直してはいけない刃
裏門が、息を吸った。
空気が引き寄せられる。
灰。
枯れ草。
砕けた石の粉。
ノエルの外套の裾。
クロの黒い毛。
全部が、門の細い隙間へ向かって震えた。
ルカは欠けたナイフを握ったまま、動けなかった。
門に刺さった刃先と、手の中の刃。
二つの断面が触れている。
そこだけが、世界の中心みたいに冷たい。
『いれて』
声がした。
子どもみたいに細い。
でも、子どもではない。
喉ではなく、木の奥で湿った爪が擦れるような声だった。
ノエルが息を呑む。
「ルカ、離せ」
ルカは指に力を入れた。
離そうとした。
でも、ナイフは動かない。
門に刺さった刃先が、こちらの欠けた刃を掴んでいる。
いや、違う。
掴んでいるのは刃ではない。
ルカ自身の奥にある、ずっと欠けたままだったものだ。
直せ。
そう言われている気がした。
ここを直せ。
この刃を戻せ。
このナイフを完成させろ。
そうすれば、知れる。
灰の中で何が起きたのか。
自分がなぜこのナイフを握っていたのか。
あの男が誰だったのか。
坊主とは、誰のことだったのか。
ルカの右手の薬指が、焼けるように冷たくなった。
【修復】が、意志とは無関係に刃の断面へ溢れ出そうとする。
ルカは、震える右手を無理やり左手で押さえつけた。
爪が皮膚に食い込み、血が混じる。
それでも魔力は、止まらない。
「……だめだ」
ルカは歯を食いしばった。
ノエルがルカの手元を見た。
そして、何かに気づいたように顔を歪めた。
「直すな」
低い声だった。
ルカは一瞬、ノエルを見た。
ノエルの顔は青白い。
唇には血。
右手には布。
その奥に、真鍮の指輪。
兄の槍を直すためにルカについてきた少年が、いま、ルカの手を睨んでいた。
「直すな、ルカ」
もう一度。
今度は、はっきり。
その言葉が、刃より深く刺さった。
ルカは息を吸った。
門の向こうの甘い匂いが、肺に入る。
腐った花。
古い血。
濡れた灰。
その中に、さっき見た朝の匂いが混じっている。
粥。
麦。
白布。
カイルの声。
エナの爪。
男の血。
坊主を、門の向こうへ入れるな。
その声は、まだ右手の骨の奥に残っていた。
ルカは、流れかけた魔力を、無理やり噛み殺した。
体の中で何かが裂ける。
「ぐっ……」
膝が落ちそうになる。
ノエルが左手でルカの腕を掴んだ。
今度は引き離すためではない。
支えるためだった。
布を巻いた右手は、胸に押し当てられたまま震えている。
でも、ノエルは逃げない。
ルカの隣で、門を睨んでいる。
『いれて』
門の声が、少し近くなった。
裏門の板が内側から膨らむ。
焼けた木が、息を吸うみたいに軋む。
封印板の亀裂がさらに走った。
王都の文字がひとつ、欠ける。
命令違反。
その「命」の字が、黒い線で割れた。
遠くで鐘が鳴る。
四つ。
五つ。
間を置かず、また四つ。
記録院が近づいている。
足音も聞こえた。
石を蹴る靴音。
鎧の擦れる音。
紙が開く音。
ぱらり。
ぱらり。
クロが低く唸った。
門の方へではない。
背後へ向けて。
追手が来る。
でも、今背を向けたら、ルカの手は門に持っていかれる。
ルカはナイフを握り直した。
刃先と刃先が、震えながら噛み合っている。
直せる。
たぶん、直せる。
それがわかってしまう。
わかってしまうから、苦しい。
けれど。
ノエルの声が、まだ耳に残っている。
直すな。
ルカは奥歯を噛みしめた。
「ノエル」
「何」
「痛むかも」
「もう痛い」
「もっと」
「知るか」
ノエルが短く吐いた。
「やれ」
ルカは頷いた。
ナイフを捻った。
修復の流れに逆らう。
直ろうとする刃を、あえて凍らせる。
そんな技術、王都の教科書にも、あの工房にもなかった。
だが、マレナなら笑うだろう。
蓋を閉めるのも仕事だ、と。
欠けた刃が悲鳴をあげた。
黒い残響が、煙のように噴き出す。
『いれて』
声が歪んだ。
『いれて』
子どもの声に似る。
『いれて』
女の声に似る。
『いれて』
カイルの声に似た。
ノエルの体がびくりと跳ねる。
ルカは叫んだ。
「聞くな!」
ノエルは唇を噛み、ルカの腕を掴む左手にすべてを込めた。
