わった。
「ノエルを知ってるのか」
「知ってる。お前がいつも話すからな」
カイルの口元が、一瞬だけ歪んだ。
笑ったのかもしれない。
泣きそうになったのかもしれない。
「なら、生きて戻って俺が話す」
「それがいい」
男は言った。
その声は、優しかった。
だから余計に、苦しかった。
次の瞬間。
砦の奥から、黒いものが走った。
影ではない。
煙でもない。
人の形を途中で諦めたような、細長い何か。
壁を這う。
地面を滑る。
音もなく、子どもの泣き声の方へ向かう。
エナが息を止めた。
男がナイフを抜く。
刃が朝の光を弾いた。
まだ欠けていない刃。
まだ、誰の血も十分には吸っていない刃。
男が一歩踏み込む。
黒いものが笑った。
その笑い声が、ルカの背中を氷の棒で撫でた。
男のナイフが、黒いものを裂く。
音はしなかった。
ただ、甘い匂いが強くなった。
花が腐る匂い。
名前が腐る匂い。
ルカは吐き気をこらえた。
黒いものは、裂けても死ななかった。
裂けたところから、細い声が漏れる。
『呼んで』
『呼んで』
『名前を』
エナが木札を抱いた。
血のついた指で、木札の文字を削る。
ぎり。
ぎり。
爪が剥がれそうな音。
ルカの薬指が痛む。
削られているのは木札なのに、自分の骨が削られているみたいだった。
エナは泣いていなかった。
泣く暇がなかった。
母親の顔ではない。
職人の顔だった。
壊すことで守る顔。
カイルがついに鎖を外した。
裏門が軋む。
民たちが息を呑む。
「開くぞ!」
カイルが叫ぶ。
「白布を見ろ! 転ぶな! 子どもを先に出せ!」
王都兵が怒鳴る。
「ロイド、やめろ!」
カイルは振り返った。
「後で好きなだけ罰しろ!」
門が開いた。
朝の光が流れ込む。
だが、その光の外側にも、黒いものがいた。
遠くの林。
焼けた道。
逃げ道の先。
何かが、こちらを見ている。
エナが小さく呻いた。
男が子どもを抱いたまま、後ずさる。
「やっぱり、外も駄目だ」
カイルが歯を食いしばる。
「じゃあどこへ逃がす!」
男は答えなかった。
代わりに、門の内側の暗い穴を見た。
砦の地下へ続く、小さな通路。
今のクロが覗いた、あの穴に似ていた。
その奥から、甘い匂いがした。
男の顔が硬くなる。
「門の向こうへ入れるな」
「どっちの向こうだよ!」
カイルが怒鳴る。
男は子どもを抱き直した。
その腕が震えている。
「呼ばれる方だ」
その言葉と同時に。
子どもが、小さく息を吸った。
エナの手が間に合わない。
布の奥から、声が漏れそうになる。
ミ。
オ。
ルカは反射的に耳を塞ぎそうになった。
だが、塞がなかった。
ノエルも震えている。
クロは毛を逆立てたまま動けない。
エナが叫んだ。
「だめ!」
世界が黒く跳ねた。
黒いものが、一斉にこちらを向いた。
外の林から。
砦の穴から。
燃える村の方から。
名前の途中だけで、全部が振り返った。
男はナイフを逆手に持った。
そして、迷わず自分の掌を切った。
血が刃を濡らす。
その血で、男は子どもの口元に触れた。
いや、塞いだのではない。
何かを上書きした。
音を、血で封じた。
子どもの声が途切れる。
エナが崩れ落ちそうになる。
男が低く言った。
「ロイド」
「何だ」
「俺が閉める」
「無理だ」
「知ってる」
「じゃあ」
「だから、お前は開けろ」
カイルが息を止めた。
男は血に濡れたナイフを握り、開いた門の蝶番へ走った。
「民を出せ。白布を目印にしろ。記録なんか見るな。声を聞け」
「お前は!」
「坊主を頼む」
その言葉で、ルカの胸が裂けた。
何度も聞いた言葉。
けれど、今までと響きが違う。
頼む、ではない。
押しつける声ではない。
祈りでもない。
自分が戻れないことを知っている男の、最後の仕事の声だった。
カイルは怒鳴った。
「名前を言え!」
男は振り返らなかった。
その背中だけが、煙の中で見えた。
「言ったら来る」
男はそう言った。
そして、門の金具へナイフを叩き込んだ。
刃が深く食い込む。
黒いものが門へ殺到する。
カイルが白布を結ぶ。
民が走る。
エナが木札を削る。
子どもが泣く。
王都兵が叫ぶ。
何もかもが同時だった。
男はナイフをさらに押し込んだ。
刃が軋む。
半分まで埋まる。
それでも足りない。
男は自分の肩で門を押さえた。
黒いものが、その腕に絡みつく。
皮膚が裂ける。
血が飛ぶ。
甘い匂いが爆ぜる。
カイルが戻ろうとする。
「来るな!」
男が初めて叫んだ。
その声で、ルカの視界が震えた。
「坊主を、門の向こうへ入れるな!」
ナイフが折れた。
乾いた音だった。
刃先が門に残り、柄の側が男の手に戻る。
その瞬間、黒いものが男を包んだ。
顔は見えない。
最後まで、見えない。
ただ、その手だけが見えた。
欠けたナイフを握った手。
血と煤にまみれた手。
その手が、何かをこちらへ投げた。
小さなもの。
赤い糸。
指輪。
木札の欠片。
どれかはわからない。
全部かもしれない。
視界が白く弾けた。
ルカは叫んだつもりだった。
でも、声は出なかった。
現実に戻る。
裏門は焼けている。
封印板は割れている。
白布は隙間で震えている。
ルカは欠けたナイフを握っていた。
門に刺さった刃先と、まだ触れている。
息ができない。
ノエルが肩を掴んでいる。
目を見開いている。
彼も見たのか。
どこまで。
どこまで見えてしまったのか。
クロが鳴いた。
短く。
鋭く。
ルカはナイフを引こうとした。
動かない。
刃先が門に食い込んだまま、欠けたナイフと繋がっている。
まるで、この十年、そこに戻るのを待っていたように。
門の向こうの甘い匂いが、濃くなる。
裏門の内側から、また音がした。
こん。
ノエルが後ずさる。
こん。
クロが唸る。
こん。
ルカの右手が震える。
門そのものが鳴っていた。
そして、割れた封印板の奥で。
王都の白い石ではなく、焼けた木の下から。
誰かの声が、爪で扉を掻くように漏れた。
『……いれて』
ルカはナイフを握ったまま、息を止めた。
ノエルの布に包まれた右手が、胸の前で硬く震えている。
遠くで、記録院の鐘が鳴る。
四つ。
間を置かず、五つ。
王都の紙が、この場所へ向かっている。
それでも、門の内側の声だけが近かった。
『いれて』
クロが、初めて一歩、ルカたちの後ろへ下がった。
ルカは白布を見た。
門に刺さった刃先を見た。
自分の手の中の欠けたナイフを見た。
そして。
まだ開いていない裏門が、ゆっくりと内側から息を吸った。




