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南村の道で、猫が死者を嗅ぎ分けた

 南村へ向かう道は、思っていたより細かった。


 道というより、草と泥の間に残った傷みたいなものだった。


 石畳なんてない。


 馬車のわだちも、途中から途切れている。


 踏み固められた土の上に、十年分の草が伸び、雨で削れた溝に黒い水が溜まっていた。


 ノエルは、肩から古い布袋を下げて歩いていた。


 袋の中には、マレナから渡された真鍮しんちゅうの指輪。


 乾いたパン。


 小さな水筒。


 それだけだ。


 カイルの槍はない。


 背中が軽い。


 軽すぎる。


 その軽さが、歩くたびに胸の奥を引っいた。


 槍を持っていない右手が、何度も空を掴む。


 いつもなら、そこに焼けた柄の感触があった。


 硬い革紐かわひも


 白布の端。


 兄ちゃんが確かにこの世にいたという、唯一の重み。


 でも今は、何もない。


 ノエルは唇を噛んだ。


「……置いてきたんじゃない」


 自分に言い聞かせるようにつぶやく。


「預けたんだ」


 前を歩く黒猫が、ぴたりと止まった。


 片耳の欠けた猫。


 短い尻尾。


 悪い目つき。


 工房番の助手、クロ。


 クロは振り返りもせず、鼻先だけを少し持ち上げた。


 まるで、言い訳は聞き飽きた、とでも言いたげだった。


「なんだよ」


 ノエルが睨む。


 クロは答えない。


 猫だから当たり前だ。


 でも、ノエルにはどうにも、この猫が全部わかっているように見えて仕方なかった。


「お前、本当に道わかるんだろうな」


 クロは、ぬかるみを避けて石の上を歩いた。


 ノエルは同じ場所を踏もうとして、足を滑らせる。


「うわっ」


 泥が跳ねた。


 膝まで汚れる。


 クロが振り返った。


 冷たい目だった。


「今、笑っただろ」


 クロはまた前を向く。


「絶対笑っただろ」


 返事はない。


 かわりに、遠くで鐘が鳴った。


 三つ。


 間を置いて、三つ。


 町の巡回の鐘。


 記録院の見張りが動き出した合図だと、マレナは言っていた。


 ノエルは足を止め、後ろを振り返る。


 グリム旧工房は、もう見えない。


 低い丘と枯れ木の向こうに隠れている。


 ルカは、今ごろ木札と向き合っているはずだ。


 あの気弱そうな顔で。


 でも、妙なところで絶対に引かない顔で。


 王都の役人の前に立った時のルカを、ノエルは思い出す。


 これは、まだ壊れ物です。


 俺がまだ、このガラクタの時間を巻き戻していない。


 あの声。


 細いくせに、折れなかった。


 兄ちゃんの槍を守るために、自分よりずっと大きな兵の前に立った。


 ノエルは拳を握る。


 俺も、やる。


 槍がなくても。


 兄ちゃんがいなくても。


 ルカが工房で戦っているなら、俺はこっちで戦う。


「行くぞ、クロ」


 クロはもう歩き出していた。


「待てよ!」


 南村は、地図には載っていない。


 そうマレナは言った。


 戦争が終わったあと、村としての登録は消された。


 住人は散った。


 焼けた家は崩され、土地は「無人地」として記録された。


 王都の紙の上では、南村は最初から小さな耕作地にすぎなかったらしい。


 でも、道は残っている。


 人が走った道。


 水を汲みに行った道。


 子どもが転んだ道。


 誰かが最後に、砦の裏門へ向かって逃げた道。


 クロはその道を迷わず進んだ。


 森に入る。


 木々は細く、枝は黒い。


 まだ冬ではないのに、葉が少ない。


 地面には、古い灰の層がところどころ残っている。


 雨に流され、土に混じり、それでも完全には消えなかった灰。


 ノエルはそこを踏むたび、胸がざらついた。


 兄ちゃんも、この道を知っていたんだろうか。


 カイル・ロイド。


 グリム砦の補助兵。


 公式記録では逃亡兵。


 でも、本当は裏門で人を逃がした。


 白布を結んだ槍で、民を導いた。


 その事実を、ルカが引っ張り出してくれた。


 だから今度は、自分が探す番だ。


 ノエルは真鍮の指輪を布袋の上から握った。


 マレナが渡したもの。


 煤けていて、古い。


 内側に、小さな傷があった。


 文字のようにも見えるが、読めない。


 マレナの名前くらいは思い出すだろう。


 そう言っていた。


 誰が?


