名前をあげない
布の通路の奥で、朝のような光が揺れた。
白ではない。
赤でもない。
炉心の火でも、王都の紙の光でもない。
薄い。
柔らかい。
それなのに、近づくほど胸の奥が冷える光だった。
『呼ばないで』
声は、布の奥から漏れていた。
『名前を、あげないで』
ルカの胸の木札が熱い。
鉄箱の中から、弱い拍が返る。
とん。
ノエルは鉄箱を抱え直した。
左腕が震えている。
でも、箱の温かい角から手を離さない。
クロは先頭で止まっている。
尻尾を低くして、布の奥を睨んでいた。
ルカは胸を叩いた。
とん。
鉄箱の中から。
とん。
布の奥からも、かすかに。
とん。
三つの拍が重なる。
けれど、合わない。
合ってはいけない。
炉心で覚えた。
合わせれば、返される。
ずらせば、残る。
ルカは箱の側面を叩いた。
か。
ノエルが箱の上を指で弾く。
ち。
クロが床を叩く。
たん。
か。
ち。
たん。
布の通路が、わずかに震えた。
奥の泣き声が止まる。
光が細くなる。
道が開いた。
布の壁が左右に割れたのではない。
布の織り目がほどけ、隙間になった。
針でほぐしたように。
ルカたちは、その間を進んだ。
足元が柔らかい。
布の下に、何かがある。
小さな包み。
古い布で巻かれたもの。
一つ。
二つ。
たくさん。
ノエルが足を止めた。
「踏むな」
「うん」
クロは包みを避けて歩く。
ルカたちも鉄箱を抱えたまま、足の置き場を探しながら進んだ。
包みの端に、縫い目が見える。
赤い糸。
灰色の糸。
黒い糸。
それぞれ違う。
中身は見えない。
見ない方がいい。
布の奥の光が、少しずつ広がる。
やがて通路が終わった。
そこにあったのは、部屋ではなかった。
庭だった。
地下のはずなのに。
空がある。
朝の色をした空。
薄い青。
灰の雲はない。
炉心の赤もない。
王都の白もない。
ただ、まだ夜が完全に明けきらない、静かな朝の色。
足元には、草ではなく布が生えている。
細い布の葉。
白い布の花。
灰色の蕾。
赤い糸の蔓。
全部、縫われた庭だった。
庭の中央に、小さな寝台がある。
木でできた、古い寝台。
赤ん坊用ではない。
子どもがひとり横になれるくらい。
その寝台の上に、誰かがいた。
小さい。
布をかぶっている。
顔は見えない。
胸だけが、かすかに上下している。
泣いていたのは、その子だった。
声はもう出していない。
ただ、肩が小さく震えている。
ノエルが鉄箱を抱える腕に力を込めた。
「箱の中じゃねえのか」
鉄箱が鳴る。
こん。
寝台の子の肩が、びくりと動いた。
ルカは鉄箱と寝台を交互に見る。
箱の中から拍が返る。
とん。
寝台の子の胸も、小さく動く。
とん。
同じではない。
でも、繋がっている。
ノエルが低く言った。
「同じやつか」
「わからない」
「禁止」
「繋がってる」
「よしじゃねえな」
クロが寝台へ近づいた。
威嚇しない。
匂いを嗅ぐ。
それから、寝台の下に座った。
子どもの布が少しだけ動いた。
『くろ』
クロの耳がぴくりと動く。
その声は、三つの手形の部屋で聞いたものと同じだった。
でも、もっと弱い。
もっと眠い。
クロは返事をしない。
ただ、寝台の脚に尻尾を巻いた。
子どもは、布の下から小さな手を出した。
指が細い。
爪がない。
黒い灰が、指先に薄くついている。
その手は、クロには触れなかった。
空中で止まる。
『なまえ』
ルカの胸の木札が跳ねた。
ノエルがすぐに言う。
「やるな」
「うん」
『なまえ』
子どもはもう一度言った。
欲しがっているようにも聞こえる。
怖がっているようにも聞こえる。
『ない』
ルカは口を閉じる。
名前をあげないで。
三つの残ったものが言った。
でも、名前がないと、この子は寒い。
誰にも呼ばれていない。