ルカはナイフを捻り切った。
ぱきん。
直るはずのものが、直るのをやめた音だった。
手の中の欠けたナイフが、門の刃先から外れる。
ルカは後ろへ吹き飛ばされた。
ノエルも巻き込まれる。
二人で灰の上を転がった。
クロが跳ねる。
門が、ひどく大きな息を吐いた。
灰が舞う。
白布が荒く揺れる。
封印板の亀裂が黒く光り、すぐに沈黙する。
裏門の中から、悲鳴にも似た風が漏れた。
『い――』
そこで声が途切れた。
扉は、閉じたままだった。
完全には閉じていない。
でも、開いてもいない。
ルカは地面に倒れたまま、右手を見た。
欠けたナイフ。
その刃の断面に、新しい亀裂が一本入っていた。
細く、黒い。
まるで、裏門の傷が移ったみたいだった。
ルカの指先から血が垂れる。
ナイフの柄に落ちる。
じゅ、と小さな音がした。
「ルカ!」
ノエルが起き上がる。
顔色がひどい。
それでも、ルカの手を掴んだ。
「手、見せろ」
「君の方が」
「うるせえ、見せろ!」
ノエルの声が裏返っていた。
ルカは少しだけ笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
息が足りない。
喉が痛い。
胸の奥に、まだ門の呼吸が残っている。
「大丈夫」
「大丈夫じゃねえって顔だろ」
「君も、さっき同じこと言った」
「言ったからわかるんだよ」
ノエルはルカの右手を見る。
薬指が白くなっていた。
感覚がない。
けれど、まだ動く。
ルカは指を折った。
痛みが遅れて走る。
生きている痛みだった。
クロが鋭く鳴いた。
背後。
追手が来ていた。
崩れた石壁の向こうから、記録院の兵が姿を現す。
三人。
いや、五人。
その後ろに、黒い外套。
エルヴィン・クロウ。
息ひとつ乱れていない。
けれど、その手にある遠隔記録紙は、端が黒く焦げていた。
門の呼吸を拾ったのだろう。
紙面には文字が浮かんでは潰れている。
未登録。
門内反応。
残響名。
欠損。
更新不能。
エルヴィンは割れた封印板を見た。
門に刺さった刃先を見た。
ルカの手の中の欠けたナイフを見た。
最後に、ノエルの右手を見た。
「君たちは」
エルヴィンの声は低かった。
「何を開けようとした」
ノエルが立ち上がろうとする。
ルカは腕を掴んで止めた。
ノエルの足は震えている。
まだ走れる状態ではない。
でも、立とうとしている。
兵が剣を抜く。
クロが唸る。
ルカはナイフを握った。
さっきまでより、軽い。
いや、違う。
何かを置いてきた軽さだ。
門に刺さった刃先は、まだそこにある。
それを取り戻さなかった。
直せるかもしれなかった自分の壊れ物を、また壊したままにした。
その事実が、右手より痛かった。
エルヴィンが一歩近づく。
「そのナイフを渡しなさい」
ルカは首を横に振った。
「これは、俺のです」
「違う。すでに王都記録院の封印対象に接触した。以後、個人所有は認められない」
「認めなくていい」
ルカは立ち上がった。
膝が笑う。
でも、立った。
「俺が持っていきます」
エルヴィンの目が細くなった。
「君は、それが何かを理解しているのか」
「してません」
ルカは答えた。
「だから渡せません」
風が止まった。
兵たちが一瞬、動きを止める。
エルヴィンだけが、静かにルカを見ていた。
「理解していないものを、なぜ抱える」
ルカは答えられなかった。
答えを言葉にしたら、たぶん嘘になる。
だから、黙った。
代わりに、ノエルが笑った。
血の滲んだ口で。
「紙に書くまで待てねえからだろ」
エルヴィンの視線がノエルへ移る。
「君もだ。右手に持つものを提出しなさい」
ノエルの顔から笑みが消えた。
布に包まれた右手を、胸へ押し当てる。
「嫌だ」
「それは個人の遺品ではない可能性がある」
「だから嫌だ」
「意味がわからない」
「お前にわかるように言ってない」
兵の一人が怒鳴った。
「口を慎め!」
その瞬間、門が小さく鳴った。
こん。
全員が黙る。
兵の顔から血の気が引いた。
エルヴィンの遠隔記録紙が、ぱき、と鳴る。
紙面に黒い点が浮いた。
目のような点。