 南村の生き残り。


 まだ、いるなら。


 クロが急に姿勢を低くした。


 背中の毛が、ゆっくり逆立つ。


「どうした」


 ノエルは息を殺す。


 森の奥から、声が聞こえた。


 人の声。


 男たちだ。


「こっちに足跡がある」


「子どもか?」


「猫の跡もあるな」


 ノエルの腹が冷えた。


 記録院か。


 それとも黒冠商会か。


 クロが、音もなく脇の茂みへ入る。


 ノエルも慌てて続いた。


 泥に膝をつき、息を止める。


 茂みの隙間から、道が見えた。


 男が二人。


 記録院の兵ではない。


 革の外套。


 黒冠商会の小さな紋章。


 腰には短剣。


 片方は、手に細い棒のような魔導具まどうぐを持っている。


 棒の先には、薄い紙片が挟まれていた。


 紙片がぴくぴくと震えている。


「工房から出たガキだな」


「ロイドの弟か」


「監査官殿は放っておけと言ったが、商会長代理は別だ。ガキは口が軽い。南村に行かれると面倒だ」


「猫は?」


「どうでもいい。踏めば死ぬ」


 クロの目が細くなった。


 ノエルは、クロの首根っこを掴みかけてやめた。


 いま飛び出されたら終わる。


 でも、クロは動かなかった。


 ただ、じっと男たちを見ている。


 死人を見るような目で。


 男の一人が、道にしゃがんだ。


 泥を指でなぞる。


「新しい」


「先に回るか」


「南村の手前に崩れ橋がある。そこで待つ」


 崩れ橋。


 ノエルは息を呑みそうになった。


 そんなもの、知らない。


 マレナは言わなかった。


 いや、知らなかったのか。


 それとも言う時間がなかったのか。


 男たちは足早に去っていった。


 完全に気配が消えるまで、ノエルは動けなかった。


 やがてクロが茂みから出る。


 何事もなかったように毛づくろいを始めた。


「おい」


 ノエルは小声で言った。


「聞いたよな。先に回るって」


 クロは顔を上げる。


「崩れ橋ってどこだよ」


 クロは答えない。


 かわりに、道から外れた斜面を降り始めた。


「そっち道じゃないだろ」


 クロは止まらない。


 ノエルは舌打ちして追った。


 斜面は湿っていた。


 草の根を掴みながら、ずるずる滑り降りる。


 泥が袖に入り、靴の中に水が滲む。


 カイルの槍があれば、杖代わりにできた。


 そう思って、すぐに歯を食いしばる。


 槍は足じゃない。


 あんた自身の足で行け。


 マレナの声が、腹の底に残っている。


「わかってるよ」


 ノエルは低く言った。


「わかってる」


 斜面を降り切ると、小さな沢があった。


 水は浅い。


 だが、底は黒く、泥が深い。


 クロは濡れるのを嫌がると思ったが、意外にも迷わず石へ飛び移った。


 ノエルも続く。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、足元の石がぐらりと揺れた。


「っ」


 踏み外しかけた体を、両手で何とか支える。


 冷たい水が靴に入った。


 息が詰まるほど冷たい。


 クロは向こう岸で待っている。


 目つきが悪い。


「先行くなよ!」


 声を抑えて怒鳴る。


 クロは尻尾を一度だけ動かした。


 急げ、ということらしい。


 沢を越え、低いやぶを抜ける。


 その先に、石積みの跡があった。


 家の基礎だ。


 焼けた木材はほとんど朽ちている。


 だが、地面だけは不自然に黒かった。


 かつて、ここに家があった。


 南村。


 地図から消された村。


 ノエルは立ち止まる。


 風が抜けた。


 草が揺れる。


 誰もいない。


 でも、いる。


 そう感じた。


 家の跡。


 井戸。


 壊れた柵。


 半分埋もれたくわ


 子どもの背丈ほどの木。


 そこに結ばれていたらしい古い紐。


