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三つの手形

 扉の向こうから、かすかに遅れて。


 とん。


 返ってきた。


 ルカは息を止めていた。


 名乗らない。


 呼ばない。


 歌わない。


 胸に残る拍だけを、もう一度、指で確かめる。


 とん。


 扉の向こう。


 とん。


 鉄箱の中。


 とん。


 三つの拍が、少しずつずれて重なった。


 灰色。


 赤。


 黒。


 扉に並んだ三つの手形は、子どものものだった。


 どれも小さい。


 でも、形が違う。


 灰色の手形は、指が細い。


 赤い手形は、掌が潰れている。


 黒い手形は、薬指の先だけが欠けている。


 ルカは黒い手形を見た。


 自分の右手が、勝手に強張る。


 ノエルが横で低く言った。


「触るなよ」


「うん」


「その顔は触る顔だ」


「顔に詳しくなりすぎだよ」


「お前がわかりやすい」


 扉の向こうで、また声がした。


『……だれ』


 さっきより近い。


 でも、幼い声ではない。


 子どもの声に聞こえる。


 同時に、ずっと古い声にも聞こえる。


 鉄箱が、ルカの手の下で震える。


 とん。


 中からの拍。


 扉の向こうからも。


 とん。


 ノエルが鉄箱を抱え直した。


「同じやつか」


「わからない」


「禁止」


「違う気がする」


「それならよし」


「よくはない」


「よくねえな」


 クロは扉の前で座っている。


 尻尾を床に巻きつけ、耳だけを動かしている。


 唸らない。


 逃げもしない。


 ただ、扉を見ている。


 クロが怖がっていない。


 それだけで、少しだけ救いだった。


 ルカは欠けたナイフを握った。


 鍵穴はない。


 取っ手もない。


 ただ三つの手形だけ。


 触れろ、と言われているような扉。


 触れてはいけないとわかる扉。


 ノエルが言った。


「どれだ」


「たぶん、三つ」


「最悪」


「うん」


「俺の手は使えねえぞ」


「左は?」


「箱」


 ノエルは鉄箱を顎で示す。


 左腕は箱を抱えている。


 右手は布の下で指輪を握っている。


 彼には、空いた手がない。


 ルカにもない。


 鉄箱を支え、ナイフを握り、鈴を持ち、木札を抱えている。


 足りない。


 いつも足りない。


 クロが、扉の下を前足で叩いた。


 たん。


 扉の向こうから返る。


 とん。


 鉄箱の中からも。


 とん。


 ルカは気づいた。


 手形に手を重ねる必要はない。


 拍。


 ここでも。


 ルカは黒い手形の前に膝をついた。


 触れずに、扉のすぐ手前の床を叩く。


 とん。


 ノエルが赤い手形の前へ、鉄箱を少し寄せる。


 額を箱に当てる。


 ごつ。


 クロが灰色の手形の下を叩く。


 たん。


 三つの音。


 とん。


 ごつ。


 たん。


 扉の向こうが、静かになった。


 炉心の槌の音も遠い。


 回収係の糸が木を叩く音も、もう聞こえない。


 ただ、扉の向こうで、何かが呼吸している。


 ルカはもう一度叩く。


 とん。


 ノエル。


 ごつ。


 クロ。


 たん。


 三つの手形が、淡く光った。


 灰色。


 赤。


 黒。


 扉が、開かないまま薄くなった。


 木でも石でもない。


 布のように。


 煙のように。


 その向こうに、部屋が見えた。


 ノエルが息を呑む。


「開けるなって言われてねえか、これ」


「扉は」


「屁理屈やめろ」


「でも、箱じゃない」


「それはそう」


 扉の向こうから、細い声。


『……いれて』


 ルカの肩が跳ねた。


 裏門。


 門の向こうから聞こえた声。


 いれて。


 あの時の声に似ている。


