灰の炉心
赤い光が、穴の奥で揺れていた。
水ではない。
紙でもない。
炉だ。
それも、ガロの工房の炉とは違う。
もっと大きい。
もっと古い。
もっと深い。
地面の下に埋められた、赤い心臓みたいな光だった。
ルカとノエルは鉄箱を挟んで進んだ。
クロが先を歩く。
耳を伏せ、何度も振り返る。
背後では、まだ回収係の赤い糸が水車を叩いている。
ぱし。
ぱし。
遠ざかっているはずなのに、音だけが追ってくる。
穴の壁は、焼けた土だった。
ところどころ、白い石が混じっている。
王都の石。
そこに、赤黒い染みが走っている。
血ではない。
錆でもない。
炉の熱で焼き固められた、古い糸の跡。
鉄箱が鳴った。
こん。
ルカは胸を叩く。
とん。
少し遅れて、箱の内側から拍が返る。
とん。
ノエルが息を詰めた。
何度聞いても、慣れない。
箱は閉じている。
赤い糸も切れていない。
蓋も浮いていない。
でも、中で何かが起きている。
眠っていたものが、こちらの拍を真似ている。
ルカはもう一度、胸を叩いた。
とん。
箱の中から。
とん。
今度は、少し早い。
ノエルが低く言った。
「近づいてるな」
「うん」
「何に」
「炉に」
「違う」
ノエルは鉄箱を抱え直す。
左腕が震えている。
肩が上がらない。
右手はまだ胸の前。
布の下で指輪を握っている。
「中のやつが、こっちに近づいてる」
鉄箱が鳴る。
こん。
まるで、その言葉に返事をしたみたいだった。
ルカは箱を見る。
七つ目の結び目。
黒い染み。
その奥に、小さな白い点がある。
針で突いたような光。
開いてはいない。
けれど、閉じきってもいない。
クロが前方で止まった。
穴の先に、段差がある。
そこから下へ、石の階段が続いていた。
赤い光は、その下から漏れている。
熱気が上がってくる。
煤の匂い。
焼けた紙の匂い。
そして、甘い匂い。
裏門の向こうから漂ってきた匂いに似ていた。
ノエルが顔をしかめる。
「嫌な匂いだ」
「うん」
「甘い」
「うん」
「燃えてるのに甘いの、最悪だな」
階段の壁に、文字が刻まれていた。
王都の文字。
古く、熱で歪んでいる。
廃棄炉心。
名残灰処理区。
未返却児、投入禁止。
ノエルが眉を寄せた。
「投入禁止って」
「入れるな、ってことだと思う」
「誰を」
ルカは答えなかった。
答えなくても、鉄箱が鳴った。
こん。
ノエルは舌打ちした。
「そういう返事いらねえ」
階段を下りる。
一段。
二段。
三段。
降りるたび、熱が増す。
鉄箱の側面が少しずつ温かくなる。
ルカの胸の木札も熱い。
欠けたナイフは、温かくも冷たくもない。
静か。
それが一番、不気味だった。
ガロの工房では温かかった。
回収係の前では冷えた。
今は、何も示さない。
ただ、黙っている。
鈴も鳴らない。
道具袋の底で、重く沈んでいる。
ノエルの足が、一度止まった。
ルカは鉄箱を支える。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねえ」
「休む?」
「休んだら追いつかれる」
「少しだけでも」
「お前が俺を担げるなら休む」
「無理」
「じゃあ進む」
ノエルは足を動かした。
鉄箱を抱えたまま。
左腕の袖に、血が滲んでいる。
傷が開いている。
それでも箱を落とさない。
ルカは横から支える力を強める。
ノエルは何も言わない。
許した、というより、拒む余力がなくなっている。
階段の途中で、また鉄箱が鳴った。
こん。
今度は、続けてもう一度。
こん。
ルカは胸を叩く。
とん。
箱の中から、少し遅れて。
とん。
そして、もう一つ。
とん。
ルカは足を止めた。
ノエルも止まる。
今の拍は、二つだった。
返事ではない。
呼び返しでもない。
箱の中で、誰かが自分から叩いた。
ルカは箱に手を添える。