 暮らしの輪郭だけが、骨のように残っている。


「ここが……」


 ノエルの声がかすれた。


 クロは井戸のそばへ行き、地面の匂いを嗅ぐ。


 それから、ある方向へ進んだ。


 村の外れ。


 畑だった場所。


 草に覆われた小道。


 ルカが工房で見ているはずの、あの靴の道。


 ノエルは後を追う。


 足が重い。


 ここを、誰かが走った。


 振り返らないで、と言われながら。


 片方の靴を落としても止まれずに。


 背後で家が燃える中を。


 ノエルは唇を噛んだ。


 他人の記憶なのに、胸が痛い。


 いや、他人じゃない。


 兄ちゃんも、この道へ人を導いた。


 白布を振って。


 裏門へ走れ、と。


 なら、これは兄ちゃんの記憶の続きでもある。


 クロが突然、うなった。


 低く、喉の奥で。


 ノエルは身を伏せる。


 前方に、小さな橋が見えた。


 橋と呼ぶには、あまりに頼りない。


 沢に渡された古い板。


 半分崩れ、片側が落ちている。


 崩れ橋。


 男たちが言っていた場所だ。


 だが、黒冠商会の男はいない。


 まだ先回りされていないのか。


 そう思った直後、橋の向こうから声がした。


「遅いな」


「道を外れたか」


 いた。


 橋の向こうの低い木陰。


 男二人。


 ノエルは息を殺す。


 正面からは渡れない。


 戻るか。


 いや、戻れば追われる。


 ノエルは周囲を見た。


 沢は浅くない。


 橋の下だけ流れが速い。


 少し上流なら渡れるかもしれないが、藪が深い。


 クロがノエルの足元をすり抜けた。


「おい、どこ行く」


 クロは橋とは逆、下流へ向かう。


 ノエルは迷った。


 だが、すぐ追った。


 この猫は信用できない。


 でも、道は知っている。


 下流へ進むと、沢の幅が狭くなる場所があった。


 倒れた木が一本、川を跨いでいる。


 腐っている。


 危なそうだ。


「これを渡れって?」


 クロは倒木に乗り、軽やかに渡った。


 猫だからだ。


 人間には難しい。


 ノエルは倒木に手を置く。


 表面は湿っている。


 苔で滑る。


 下の水は黒く、思ったより速い。


「……兄ちゃんの槍、持ってくればよかった」


 言ってから、すぐに首を振る。


 違う。


 ノエルは深く息を吸った。


 槍は足じゃない。


 俺の足で行く。


 倒木へ乗る。


 膝を曲げ、両手を広げる。


 一歩。


 木が軋む。


 二歩。


 靴底が滑る。


 三歩目。


 枝が折れた。


「っ!」


 体が傾く。


 落ちる。


 その瞬間、クロが向こう岸から跳んだ。


 ノエルの襟首に爪を立てる。


「痛っ!」


 猫の体重なんて大したことはない。


 でも、その一瞬の痛みで、ノエルは反射的に前へ体を倒した。


 両手が向こう岸の泥に刺さる。


 片膝が水に落ちた。


 冷たい。


 だが、渡れた。


「お前……助けたのか、引っ掻いただけか、どっちだよ」


 クロは無言で前足を舐めている。


「性格悪いな」


 クロは否定しない。


 ノエルは泥だらけになりながら立ち上がった。


 背後で男たちの声が聞こえる。


「音がしたぞ」


「下流だ!」


 まずい。


 気づかれた。


 ノエルは走った。


 クロが先導する。


 藪を抜ける。


 枝が頬を切る。


 息が上がる。


 背後から男たちの足音。


 怒鳴り声。


「いたぞ!」


「ガキだ!」


 ノエルは振り返らない。


 振り返らないで。


 さっき見たわけでもないのに、女の声が頭に響く気がした。


 小道が開ける。


 目の前に、低い石壁があった。


 崩れた畑の境。


 クロは隙間を抜ける。


 ノエルは飛び越えようとして、足を引っかけた。


 体が宙に投げ出される。