 だが、今は少し違う。


 外から入ろうとしている声ではない。


 内側から、こちらを招いている声。


 ノエルが低く言った。


「返事するな」


「うん」


「入るのか」


「うん」


「だよな」


 ノエルは鉄箱を抱え直した。


「先に箱」


「うん」


「落とすな」


「落とさない」


「お前も落ちるな」


「それは保証できない」


「しろ」


「努力する」


「信用ならねえ」


 ルカは鉄箱の端を支えた。


 二人で、薄くなった扉をくぐる。


 触れた感触はなかった。


 でも、通り抜ける瞬間、耳の奥で小さな音がした。


 とん。


 とん。


 とん。


 心臓の音ではない。


 誰かが、壁の内側から手を叩いている。


 部屋は、狭かった。


 炉心の奥にあるとは思えないほど、冷たい。


 赤い光は届かない。


 白い石もない。


 床は灰。


 壁は黒い木。


 天井からは、古い布が無数に垂れている。


 白布。


 灰布。


 赤く染まった布。


 どれも子どもの背丈ほどの長さで、揺れている。


 風はない。


 それでも揺れている。


 中央に、低い台があった。


 その上に、小さな椅子。


 椅子には誰も座っていない。


 だが、椅子の足元に、三つのものが置かれていた。


 灰色の布切れ。


 赤い紐。


 黒い爪。


 クロが黒い爪の前で足を止めた。


 背中の毛が逆立つ。


 ノエルが顔をしかめる。


「何だここ」


 ルカは答えられない。


 鉄箱が、二人の間で小さく鳴った。


 こん。


 部屋の奥から、拍が返る。


 とん。


 椅子ではない。


 壁でもない。


 天井から垂れた布のうち、一枚が揺れた。


 灰色の布。


 そこに、小さな手形が浮かぶ。


 灰色。


 続いて、赤い布に赤い手形。


 黒い布に黒い手形。


 三つ。


 扉と同じ。


 ルカは胸を叩いた。


 とん。


 灰色の布が揺れる。


 とん。


 ノエルが鉄箱を支えたまま、低く言った。


「これ、答えてるのか」


「うん」


「誰が」


 灰色の布が止まった。


 赤い布が揺れる。


 黒い布が揺れる。


 三つが、少しずつ違う拍で揺れる。


 とん。


 と。


 ん。


 とん。


 音が割れている。


 ひとつの拍を、三つに分けたような揺れ。


 鉄箱が震える。


 中から、また拍。


 とん。


 その瞬間、三つの布がいっせいに止まった。


 部屋の奥で、声がした。


『そっちは、まだ』


 ノエルの左腕に力が入る。


「そっちって、箱か」


 返事はない。


 代わりに、赤い紐が床を這った。


 椅子の下にあった赤い紐。


 ゆっくり、鉄箱へ向かってくる。


 ノエルが鉄箱を後ろへ引く。


「来るな」


 赤い紐は止まらない。


 ルカはナイフを向けた。


 ナイフは冷たいまま。


 赤い紐は鉄箱には触れず、七つ目の結び目の前で止まった。


 黒い染みが、その紐に向かって少しだけ伸びる。


 ノエルが歯を食いしばった。


「おい」


 ルカは箱の側面を叩く。


 とん。


 中から返る。


 とん。


 赤い紐が止まる。


 部屋の奥の声。


『開けない』


「うん」


 ルカは言った。


『歌わない』


「うん」


『返さない』


 ノエルが言った。


「当たり前だ」


 赤い紐が、小さく震えた。


 笑ったようにも見えた。


 灰色の布が、椅子の上へ落ちる。


 赤い紐が、その上へ乗る。


 黒い爪が、かち、と音を立てて椅子の足に当たる。


 三つが集まる。


 でも、人の形にはならない。


 ただの布。


 紐。


 爪。


 それなのに、そこに誰かがいる。


 ルカは声を出さない。


 ノエルも出さない。


 クロだけが、低く短く鳴いた。


