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観測室

 床が、硬かった。


 布ではない。


 灰でもない。


 踏むと、こつ、と音が返る。


 白い石。


 王都の石。


 ルカは足元を見た。


 さっきまで沈むようだった布の感触が、まだ足裏に残っている。


 けれど、今立っている場所は冷たい。


 乾いている。


 硬い。


 現実に戻されたような硬さだった。


 背後で、布が畳まれた音がする。


 ぱたん。


 もう庭は見えない。


 裂け目もない。


 ただ、白い壁がある。


 その向こうから、遠く。


 たん。


 クロの拍が返ってきた。


 ルカは息を止めた。


 ノエルも、黙った。


 鉄箱の中から、弱い拍。


 とん。


 背後から。


 たん。


 まだ繋がっている。


 クロは、まだそこにいる。


 寝台の子は、ひとりではない。


 ノエルが荒い息を吐いた。


「……聞こえるな」


「うん」


「聞こえるなら、置いてきてねえ」


 ルカは答えなかった。


 答えれば、崩れそうだった。


 だから、鉄箱を支え直した。


 中から、また弱い拍。


 とん。


 その拍は、さっきより少し温かい。


 箱の角。


 ノエルの左手が触れている場所。


 呼ばれていないもの。


 名前にされていないもの。


 エルヴィンは前を歩いている。


 黒い外套。


 白い手袋。


 右手には、細い刃。


 その刃の先に、切った赤い糸の残りが一本だけ絡んでいた。


 エルヴィンはそれを指で払わない。


 そのまま歩く。


 回収係は左右に並んでいた。


 五つの白い面。


 背中の白い箱。


 赤い糸の束。


 糸は垂れている。


 だが、動かない。


 床へ伏せている。


 眠っている蛇みたいだった。


 ルカは自分の肩を見た。


 白い裂け目を抜けた時、赤い糸が一本、服の縫い目に絡んでいた。


 細い。


 短い。


 切れてはいない。


 ただ、動かない。


 眠っている。


 ノエルがそれに気づく。


「取るか」


「触らない方がいい」


「だよな」


 ノエルは舌打ちした。


「助けたんじゃねえ。札つけられたみてえだ」


「うん」


「やっぱ信用できねえ」


「うん」


 エルヴィンは振り返らない。


 聞こえているはずなのに。


 白い廊下は長い。


 壁には窓がない。


 扉もない。


 ただ、天井近くに細い溝が走っている。


 その溝の中を、黒い紙片が流れていた。


 水のように。


 風のように。


 記録紙ではない。


 もっと薄い。


 もっと古い。


 それらはルカたちの頭上を流れ、黒い扉の方へ吸い込まれていく。


 廊下の奥。


 黒い扉。


 その上に、細い文字。


 観測室。


 鉄箱が鳴った。


 こん。


 背後の布の向こうから、遠く。


 たん。


 クロの拍。


 ルカは胸を叩きそうになり、やめた。


 ここで拍を返していいのか、わからない。


 エルヴィンが黒い扉の前で止まった。


 白い手袋の指が、扉の表面に触れる。


 扉には取っ手がない。


 鍵穴もない。


 ただ、黒い鏡のような表面がある。


 そこに、ルカたちの姿が映った。


 ルカ。


 ノエル。


 鉄箱。


 そして、本来ならそこにいるはずのクロの場所。


 何も映っていない。


 胸が空いたように冷える。


 扉の黒い表面に、赤い文字が浮いた。


 観測対象、二名。


 搬送品、一。


 異物、一。


 欠落、一。


 ノエルが低く言った。


「欠落って」


 ルカは扉を見た。


 欠落。


 クロのことか。


 それとも、寝台の子か。


 それとも。


 ルカ自身か。


 エルヴィンは扉の文字に刃を当てた。


 す。


 赤い文字が切れた。


 欠落、一。


 その一行だけが消える。


 扉が、音もなく開いた。


 ノエルが目を細める。


「今、消したな」


 エルヴィンは答えない。


 先に入る。


 回収係は入らなかった。


 白い面たちは、廊下に立ったまま動かない。