 肩から地面に落ちる。


 息が止まった。


 布袋が転がる。


 中から真鍮の指輪が飛び出し、草の上を転がった。


「しまっ――」


 拾おうとした瞬間、男の足が指輪を踏み止めた。


 黒冠商会の男。


 息を切らしているが、笑っていた。


「何を持ってる」


 ノエルは地面に手をついたまま、男を睨む。


「返せ」


「マレナの印か?」


 男は指輪を拾い上げる。


 指でつまみ、汚いものを見るように眺めた。


「古いな。まだこんなものをありがたがる老人がいるのか」


「返せ!」


 ノエルは飛びかかった。


 だが、もう一人の男に腕を掴まれ、地面へ押さえつけられる。


「ぐっ!」


「暴れるな、逃亡兵の弟」


「兄ちゃんは逃げてない!」


「記録では逃げた」


 男が笑う。


「記録は便利だな。死んだ奴は反論できない。弟が騒いでも、ガキの妄言もうげんで片づく」


 頭の奥が真っ赤になった。


 ノエルは男の手に噛みついた。


「ぎゃっ!」


 男が手を離す。


 ノエルは転がって距離を取る。


 だが、立ち上がる前に、短剣が抜かれた。


 刃が喉元へ向く。


「次に噛んだら、口を裂くぞ」


 ノエルの体が固まる。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 槍がない。


 兄ちゃんの槍がない。


 手の中には何もない。


 それでも、ノエルは目を逸らさなかった。


「その指輪、返せ」


「これがそんなに大事か」


「俺のじゃない」


「なら、なおさら返す必要はない」


 黒冠商会の男は指輪を懐へ入れようとした。


 その時。


 クロが動いた。


 黒い影が、男の腕へ飛びつく。


「なっ――!」


 爪が手の甲を裂いた。


 指輪が宙へ跳ねる。


 ノエルは反射的に飛び込んだ。


 泥の中に落ちる寸前、指先が指輪を掴む。


 だが、その隙に腹を蹴られた。


「がっ!」


 息が抜ける。


 地面に転がる。


 指輪は握ったまま。


 離さない。


 絶対に離さない。


 男が怒鳴る。


「猫ごと捕まえろ!」


 クロは素早く逃げた。


 だが、もう一人の男が網を投げる。


 細い縄で編まれた捕獲網。


 クロの背中にかかる。


「クロ!」


 ノエルが叫ぶ。


 クロが暴れる。


 網の中で爪を立てるが、絡まる。


 男が笑った。


「猫は踏めば死ぬんだったな」


 その言葉で、ノエルの中の何かが切れた。


 兄ちゃんの槍はない。


 でも、手はある。


 足もある。


 歯もある。


 ルカと約束したんだ。


 右手の薬指を凍らせながら、あの工房で戦っている修復士と、腕を持っていかれるなと約束した。


 槍のない右手を、ノエルは泥まみれのまま固く握りしめた。


 泥を掴み、男の顔へ投げつける。


「うわっ!」


 短剣を持った男の目に泥が入る。


 ノエルはその足元へ、自らの生身の肉体ごと、弾丸のように突っ込んだ。


 男が倒れる。


 もう一人が網を引こうとする。


 ノエルは網に飛びつき、縄を噛み切ろうとした。


 硬い。


 歯が痛い。


 血の味がする。


 でも、噛む。


 クロが中から爪を立てる。


 縄が一本切れた。


 クロの前足が出る。


 そこへ男が蹴りを入れようとした。


 ノエルは咄嗟とっさに、体をかぶせた。


 背中に蹴りが入る。


 痛い。


 息が詰まる。


 でも、クロには当たらない。


「このガキ!」


 男がもう一度蹴ろうとした、その瞬間。


 低い声が、畑の向こうから響いた。


「そこまでだ」


 男たちの動きが止まる。


 ノエルは泥の中から顔を上げた。


 畑の端。


 崩れた石壁の向こう。


 杖をついた老人が立っていた。


 背は曲がっている。


 髪は白い。


 顔はしわだらけ。