 灰色の布が、クロへ向く。


『くろ』


 クロの耳が動いた。


 ルカの胸が、ぎゅっと縮む。


 クロの名前を呼んだ。


 王都は動物に名前はないと言った。


 でも、この部屋の何かは、クロを名前で呼んだ。


 クロが一歩近づく。


 ノエルが小さく言った。


「猫、返すなよ」


 ルカは頷く。


 クロは灰色の布の前に座った。


 尻尾を巻く。


 灰色の布が、ほんの少しだけ揺れる。


『くろ』


 もう一度。


 今度は、優しかった。


 クロは鳴かなかった。


 ただ、黒い爪の横に前足を置いた。


 たん。


 布が揺れる。


 とん。


 赤い紐が鳴る。


 ち。


 黒い爪が床を叩く。


 か。


 三つの音。


 たん。


 ち。


 か。


 ルカは聞いた。


 その並びが、どこかで聞いた拍に似ている。


 青い水。


 子守唄。


 でも歌ではない。


 音の骨だけ。


 ノエルも気づいたらしい。


「今の」


「うん」


「歌の骨か」


「たぶん」


「禁止」


「拍の骨」


「よし」


 部屋の奥の声が、またした。


『歌は、皮』


 ルカは顔を上げる。


『名前は、針』


 赤い紐が、七つ目の結び目へ向く。


『拍は、骨』


 黒い爪が床を叩く。


 か。


『骨なら、返らない』


 ノエルの目が細くなる。


「お前、誰だ」


 灰色の布も赤い紐も黒い爪も、答えない。


 声だけが、椅子の上に残る。


『三つ』


「三つ?」


『残ったもの』


 灰色。


 赤。


 黒。


 扉の手形。


 布。


 紐。


 爪。


 ルカは黒い爪を見た。


 薬指の先だけが欠けている。


 自分の手ではない。


 でも、黒い手形に似ている。


 ルカは胸の木札を押さえた。


「君たちは、箱の中にいたの?」


『ちがう』


「炉心?」


『ちがう』


「王都?」


 長い沈黙。


 布が揺れる。


 紐が床を這う。


 爪がかちりと鳴る。


『王都に、残された』


 ノエルが低く言う。


「それ、王都ってことじゃねえか」


『王都じゃない』


「面倒くせえな」


『王都に捨てられたものは、王都じゃない』


 ルカは息を止めた。


 その言葉は、マレナの工房にも、屑鉄場にも、ガロにも通じていた。


 捨てられたもの。


 返されなかったもの。


 でも、まだ残っているもの。


 ルカは鉄箱を見た。


 この箱もそうなのか。


 ノエルの右手も。


 クロの名前も。


 六番目の鈴も。


 自分のナイフも。


 声が言った。


『箱の中は、ひとりじゃない』


 ノエルが鉄箱を強く抱える。


「さっき、拍が二つあった」


『もっと』


 ルカの喉が冷える。


『でも、起こすのはひとつ』


「どれを」


 ルカが聞いた。


『呼ばれていないもの』


 意味がわからない。


 でも、胸が重くなる。


 呼ばれていないもの。


 ミオリは呼べない名前。


 でも、呼ばれたら来る名前。


 では、呼ばれていないものは何だ。


 鉄箱の中から拍が返る。


 とん。


 部屋の三つも返る。


 たん。


 ち。


 か。


 クロが、また前足で叩く。


 たん。


 鉄箱が震える。


 とん。


 ノエルが言った。


「つまり、どうすればいい」


 部屋の声は、すぐには答えない。


 赤い紐が、鉄箱の七つ目の結び目へ近づく。


 ノエルが身構える。


 紐は触れない。


 結び目の横に、床へ小さな輪を作った。


 丸。


 その横に、灰色の布が落ちる。


 二本の線。


 黒い爪が、欠けた三角を引っ掻く。


 マレナの印。


 ノエルが息を呑む。


「婆さんの印」


 声が言った。


『あの女は、閉じ方を知ってる』


「じゃあ、起こし方は?」