 赤い糸は床に伏せている。


 エルヴィンが中から言った。


「入って」


 ノエルがルカを見る。


「入るのか」


「うん」


「だよな」


 鉄箱を支えながら、二人は黒い扉をくぐった。


 観測室は、丸かった。


 広い。


 天井が高い。


 壁一面に、薄い紙が貼られている。


 白い紙。


 黒い紙。


 焼けた紙。


 半透明の紙。


 それらが幾重にも重なり、風もないのに小さく揺れている。


 部屋の中央には、低い台があった。


 台の上に、円形の水盤。


 水ではない。


 黒い液体。


 油のように重く、紙のように薄い光を反射している。


 その周囲に、椅子が三つ。


 一つは大人用。


 一つは子ども用。


 一つは、背もたれがない。


 小さな箱を置くための台のようだった。


 ノエルが鉄箱を抱えたまま身構える。


「置かねえぞ」


 エルヴィンは振り返った。


「まだ置かなくていい」


「まだって何だ」


 エルヴィンは答えない。


 白い手袋を外す。


 片方だけ。


 右手。


 その手の薬指には、薄い紙のような輪が巻かれていた。


 指輪ではない。


 包帯でもない。


 文字の書かれた紙片を、細く巻いたもの。


 ルカの木札が熱を帯びる。


 エルヴィンはそれを見た。


「反応するか」


 ルカは答えない。


 エルヴィンは、外した手袋を大人用の椅子に置いた。


 座らない。


 水盤の前に立つ。


「君たちは、いくつ観た?」


 ノエルが眉を寄せる。


「何を」


「残り」


 部屋の紙が、小さく鳴った。


 ぱら。


 ぱら。


 ルカは鉄箱を支え直す。


「三つ」


 エルヴィンの目が動く。


「灰色。赤。黒」


 ルカは黙る。


 答えたくなかった。


 エルヴィンは黒い水盤を指先でなぞった。


 水面ではなく、紙面のように、黒い液体が薄くめくれる。


 そこに、映像が浮かんだ。


 灰色の布。


 赤い紐。


 黒い爪。


 三つの残ったもの。


 ノエルが息を呑む。


「見えてたのか」


 エルヴィンは言わない。


 映像はすぐに消えた。


 次に映ったのは、寝台。


 布をかぶった子。


 その横に丸まるクロ。


 クロの前足が、寝台の脚を叩く。


 たん。


 部屋の壁の紙が、同じ音で震えた。


 ルカの喉が詰まる。


 声を出さない。


 呼ばない。


 クロは映像の中で、こちらを見ない。


 寝台の子の手が、クロの背に触れている。


 その手は、少しだけ落ち着いていた。


 鉄箱の中から拍が返る。


 とん。


 水盤の中のクロが、また叩く。


 たん。


 エルヴィンは映像を消した。


 ノエルが一歩前に出かける。


「消すな」


 エルヴィンは静かに言った。


「見すぎると、向こうに気づかれる」


 ノエルは歯を食いしばった。


 ルカは鉄箱を抱える力を強める。


 中から、弱い拍。


 とん。


 エルヴィンは子ども用の椅子へ視線を向けた。


「そこに座って」


 ルカは動かない。


 ノエルが即座に言う。


「座らねえ」


「君ではない」


 エルヴィンの視線は、鉄箱に向いていた。


 ノエルの顔が険しくなる。


「だから置かねえって言っただろ」


「置かなくていい。近づけるだけでいい」


「信用できると思ってんのか」


「思っていない」


「なら言うな」


 エルヴィンは少しだけ目を細めた。


「君たちが知りたいものは、そこに映る」


 黒い水盤。


 子ども用の椅子。


 箱を置くための台。


 観測室。


 ルカは理解しかけて、嫌になった。


 ここは、見る部屋だ。


 王都が何かを直接開けずに、直接呼ばずに、直接歌わずに、覗くための部屋。


 エルヴィンは観測者。


 見る者。


 でも、見ることもまた触れることだ。


 見ることで、何かが変わることもある。


 ノエルがルカを見る。


 短い視線。


 決めろ。


 ルカは鉄箱を見る。


 七つ目の結び目。


 黒い染み。


 白い点。


 温かい角。


 その奥で、弱い拍が返る。


 とん。


 背後の布の向こうから。


 たん。


 クロ。