 だが、その目だけは異様に鋭かった。


 老人の後ろには、さらに二人。


 農具を持った男と、弓を構えた女。


 どちらも年老いている。


 だが、手つきは震えていない。


「南村跡は、商会の狩り場じゃない」


 老人が言った。


 黒冠商会の男が舌打ちする。


「誰だ、貴様」


「昔は村長だった」


 老人は杖を地面に突いた。


「今は、記録にない老人だ」


 ノエルの胸が跳ねた。


 南村の生き残り。


 マレナが言っていた相手か。


 男は鼻で笑う。


「記録にないなら、なおさら口を出すな」


「記録にない人間は、税も払っておらん」


 老人は淡々と言った。


「つまり、お前らの商会にも、王都にも、貸しはない」


 弓を構えた女が、矢を少し引いた。


 黒冠商会の男たちが、わずかに下がる。


「ガキを置いていけ」


 老人が言った。


「猫もだ」


「これは黒冠商会の――」


「なら、ここでその黒い冠を土に埋めるか」


 声は静かだった。


 だから余計に怖かった。


 男たちは顔を見合わせる。


 やがて、泥まみれの男が吐き捨てた。


「覚えてろ」


「もう覚えとる」


 老人が言う。


「十年前からな」


 男たちは森の方へ退いた。


 完全に姿が消えるまで、誰も動かなかった。


 ノエルは網を引き裂き、クロを出した。


 クロは濡れた体を一度震わせると、何事もなかったように座った。


「お前、無茶すんなよ」


 ノエルが言うと、クロは鋭く鳴いた。


 まるで、お前が言うな、と言っているようだった。


 老人が近づいてくる。


 ノエルは泥だらけのまま立とうとして、膝が抜けた。


 痛みが一気に来る。


 蹴られた背中。


 噛み切ろうとした口の中。


 泥で擦れた頬。


 老人はノエルの前で止まった。


「名前は」


 短く聞いた。


「ノエル・ロイド」


 老人の目が揺れた。


「ロイド」


「カイル・ロイドの弟だ」


 その瞬間、老人の顔から血の気が引いた。


 後ろの女が小さく息を呑む。


 農具を持った男が、目を伏せた。


 ノエルは拳を握る。


 まただ。


 みんな、その名を知っている。


 知っているのに、黙ってきた。


「兄ちゃんを知ってるんだな」


 老人は長い沈黙の後、頷いた。


「知っている」


「逃亡兵じゃない」


「ああ」


 その一言だけで、ノエルの喉が詰まった。


 ずっと欲しかった言葉だった。


 兄ちゃんは逃げてない。


 ルカは見せてくれた。


 でも、記憶の中の声だけではなく、生きている人間の口から聞きたかった。


 ああ。


 それだけで、膝が崩れそうだった。


「カイルは逃げておらん」


 老人は言った。


「あの子は、最後まで裏門にいた」


 ノエルは唇を噛んだ。


 泣くな。


 今泣くな。


 まだ聞くことがある。


 ノエルは布袋から真鍮の指輪を取り出した。


 泥に汚れている。


 でも、なくしていない。


「マレナに渡された」


 老人の目が、指輪へ落ちる。


 震えた。


 はっきりと。


「……あの糞婆くそばばあ、ついに地獄の蓋を開けやがったか」


 老人は目を閉じた。


 皺深い顔が、苦渋と、どこか諦念ていねんに似た笑みで歪む。


「知り合いか」


「お互い、十年間死んだことにして王都の目をあざむいてきた仲さ。あの女が、そのゆびわを他人に預けてここまで寄こしたってことは、もう工房あっちも終わりかい」


「三日後に、封鎖命令が来るって」


「そうか。しぶといな、あの女は」


 老人は目を開けた。


 その鋭い目が、ノエルをまっすぐに射抜いた。


「十年前、村が焼かれたあの朝さ。俺たちが命からがらすがりついた、最後の飯がこびりついた鍋を、あの女は王都の目を盗んで工房へ引き取っていった。……ただの暮らしの残骸を、『戦後遺物』だと強弁して目録に書き加え、消させなかったのはあの女だ」