 ルカが聞く。


 黒い爪が、床を引っ掻いた。


 マレナの印の下に、別の形ができる。


 丸。


 二本線。


 欠けた三角。


 その逆。


 三角の欠けを、内側へ向けた形。


 ルカはそれを見た。


 知らない印。


 でも、わかる。


 閉じる印の反対。


 開けるのではない。


 起こす印。


 ノエルが言った。


「これ、覚えろってことか」


 ルカは頷く。


 声が言う。


『書くな』


 ルカの手が止まる。


『叩け』


 黒い爪が床を叩く。


 か。


 赤い紐が鳴る。


 ち。


 灰色の布が揺れる。


 たん。


 順番が変わる。


 か。


 ち。


 たん。


 さっきとは逆。


 たん。


 ち。


 か。


 か。


 ち。


 たん。


 拍を逆に。


 灰色の子どもの言葉。


 ここで繋がった。


 ルカは胸ではなく、鉄箱の側面を叩く。


 か。


 鈍い音を作る。


 ノエルが箱の上を指で弾く。


 ち。


 クロが床を叩く。


 たん。


 三つ。


 か。


 ち。


 たん。


 鉄箱の中から、拍が返らない。


 沈黙。


 ノエルが息を止める。


 ルカはもう一度。


 か。


 ち。


 たん。


 鉄箱が震える。


 黒い染みの奥の白い点が、少しだけ広がった。


 穴ではない。


 目のようだった。


 ノエルが掠れた声で言う。


「見てる」


 鉄箱の中から、三つの拍が返った。


 とん。


 とん。


 とん。


 同じではない。


 ひとつ目は弱い。


 二つ目は深い。


 三つ目は、遠い。


 部屋の声が言った。


『選ばせるな』


 ルカは顔を上げる。


『選ばせると、王都になる』


 赤い紐が、床の印を崩す。


 灰色の布が揺れる。


 黒い爪がかちりと鳴る。


『全部、起こすな』


 ノエルが顔をしかめる。


「じゃあ、どれだよ」


『呼ばれていないもの』


「それをどうやって見分ける」


 沈黙。


 長い。


 やがて、クロが小さく鳴いた。


 部屋の三つが、クロを見る。


『動物は、紙を読まない』


 クロが尻尾を揺らす。


『だから、間違えない』


 ノエルがクロを見る。


「猫に選ばせんのか」


 クロはノエルを見返した。


 嫌そうな顔だった。


 ルカは思わず息を吐きそうになった。


 笑いではない。


 でも、少しだけ息が戻った。


 クロは鉄箱の周りを歩いた。


 一周。


 二周。


 箱の七つ目の結び目の前で止まる。


 匂いを嗅ぐ。


 すぐに顔を背ける。


 嫌な匂いなのだろう。


 甘い匂い。


 燃えた紙。


 名前。


 呼び先。


 クロはまた歩く。


 鉄箱の側面。


 底。


 蓋。


 赤い糸。


 そして、箱の角。


 ノエルの左手が触れている場所。


 クロはそこに前足を置いた。


 たん。


 鉄箱の中から、拍が返る。


 とん。


 弱い。


 けれど、まっすぐ。


 クロはもう一度叩く。


 たん。


 中から。


 とん。


 部屋の声が言った。


『それ』


 ルカの喉が鳴った。


「これが、呼ばれていないもの?」


『まだ、誰にも呼ばれてない』


 ノエルの左手が震えた。


「名前がないってことか」


『名前にされていない』


 ルカは鉄箱の角に指を添えた。


 ノエルの左手のすぐ横。


 そこだけ、少し温かい。


 箱の中の他の拍とは違う。


 弱い。


 けれど、王都の拍でも、炉心の拍でもない。


 歌の拍でもない。


 ルカは胸を叩かない。


 箱を叩く。


 か。


 ノエルが指で弾く。


 ち。


 クロが前足で叩く。


 たん。


 か。


 ち。


 たん。


 箱の角から、拍が返る。


 とん。