呼ばれていないもの。
クロが寝台の脚を前足で叩いた。
たん。
ルカは鉄箱を叩く。
か。
ノエルが箱を弾く。
ち。
か。
ち。
たん。
子どもの手が、少しだけ動いた。
布の中から拍が返る。
とん。
鉄箱の中からも。
とん。
庭の布の花が、一斉に揺れた。
ノエルが息を吐く。
「名前じゃなくても返事するな」
「うん」
「なら、それでいけ」
ルカは頷く。
名前を与える代わりに、拍を返す。
呼ぶ代わりに、いると伝える。
寝台の子が、布の下で小さく震えた。
『さむい』
ノエルは鉄箱を抱えたまま、一歩近づいた。
ルカも支える。
鉄箱の温かい角を、寝台の近くへ寄せる。
触れさせない。
重ねない。
ただ、近くに。
寝台の子の手が、その温かさへ向いた。
鉄箱の中から、拍が返る。
とん。
寝台の子の胸も、同じように動いた。
とん。
ノエルが小さく言った。
「箱の外にもいるのかよ」
「外じゃないのかも」
「じゃあ何だ」
「箱の影」
「最悪だな」
「うん」
寝台の子が、布の下でゆっくり顔を向けた。
顔は見えない。
でも、こちらを見ている。
『だれ』
ルカは名乗らない。
ノエルも名乗らない。
クロが一度だけ鳴いた。
にゃ。
寝台の子が、その音に小さく反応する。
『くろ』
クロは目を細めた。
認めたようにも、諦めたようにも見えた。
ルカは胸ではなく、鉄箱を叩く。
か。
ノエルが弾く。
ち。
クロが叩く。
たん。
子どもの手が、空中で拍を真似た。
指先が震える。
か。
ち。
たん。
音にはならない。
でも、動きがある。
寝台の下の布草が揺れる。
庭の奥で、誰かがすすり泣いた。
一人ではない。
複数。
布の花の下。
布の木の陰。
縫われた庭のあちこちから、小さな泣き声が漏れ始める。
ノエルが周囲を見る。
「まだいる」
ルカも見た。
布の木の根元に、小さな影。
花の陰に、丸まった背中。
白い布の下に、足だけが見える子。
赤い糸を胸に巻いた子。
灰色の蕾の中で眠る子。
みんな、顔が見えない。
みんな、名前がない。
庭中から、拍が聞こえ始めた。
とん。
とん。
とん。
弱い。
冷たい。
ばらばら。
炉心の箱たちとは違う。
こちらは、揃えられていない。
まだ王都の拍になっていない。
ノエルが鉄箱を抱きしめる。
「ここ、避難場所か」
「たぶん」
「禁止」
「……隠れ場所」
「よし」
その時、庭の空がひび割れた。
ぱき。
薄い朝色の空に、白い亀裂が入る。
王都の紙の音。
ルカは顔を上げた。
空ではない。
天井だ。
布で作られた空の上に、白い紙が重なっている。
その紙が、外から割られている。
回収係。
来る。
布の庭の子どもたちが、一斉に震えた。
拍が乱れる。
とん。
ととん。
とん。
寝台の子が、布の下で体を丸める。
『こわい』
ノエルが顔を上げる。
「ルカ」
「うん」
「隠すか」
鈴。
欠けた鈴。
音を外へ出さず、内へ沈めるもの。
ルカは道具袋へ手を入れる。
鈴が冷たい。
まだ鳴らすな。
ガロの声。
でも、鳴らさずに隠すことはできる。
ルカは鈴を取り出した。
潰れた銀。
中の赤い糸。
六番目の名片。
寝台の子が、布の下で息を呑む。
『それ』
ルカは鈴を床に置いた。
鳴らさない。
口を開きすぎない。
ただ、庭の拍を少しずつ沈める。
前に屑鉄場でやったように。
けれど、ここは音が多い。
子どもが多い。
全部を隠せば、誰かの拍まで沈んでしまう。
ノエルが言った。
「全部はやるな」
「うん」
「こいつだけ」
ノエルは鉄箱の角を示す。
呼ばれていないもの。
寝台の子。
箱の影。
まだ名前にされていないもの。
ルカは鈴の口を、その拍の近くへ向けた。
外へではない。
内へ。
そして、鉄箱の角を叩く。
か。
ノエルが弾く。
ち。
クロが叩く。
たん。