 ノエルは息を呑んだ。


 工房の棚の奥にあった、あの鍋。


 最後の飯が煮え続けていると言われた、蓋の閉まったガラクタ。


 武器だけが戦争の遺物ではない。


 家。


 飯。


 名前。


 そういうものを、王都の紙から守るために、あの老婆は十年間あそこに居座り続けているのだ。


「話を聞きに来た」


 ノエルは言った。


「ダリオの家のこと。テオとリタのこと。それから……」


 言葉が詰まる。


 ミオ。


 そう言っていいのか、迷った。


 母親は呼ぶなと言った。


 ルカも、その名を軽く呼べない顔をしていた。


 ノエルは別の言い方を探す。


「三人目の子のこと」


 老人の表情が凍った。


 周囲の二人も、明らかに動揺した。


 クロが低く鳴く。


 老人はノエルをじっと見た。


「誰から聞いた」


「盾から」


「盾?」


「ダリオの盾。ルカが聞いた。三人いたって」


 老人の杖を持つ手が震えた。


「ルカとは」


「修復士だ。王都から追い出された」


「王都の修復士か」


「違う」


 ノエルは即座に言った。


 自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


「あいつは王都の奴らとは違う。兄ちゃんの槍を、逃亡兵の槍じゃなくしてくれた。まだ途中だけど、でも、あいつは聞いたんだ。兄ちゃんの声を」


 老人は長くノエルを見た。


 試すように。


 測るように。


 やがて、ゆっくり頷いた。


「なら、来い」


 老人は村跡の奥へ歩き出した。


 ノエルはクロと顔を見合わせる。


「行くぞ」


 クロは当然のように歩き出した。


 村跡の奥には、半分崩れた石蔵いしぐらがあった。


 外から見れば、ただの瓦礫がれきだ。


 だが、老人が壁の一部を押すと、奥に小さな空間が現れた。


 隠し部屋。


 中は暗く、湿っていた。


 古い草の匂い。


 土の匂い。


 そして、わずかな煙の匂い。


 老人が火打ち石で灯りをつける。


 壁に吊られていた布が見えた。


 白い布。


 薄汚れ、ところどころ焼けている。


 カイルの槍の白布に似ていた。


「これは」


「裏門へ逃げる者が目印にした布だ」


 老人は言った。


「カイルが槍に結んだものと、同じ布から裂いた」


 ノエルは布を見つめた。


 兄ちゃんの白布。


 その仲間。


 まだここに残っていた。


「カイルは、誰に頼まれたんだ」


「誰にも頼まれておらん」


「じゃあ、なんで」


「見捨てられなかった」


 老人は短く言った。


「それだけだ」


 ノエルの胸が熱くなる。


 兄ちゃんらしい。


 どうしようもなく、兄ちゃんらしい。


「ダリオは」


 ノエルは聞いた。


「盾の人」


「鍛冶屋だった。兵ではない。けれど腕が立った。戦が近づいた時、村人を守るために古い盾を持ち出した」


「子どもは三人?」


 老人は灯りを持つ手を止めた。


 沈黙。


 長い。


 ノエルは急かさなかった。


 たぶん、ここで怒鳴っても何も出てこない。


 ルカなら、待つ。


 壊れたものに触れる前みたいに。


 老人は、やがて低く言った。


「記録では二人だ」


「聞いてるのは記録じゃない」


 ノエルは言った。


 老人が目を細める。


「……そうか」


 彼は石蔵の奥へ進んだ。


 土の床に、古い箱が置かれている。


 小さい。


 木箱ではない。


 石の箱。


 蓋には文字が彫られていた。


 だが、ほとんど削られている。


 読めない。


 老人は蓋に手を置いた。


「三人いた」


 ノエルは息を止める。


「テオ。リタ。そして、末の子」


「名前は」


 老人は答えなかった。


 かわりに、石箱の蓋をゆっくり開ける。


 中には、布が入っていた。


 小さな服。


 赤ん坊のものだ。


 胸元に、刺繍ししゅうがある。


 だが、そこも削られている。


 いや、焼かれている。


 文字の跡が、黒く潰れていた。


「王都に渡す前に、母親が消した」


 老人が言った。


「母親の名は?」