 まだ。


 ルカは息を吸う。


「近づけるだけ」


 ノエルが舌打ちした。


「本当にそれだけだぞ」


「うん」


「置いたら殴る」


「わかった」


「エルヴィンも殴る」


 エルヴィンは何も言わない。


 ルカとノエルは、鉄箱を水盤の近くへ運んだ。


 子ども用の椅子の前。


 箱を置くための台には乗せない。


 二人で抱えたまま。


 水盤の黒い液体が、鉄箱に反応した。


 表面が震える。


 こん。


 鉄箱が鳴る。


 とん。


 中から拍。


 黒い水盤に、白い点がひとつ浮いた。


 七つ目の結び目の奥にある光と同じ。


 その点が広がる。


 小さな部屋。


 白い天井。


 灰の床。


 そこに、影がいる。


 子どもの影。


 顔はない。


 手もない。


 ただ、胸のあたりで小さな拍が動いている。


 とん。


 ルカは息を止める。


 エルヴィンが水盤を見下ろす。


 ノエルは鉄箱を離さない。


 子どもの影の周りに、別の影がいくつも見えた。


 薄い。


 遠い。


 形が定まらない。


 その中のひとつが、赤い糸で縛られている。


 別のひとつは、白い布を被っている。


 また別のひとつは、黒い爪だけを持っている。


 箱の中は、ひとりじゃない。


 三つの残ったものが言った。


 もっと。


 でも、起こすのはひとつ。


 呼ばれていないもの。


 黒い水盤の中で、顔のない影が震えた。


『……さむい』


 声ではない。


 水盤の表面に、文字にもならない震えとして浮かんだ。


 ノエルが鉄箱を胸に寄せる。


 反射だった。


 水盤の影も、少しだけ揺れる。


 とん。


 拍。


 エルヴィンが低く言った。


「それだ」


 ルカはエルヴィンを見た。


 エルヴィンは水盤から目を離さない。


「王都が取れなかったもの」


 ノエルが睨む。


「取りたかったものか」


 エルヴィンは答えない。


 黒い水盤に、別の映像が浮く。


 白い部屋。


 古い寝台。


 そこに、赤ん坊がいる。


 泣いていない。


 口を開けている。


 歌っている。


 声は聞こえない。


 ただ、布が揺れる。


 赤ん坊の横に、女の手がある。


 顔は映らない。


 その手が、赤ん坊の口元を押さえる。


 優しく。


 必死に。


 そして、女の手が床へ落ちた。


 血ではない。


 赤い糸。


 赤ん坊の胸元に、小さな札。


 何かが書かれている。


 映像が滲む。


 ルカは目を凝らした。


 エルヴィンが水盤に刃を差し入れた。


 す。


 映像の一部が切り取られる。


 札の文字だけが、浮かぶ。


 灰児第七号。


 ルカの木札が焼ける。


 鉄箱が鳴る。


 こん。


 水盤の赤ん坊が、口を開けた。


 歌わないで。


 ガロの声が、骨の奥で響いた気がした。


 ルカは目を逸らした。


 ノエルが低く言う。


「見るな」


 ルカは頷かない。


 水盤から、次の映像が浮かぶ。


 ガロの工房。


 若いガロ。


 今より髪が黒い。


 灰の中から、何かを抱き上げている。


 小さな包み。


 赤ん坊。


 その手に、欠けたナイフが握らされている。


 ガロが、そのナイフを取ろうとする。


 取れない。


 赤ん坊の指が離れない。


 ガロが怒鳴っている。


 声は聞こえない。


 でも、口の形がわかる。


 馬鹿野郎。


 そう言っていた。


 ノエルの目が少しだけ動いた。


 ルカは水盤を見る。


 見たくない。


 でも、見てしまう。


 ガロは赤ん坊を工房へ運ぶ。


 その背後に、白い紙片が舞っている。


 紙片の上に文字。


 返却札、保持。


 対象、未回収。


 ガロが振り返り、紙片を炉へ投げ込む。


 火が上がる。


 映像が切れる。


 エルヴィンが言った。


「ガロ・ベネットは、記録院から見れば窃盗犯だ」


 ノエルが噛みつく。


「拾っただけだろ」


「王都はそう書かない」


 エルヴィンの声は冷たい。


「王都は、都合の良い動詞を選ぶ」


 ルカは水盤から目を離さない。


 次に浮いたのは、マレナの工房だった。