か。
ち。
たん。
寝台の子の拍が返る。
とん。
ルカは鈴を少しだけ傾ける。
鈴は鳴らない。
かわりに、その拍の輪郭だけが薄くなる。
消えない。
沈みすぎない。
王都の紙が拾えないくらいに、布の下へ潜る。
天井の亀裂が止まった。
ぱき。
ぱき。
そこから先へ、割れない。
回収係の赤い糸が、布の空の上を這っているのが見えた。
探している。
拾えない。
ノエルが息を吐く。
「効いた」
「まだ」
ルカは鈴を押さえる。
手が震える。
鈴の中の赤い糸が、六番目のものとは違う拍を吸おうとしている。
吸いすぎる。
止める。
沈める。
消さない。
難しい。
指先が冷える。
木札が熱い。
鉄箱が震える。
寝台の子が、小さく言った。
『いたい』
ルカは鈴をすぐに離した。
鈴は鳴らなかった。
でも、庭の布の花が、一斉にしおれかけた。
ノエルが睨む。
「やりすぎか」
「少し」
「少し禁止」
「……危ない」
「よし」
ノエルは鉄箱を寝台のそばへ近づけた。
左腕だけで。
痛みに顔を歪めながら。
「こいつ、どこへ連れてく」
ルカは庭を見る。
名前のない子どもたち。
布の花。
割れかけた朝色の空。
鉄箱の中の拍。
寝台の子の弱い声。
連れていけるのは、たぶんひとつだけ。
全部は無理。
でも、選ばせるな。
全部、起こすな。
呼ばれていないもの。
クロが寝台の下へ潜った。
そして、布をくわえた。
寝台の子のかぶっている布の端。
引っ張る。
ノエルが声を低くする。
「おい、猫」
クロは離さない。
布を少しだけ引く。
子どもの顔が見えそうになる。
ルカは止めようとして、手を止めた。
名前をあげない。
顔を見るのは、名前を与えることなのか。
わからない。
クロが布を引く。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
顔は見えなかった。
代わりに、首元が見えた。
そこに、名前はなかった。
番号もない。
ただ、小さな傷。
丸。
二本線。
欠けた三角。
マレナの印。
その逆。
起こす印。
ルカの喉が鳴る。
ノエルも見た。
「婆さん」
寝台の子は、マレナの印を持っている。
閉じられ、起こされるための印。
王都のものではない。
マレナが隠したもの。
あるいは、マレナが最後まで閉じなかったもの。
寝台の子が震える。
『なまえ』
ルカは言わない。
ノエルも言わない。
クロが、また鳴いた。
にゃ。
寝台の子の手が、ゆっくりクロの頭に触れた。
今度は、触れた。
クロは逃げなかった。
布の庭の拍が、少しだけ落ち着く。
とん。
とん。
とん。
天井の亀裂がまた動いた。
ぱき。
今度は、別の場所。
回収係ではない。
もっと鋭い音。
記録紙ではなく、刃で紙を切る音。
す。
す。
す。
朝色の空の端に、黒い線が引かれた。
誰かが外から、この庭を切り開いている。
ノエルが鉄片を握る。
「今度は何だ」
黒い線が広がる。
そこから、白い手袋の指が見えた。
ルカの背中が冷える。
エルヴィン。
黒い外套の裾が、朝色の裂け目の向こうで揺れた。
彼は庭へ入ってこない。
外から、こちらを見下ろしている。
白い手袋の指には、細い刃。
紙を切るための刃。
エルヴィンは、静かに言った。
「そこにいたのか」
ノエルが低く唸る。
「なんでここが」
エルヴィンは答えない。
視線は、ルカではなく、寝台の子に向いていた。
それから、鉄箱。
次に、欠けた鈴。
最後に、クロ。
「ずいぶん珍しいものを起こしたね」
ルカは鈴を握る。
ノエルは箱を抱える。
クロは寝台の子の前に立つ。
白い亀裂から、赤い糸が垂れる。
回収係の赤い糸。
エルヴィンは刃を裂け目の端へ差し入れた。
す。
赤い糸が切れた。
寝台の子が、布の下で小さく動いた。