「エナ」


 ノエルはその名を、泥のついた舌の裏で小さく繰り返した。


 エナ。


 胸の奥が、冷たい拒絶の残響で小さくきしむ気がした。


「エナは言った」


 老人の声が低くなる。


「この子の名を呼ぶな。呼べば、あいつらが来る、と」


「あいつら?」


「王都の兵ではない」


 ノエルの背中が冷えた。


 ルカも言っていた。


 母親が怖がっているのは、王都の兵とは違う何かだと。


「じゃあ何だよ」


 老人は答えようとした。


 その時、石蔵の入口でクロが低く唸った。


 誰かが来る。


 ノエルは振り返る。


 外で、枝を踏む音がした。


 黒冠商会の男か。


 記録院か。


 老人が灯りを吹き消す。


 石蔵が闇に沈む。


 入口の向こうから、声がした。


「南村の無登録住民へ告ぐ」


 冷たい声。


 王都の発音。


 ノエルの体が硬くなる。


「戦後処理法に基づき、この区域を臨時封鎖する」


 記録院。


 早すぎる。


 工房だけじゃない。


 南村まで、もう網にかけられている。


 老人がノエルの肩を掴んだ。


 骨ばった手。


 驚くほど強い。


「奥へ」


「でも」


「黙って行け」


「まだ名前を聞いてない!」


 老人の顔が歪んだ。


 暗闇の中でもわかるほど。


「聞けば、来る」


 その声は、木札の母親と同じ種類の恐怖を含んでいた。


「呼べば、必ず来る」


 入口の外で、紙が開かれる音がした。


 ぱらり、と。


 エルヴィンの遠隔記録紙と同じ音。


 別の監査官か。


 それとも、部下か。


 声が続く。


「未登録残響名の関連痕跡を確認。候補名、ミオ」


 ノエルの喉が詰まる。


 ミオ。


 また、その名。


 老人の手が震えた。


 そして石箱の中の小さな服が、暗闇の中でかすかに揺れた。


 削られた刺繍の奥から、微かな声が漏れる。


 幼い声。


 泣き声ではない。


 眠りながら誰かを呼ぶような声。


『……ミ、オ、リ』


 ノエルの全身が凍った。


 その名が音になった瞬間、石箱の底に眠っていた古い魔力が、現実の空気を震わせてかすかに明滅した。


 しまった、とノエルが思った時には遅かった。


 その微弱な魔力の波形が、石蔵の外にいる記録院の監視碑へと、ダイレクトに伝播していく。


 外の記録紙が、激しく鳴った。


 ぱき、ぱき、と。


 何かが紙面に浮かび上がっている音。


 老人が絶望したように息を吐いた。


「呼んでしまった」


 クロが闇の中で目を光らせる。


 外の声が、初めて揺れた。


「残響名、更新。候補名――」


 老人は闇のなかで、石箱の蓋を激しく叩き閉めた。


 バタン、と重い音が響く。


 その勢いのまま、老人は骨ばった手でノエルの肩を掴み、背後の壁へと突き飛ばした。


「行け!」


「じいさん!」


「カイルに、借りがある。今度は、返す番だ」


 クロがノエルの袖を噛んで引いた。


 奥には、狭い抜け穴があった。


 子ども一人がやっと通れるほどの穴。


 ノエルは最後に老人を見た。


 老人は背を向け、入口へ歩いていく。


 曲がった背中。


 細い杖。


 でも、その姿は逃げる人間のものではなかった。


 裏門に立ったカイルの背中を、ノエルは思い出した。


 ノエルは歯を食いしばり、抜け穴へ潜った。


 泥と石の匂い。


 狭い。


 息が詰まる。


 でも進む。


 背後で、記録院の声が響く。


「その箱を渡せ」


 老人の声が返る。


「記録にない老人は、命令も読めんのでな」


 直後、轟音ごうおん


 石蔵が揺れた。


 土が降る。


 ノエルは叫びそうになる口を、自分の手で塞いだ。


 泣くな。


 止まるな。


 泥まみれの右手のなかで、あの真鍮の指輪が、皮膚を破らんばかりに冷たく、重く、鈍い光を放っている。


 その名が、頭のなかで呪いのように反響する。


 ミオリ。


 暗い抜け穴の先で、クロの目が二つ、青白く光っていた。

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