 鍋。


 棚。


 火掻き棒。


 マレナが、何かを書いている。


 紙ではない。


 骨の札。


 小さな刃で、印を刻んでいる。


 丸。


 二本線。


 欠けた三角。


 その逆。


 閉じる印。


 起こす印。


 マレナはそれを、いくつもいくつも刻む。


 彼女の背後に、若いガロが立っている。


 口論している。


 声はない。


 だが、ガロの顔は怒っている。


 マレナは笑っていない。


 ただ、鍋の蓋を押さえている。


 その蓋の下から、白い湯気が漏れている。


 最後の飯。


 ルカの喉が詰まる。


 水盤の映像が揺れる。


 マレナが、こちらを見る。


 映像の中のマレナが、まるでルカを見た。


 口が動く。


 聞こえない。


 でも、読めた。


 焼き付けな。


 ガラクタを。


 骨の髄まで。


 水盤が黒く戻る。


 ノエルが小さく息を吐いた。


「婆さん、どこまで知ってたんだ」


 エルヴィンは答えない。


 ルカも答えられない。


 鉄箱の中から、弱い拍。


 とん。


 背後の布の向こうから。


 たん。


 クロ。


 まだ。


 黒い水盤に、次の映像が浮かぶ。


 白い返却路。


 白布の子ども。


 六番目。


 顔の布の下に、ミ。


 オ。


 リ。


 赤い糸が、その文字を縛っている。


 六番目は、名前を持たされている。


 自分のものではない名を。


 その名を、鈴へ移すガロの槌。


 かん。


 鈴の中へ赤い糸。


 六番目の名片。


 欠けた鈴。


 ルカの道具袋の中で、鈴が震えた。


 ち。


 音になる前に、ルカは押さえる。


 水盤の六番目が、こちらを見た。


 白布の下から。


『返さないで』


 今度は聞こえた。


 ノエルが奥歯を噛む。


 エルヴィンは水盤を見る。


「六番は、すでに戻りかけている」


 ルカは言う。


「まだ返してない」


「そうだね」


 エルヴィンの目が、鈴へ向く。


「君が持っている間は」


 ノエルが低く言う。


「なら持つ」


 エルヴィンは何も言わない。


 水盤に、灰色の子どもが映った。


 足の甲に、黒い七。


 片目。


 ルカと同じ色の目。


 白箱の破片を持っている。


 彼は炉心の白い箱の間に座っていた。


 生きている。


 いや、残っている。


 その足元に、赤い糸の切れ端が落ちている。


 灰色の子どもは、水盤越しにルカを見た。


『保留』


 声がした。


 ノエルが眉を寄せる。


「何だって?」


 灰色の子どもはもう一度言った。


『保留、した』


 ルカの胸の木札が熱くなる。


 エルヴィンが、ほんの少しだけ目を細める。


 灰色の子どもは、白箱の破片で床を叩いた。


 か。


 遠くから、クロの拍。


 たん。


 鉄箱の中から。


 とん。


 三つが、観測室の中で重なった。


 水盤の黒い液体が、ふつふつと泡立つ。


 エルヴィンが一歩下がった。


 初めてだった。


 彼が、水盤から距離を取った。


 ノエルがそれを見逃さない。


「何だよ」


 エルヴィンは答えない。


 水盤の中央に、白い文字が浮かび上がる。


 観測不能。


 すぐに消える。


 また浮かぶ。


 観測不能。


 消える。


 観測不能。


 部屋の壁に貼られた紙が、一斉に震え始めた。


 ぱら。


 ぱら。


 ぱら。


 回収係の白い面が、扉の外で動く気配。


 赤い糸が床を這う音。


 エルヴィンは右手の紙の輪を押さえた。


 薬指の紙輪から、黒い文字が滲む。


 観測者、逸脱。


 ノエルが低く笑った。


「お前も怒られてんのか」


 エルヴィンはノエルを見た。


「黙って」


「嫌だね」


 水盤が大きく震えた。


 その中に、最後の映像が浮かぶ。


 黒い扉。


 白い文字。


 観測室。


 その奥。


 もっと奥。


 深い白い部屋。


 中央に、巨大な紙の柱。


 柱の中に、無数の名前が縫い込まれている。


 名前。


 番号。


 呼称。


 削られた字。


 未返却。


 返却済。


 仮箱化。