門の内側から、また細い声が漏れそうになる。
ルカは息を止めた。
ノエルも止めた。
クロが低く唸る。
エルヴィンは初めて、兵に手を上げて制止した。
「声を出すな」
静かな命令だった。
兵たちが口を閉じる。
エルヴィンは門を見ていた。
恐怖ではない。
理解でもない。
ただ、見逃してはならないものを見た顔だった。
「……呼吸している」
小さな呟き。
記録紙が、それを拾おうとして震える。
だが、紙面には何も残らない。
門の息が、記録を拒んでいる。
ルカの胸の木札が熱を持った。
ノエルの指輪が鈍く鳴る。
門に刺さった刃先が、黒く光る。
三つが、まだ繋がっている。
開いてはいない。
でも、切れてもいない。
ルカはそれを感じた。
感じてしまった。
だから、早く離れなければならない。
「ノエル」
ルカは小さく言った。
「走れる?」
「無理」
「じゃあ歩ける?」
「無理」
「立てる?」
「今立ってる」
「十分」
ノエルが睨む。
ルカは少しだけ息を吐いた。
クロが、門の脇ではなく、崩れた外壁の影へ走った。
そこに、蔓に隠れた細い道があった。
猫一匹なら通れる。
いや。
子ども二人なら、ぎりぎり潜れる。
クロが振り返る。
急げ、と言っている。
兵が気づく。
「逃げるぞ!」
エルヴィンが紙を閉じた。
「追え。ただし、門には触れるな」
兵たちが動く。
ルカはノエルの腕を掴んだ。
ノエルはよろける。
それでも走った。
走るというより、崩れた壁に体を投げ込む。
クロが先に穴へ滑り込む。
ルカがノエルを押す。
ノエルが低く呻く。
「雑!」
「ごめん」
「謝る暇あったら押せ!」
ルカは押した。
ノエルが壁の隙間へ消える。
続いて、ルカも体をねじ込んだ。
背中の道具袋が石に引っかかる。
中の布包みがぶつかる。
子どもの靴。
小皿。
針。
割れた指輪。
欠けたナイフ。
全部が、やめろと言うみたいに重い。
兵の手が、ルカの外套を掴んだ。
布が裂ける。
ルカは振り返らない。
ノエルが奥から左手を伸ばした。
「掴め!」
ルカはその手を掴んだ。
ノエルが引く。
怪我をした体で、歯を食いしばって引く。
右手は使えない。
それでも、左手だけでルカを引きずり込む。
外套がさらに裂けた。
兵が何か叫ぶ。
その瞬間。
裏門が、また鳴った。
こん。
兵の手が止まる。
ルカは壁の隙間へ転がり込んだ。
クロが低く鳴く。
ノエルがルカの胸を小突いた。
「重いんだよ」
「荷物が」
「お前もだ」
「ごめん」
「謝るなって」
二人は息を荒げながら、狭い石の裏側を這った。
外から兵の怒号が聞こえる。
エルヴィンの声も。
だが、こちらへはすぐに入ってこられない。
崩れた壁の内側は、細い空洞になっていた。
古い防壁の中。
人ひとりが横になってようやく進める幅。
クロが先を行く。
迷いがない。
ルカは木札を胸に抱えた。
ノエルは布の右手を胸に押し当てる。
その手はまだ震えていた。
でも、さっきより少しだけ熱を持っている。
生きている熱だった。
背後で、遠隔記録紙が開く音がした。
ぱらり。
ぱらり。
それから、エルヴィンの声。
「対象名を更新しろ」
ルカは足を止めかけた。
ノエルが前から言う。
「止まるな」
ルカは進む。
だが、背後の紙の音は、狭い壁の中まで入り込んできた。
ぱき。
ぱき。
インクが染み出す音。
何かが書かれていく音。
ルカの背筋が冷えた。
ノエルの名前か。
木札か。
あの名か。
それとも。
隙間の外。
割れた封印板の前で、遠隔記録紙が一枚、風に煽られて開いていた。
ルカには見えない。
でも、音だけが聞こえる。
ぱき。
ぱき。
紙が苦しむように鳴っている。
そして。
細い声で、エルヴィンが読んだ。
「対象名……ルカ・グレイ」
ノエルが振り返った。
暗闇で、目だけが光る。
ルカは息を止めた。
背後の紙が、さらに鳴る。
ぱき。
ぱき。
何かが削れる音。
エルヴィンの声が、ほんのわずかに揺れた。
「……待て」
紙が裂ける。
黒いインクが、名前の上を走る。
ルカは見ていない。
見ていないのに、わかった。
その紙の上で。
ルカの名前だけが、ひとりでに削れ始めていた。