エルヴィンの視線が、そこへ落ちる。
彼は言った。
「その子に名前を与えてはいけない」
ルカは息を止めた。
エルヴィンは続ける。
「与えた瞬間、王都のものになる」
庭の子どもたちの拍が、また乱れる。
とん。
ととん。
とん。
エルヴィンの声は静かだった。
脅しではない。
説明でもない。
ただ、事実を置く声。
「君たちは、その子を連れてはいけない」
ノエルが噛みつくように言う。
「連れてけって言われたら?」
「言われていないだろう」
エルヴィンの目が、ノエルの右手へ落ちる。
「彼女は、まだ言葉を知らない」
彼女。
ルカの胸の木札が、焼けるように熱くなった。
ノエルも反応した。
鉄箱の端を握る手に力が入る。
彼女。
その一言が、名前ではないのに、庭の空気を変えた。
寝台の子が、布の下で小さく動いた。
『かのじょ』
真似た。
声にした。
その瞬間、朝色の空に白い亀裂が走った。
ぱき。
エルヴィンが眉を動かした。
白い亀裂から、赤い糸が垂れる。
エルヴィンはもう一度、刃を差し込んだ。
す。
赤い糸が切れる。
また別の亀裂。
赤い糸。
す。
切れる。
エルヴィンは刃を裂け目の端へ差し入れた。
す。
道を作った。
ノエルが低く唸る。
「信用できるか」
「できない」
ルカは言った。
「でも、使う」
寝台の子が、クロの背中に触れている。
連れていくのか。
置いていくのか。
出してはだめ。
でも、ひとりにするな。
ルカは鉄箱を寝台のそばへ近づけた。
箱の温かい角を、寝台の子の手の届く場所へ。
クロが間に座る。
ノエルが鉄箱を抱えたまま、膝をつく。
寝台の子の手が、鉄箱には触れず、クロの背中に触れる。
クロが前足で寝台を叩く。
たん。
ルカ。
か。
ノエル。
ち。
か。
ち。
たん。
寝台の子の手が、同じ拍で震える。
エルヴィンが裂け目を広げる。
ノエルが立ち上がる。
鉄箱を抱える。
寝台の子は、起き上がらない。
でも、手だけがクロの背から離れない。
クロが振り返る。
ルカを見る。
ノエルを見る。
そして、寝台の子の手の下に、もう一度体を寄せた。
ノエルが息を呑む。
「クロ」
クロは動かない。
寝台の子は出ない。
でも、ひとりではない。
ルカの胸が冷たくなる。
クロを置いていくのか。
クロは、ルカを見た。
黄色い目。
いつもの目。
行け。
そう言っているように見えた。
でも、猫は言わない。
紙に拾われない。
だから、間違えない。
ルカは声を出さなかった。
胸を叩いた。
とん。
クロが寝台の脚を叩く。
たん。
鉄箱の中から。
とん。
寝台の子の手が、クロの背中で小さく動く。
たん。
ノエルが歯を食いしばる。
「行くぞ」
ルカは頷かない。
ただ、鉄箱を支えた。
二人は裂け目へ向かう。
クロは来ない。
寝台の子のそばにいる。
庭の朝色の光が、少しずつ白へ変わっていく。
エルヴィンが裂け目を広げる。
ルカとノエルは、鉄箱を抱えたままそこをくぐった。
出る直前。
背後から、寝台の子の声がした。
『くろ』
クロが短く鳴く。
にゃ。
ルカは振り返らなかった。
振り返れば、名前を呼びそうだった。
裂け目を抜ける。
空気が変わる。
白い紙の匂い。
鉄の匂い。
回収係の赤い糸。
エルヴィンの外套。
灰の通路。
庭は背後で閉じた。
ぱたん。
紙ではない。
布が畳まれる音。
ノエルが荒い息のまま言った。
「猫、置いてきた」
ルカは鉄箱を支える手に力を込めた。
中から、弱い拍。
とん。
背後の布の向こうから、遠く。
たん。
クロが、まだ返していた。
エルヴィンが歩き出す。
回収係の白い面が、ゆっくり道を開けた。
廊下の奥、黒い扉。
その上に、細い文字。
観測室。
鉄箱が鳴った。
こん。
背後の布の向こうから、遠く。
たん。
クロが、まだ返していた。