 今度は、少しだけ強い。


 声がした。


『……さむい』


 ノエルの表情が変わった。


 ルカは答えようとして、口を閉じた。


 声にしない。


 ノエルも何も言わない。


 代わりに、ノエルは鉄箱を自分の胸へ引き寄せた。


 右手は使わない。


 左腕だけで。


 痛みに顔を歪めながら、それでも箱を近づける。


 ルカは横から支える。


 クロは箱の足元に丸まった。


 部屋の布が、静かに揺れる。


『それでいい』


 鉄箱の角が、少しだけ温かくなる。


 もう一度、声。


『……だれ』


 ルカは名乗らない。


 ノエルも名乗らない。


 クロが、短く鳴いた。


 にゃ。


 声だった。


 名前ではない。


 でも、返事だった。


 箱の角から、拍が返る。


 とん。


 部屋の三つが、同時に揺れる。


 灰色。


 赤。


 黒。


『出してはだめ』


 ルカは顔を上げる。


『でも、ひとりにするな』


 その言葉の直後。


 部屋の外で、炉心が大きく鳴った。


 かん。


 赤い光が扉の隙間から差し込む。


 回収係が近い。


 部屋の三つが、急に乱れた。


 灰色の布が天井へ巻き上がる。


 赤い紐が床へ潜る。


 黒い爪が椅子の下へ転がる。


 声が早口になる。


『ここは、長く残れない』


 ノエルが鉄箱を抱え直す。


「出口は」


 黒い爪が床を引っ掻いた。


 椅子の後ろに、小さな割れ目ができる。


 黒い隙間。


 また子どもだけが通れる道。


 ノエルが嫌そうに言った。


「またかよ」


 ルカは鉄箱を見る。


「通る」


「知ってる」


 クロが先に隙間へ入る。


 ルカとノエルは鉄箱を押し込む。


 今度は、箱の角を強くぶつけないように。


 ノエルの左手が、箱の温かい角から離れない。


 ルカもそこを支える。


 鉄箱の中から、弱い拍が返る。


 とん。


 ノエルが小さく言った。


「寒いって」


「うん」


「箱の中、寒いのか」


「たぶん」


「禁止」


「……寒い」


 ノエルは少しだけ箱を強く抱えた。


 その動作だけで、十分だった。


 ルカは黒い隙間へ入る前に、振り返った。


 三つのものは、もうほとんど見えない。


 灰色の布。


 赤い紐。


 黒い爪。


 ただ、椅子だけが残っている。


 声が最後に言った。


『名前を、あげないで』


 ルカは頷かない。


 頷けば、約束になる。


 約束は、紙に拾われる気がした。


 だから、胸を叩いた。


 とん。


 部屋の奥から。


 とん。


 返ってきた。


 ルカは隙間へ身を滑らせた。


 背後で、小さな扉が閉じる。


 赤い炉心の音が薄くなる。


 新しい通路は、冷たかった。


 土でも石でもない。


 木の根でもない。


 壁一面が、古い布でできている。


 布の通路。


 踏むたび、沈む。


 赤ん坊の産着のような匂いがした。


 ノエルが顔をしかめる。


「嫌な道だな」


「うん」


「柔らかいのが一番嫌だ」


「硬いのも嫌だけど」


「全部嫌じゃねえか」


「そうだね」


 鉄箱の中から、弱い拍が返る。


 とん。


 ノエルは箱を抱え直す。


 ルカは横から支える。


 クロは先を歩く。


 布の通路の奥に、淡い光がある。


 白ではない。


 赤でもない。


 朝の光に似た、薄い色。


 その向こうから、誰かが泣いている声がした。


 泣くのを我慢している子どもの声。


 ノエルが立ち止まる。


 ルカも止まる。


『呼ばないで』


 ルカの胸の木札が熱くなる。


『名前を、あげないで』


 鉄箱の中の拍が、弱く返った。


 とん。


 布の通路の奥で、朝のような光が揺れた。

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