 処分猶予。


 その柱の一番奥に、空白があった。


 名前の形をした空白。


 三文字ぶん。


 ミ。


 オ。


 リ。


 でも、そこには何も書かれていない。


 書かれていないのに、周りの紙がその形を避けている。


 書かれていない名前。


 呼ばれてはいけない場所。


 水盤の奥から、声がした。


『返して』


 六番目ではない。


 灰色の子どもでもない。


 寝台の子でもない。


 もっと遠い。


 もっと深い。


 名前の形をした空白から。


『返して』


 鉄箱が、激しく鳴った。


 こん。


 こん。


 こん。


 寝台の子の拍が弱く震える。


 とん。


 クロの拍。


 たん。


 灰色の子ども。


 か。


 六番目の鈴。


 ち。


 全部が、水盤の中へ引き寄せられそうになる。


 ルカは鈴を押さえた。


 ノエルは鉄箱を胸へ引き寄せた。


 エルヴィンは刃を水盤へ差し入れた。


 す。


 黒い液体が切れる。


 映像が割れた。


 白い文字が部屋中に散った。


 返して。


 返して。


 返して。


 それらが壁の紙に張り付き、すぐに黒く焦げる。


 観測室の扉が、外から叩かれた。


 ぱし。


 赤い糸。


 ぱし。


 回収係。


 エルヴィンは刃を抜いた。


「終わりだ」


 ノエルが怒鳴る。


「勝手に見せて勝手に終わるな!」


 エルヴィンは答えない。


 扉の方を見る。


 黒い扉の表面に、赤い文字が浮かぶ。


 観測室、封鎖。


 観測者、拘束。


 対象、回収。


 ノエルが鉄箱を抱え直す。


「やっぱ罠じゃねえか!」


 ルカは水盤を見る。


 黒い液体は割れたまま戻らない。


 その割れ目の底に、かすかな拍が残っている。


 とん。


 寝台の子。


 たん。


 クロ。


 か。


 灰色の子ども。


 ち。


 六番目。


 そして、鉄箱の中から。


 とん。


 全部、まだある。


 全部、返していない。


 エルヴィンが、観測者用の大人の椅子を蹴った。


 椅子が倒れる。


 その下に、床板の継ぎ目があった。


 黒い線。


 細い扉。


 また、子どもなら通れる幅。


 ノエルが睨む。


「またそれかよ」


 エルヴィンは白い手袋をはめ直す。


「私は通れない」


「知るか」


「君たちは通れる」


「知るかって言ってんだろ」


 エルヴィンはルカを見た。


「観測室はもう使えない。次は記録柱へ行く」


 ルカは黙る。


 記録柱。


 水盤の奥に見えた、巨大な紙の柱。


 ミオリの空白。


 返して、と呼ぶ声。


 そこへ行く。


 行けば、戻れない気がした。


 でも、行かないと、全部が返される。


 ノエルが床の細い扉を見た。


「行くんだな」


 ルカは鉄箱を支える。


 中から、拍。


 とん。


 背後のどこか遠くから。


 たん。


 クロ。


 まだ。


「行く」


 ノエルが息を吐く。


「よし」


 黒い扉が、外から大きく叩かれた。


 ぱし。


 赤い糸が隙間から入りかける。


 エルヴィンが刃で床の線を切った。


 細い扉が開く。


 下は暗い。


 白い紙片が、雪のように舞っている。


 ルカとノエルは鉄箱を抱え、床の隙間へ身を滑らせた。


 落ちる直前。


 エルヴィンが言った。


「ルカ・グレイ」


 ルカは返事をしない。


 エルヴィンは薄く笑った。


「それでいい」


 赤い糸が観測室へ雪崩れ込む。


 ルカは暗闇へ落ちた。


 鉄箱を抱えるノエルと一緒に。


 白い紙片が頬を擦る。


 どれにも、名前は書かれていない。


 けれど、全部が何かを待っている。


 下の暗闇から、低い音が聞こえた。


 ごう。


 紙が流れる音。


 川のように。


 ルカは鉄箱を抱えたまま、落ちていく。


 胸の奥で、木札が鳴った。


 こん。


 鉄箱の中から。


 とん。


 遠く、遠く。


 布の向こうから。


 たん。


 クロが、まだ返していた。

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