赤い糸には触れない。
側面だけ。
とん。
内側から返る。
とん。
さらに奥で。
とん。
ノエルが小さく言った。
「一人じゃないのか」
熱気が上がる。
甘い匂いが濃くなる。
ルカは何も答えられなかった。
ガロは言った。
中の子。
ひとりのように。
でも、拍は二つ。
いや。
もっと奥に、かすかな震えがある。
まだ数えられない。
クロが低く唸った。
階段の下に、広い空間が見えた。
赤い炉心。
巨大な丸い炉。
床の中央に、井戸のように口を開けている。
周囲には、白い箱が並んでいた。
十。
二十。
もっと。
子ども一人が入る大きさの箱。
蓋が閉じたもの。
半分開いたもの。
赤い糸でぐるぐる巻きにされたもの。
黒く焼けて中身のないもの。
箱の上には、それぞれ小さな札。
数字だけ。
一。
二。
三。
四。
五。
六の札はない。
七もない。
ノエルが息を呑む。
「ここ、何だ」
ルカの木札が鳴る。
こん。
返事のように。
炉心の底から、別の音が返った。
かん。
槌の音。
ガロではない。
もっと大きい。
機械の槌。
炉心の下で、何かが規則正しく叩いている。
かん。
かん。
その音に合わせて、白い箱たちが小さく震える。
こん。
こん。
こん。
無数の拍。
ルカの背筋が冷えた。
ここには、まだ起こされるのを待っているものがいる。
ノエルが鉄箱を抱え直す。
「戻るぞ」
即座だった。
ルカはノエルを見る。
ノエルの顔は青い。
痛みではない。
恐怖でもない。
怒りに近い。
「ここは駄目だ」
ノエルは低く言った。
「ここに箱を置いたら終わる」
鉄箱が鳴る。
こん。
それは否定にも、肯定にも聞こえた。
ルカも同じことを思った。
炉心は、呼んでいる。
鉄箱を。
七番目を。
中の子を。
ここへ入れるために。
でも、背後から、音がした。
ぱし。
ぱし。
赤い糸が近い。
回収係が水車を抜けた。
時間がない。
ノエルが舌打ちする。
「前も地獄、後ろも地獄か」
「うん」
「よしじゃねえな」
「うん」
その時、炉心の向こう側に、灰色の布が揺れた。
灰色の子ども。
ルカと同じ色の片目。
屑鉄場で消えたはずの子どもが、白い箱の間に立っていた。
足の甲の黒い数字。
七。
手には、白箱の破片。
灰色の子どもは、こちらを見ていた。
『来ちゃだめ』
ノエルが目を細める。
「さっきは起こせって言っただろ」
『ここでは、だめ』
「ならどこで起こすんだよ」
灰色の子どもは答えない。
炉心の赤い光が、灰色の布を下から照らす。
その影が、白い箱の上に伸びる。
『ここは、返す場所』
ルカは鉄箱を支える手に力を込めた。
「何を」
『呼び先』
ガロと同じ言葉。
呼び先。
鉄箱の中にいるもの。
名前ではない。
呼び先。
炉心の底から、槌の音が鳴る。
かん。
白い箱が揺れる。
こん。
鉄箱も鳴る。
こん。
ノエルが灰色の子どもを睨んだ。
「お前、どっちなんだよ。返せって言ったり、来るなって言ったり」
灰色の子どもは、片目を瞬いた。
『どっちも』
「最悪な答えだな」
『返せば、終わる』
灰色の子どもは炉心を見る。
『来たら、始まる』
ルカの喉が冷えた。
終わる。
始まる。
どちらも嫌な言葉だった。
背後の階段から、白い面が見えた。
回収係。
赤い糸が階段を這ってくる。
白い面の一人が、炉心へ向けて首を傾けた。
『仮箱化対象、炉心接近』
炉心の赤い光が強くなる。
白い箱たちが一斉に鳴った。
こん。
こん。
こん。
鉄箱の中から、拍が乱れる。
とん。
とん。
とん。
速い。
怖がっている。
ルカは胸を叩いた。
とん。
ゆっくり。
もう一度。
とん。
ノエルも肩で拍を打つ。
とん。
箱の中の拍が少しだけ落ち着く。
とん。
でも、炉心の槌が割り込む。
かん。
白い箱が鳴る。
こん。
回収係の糸が伸びる。
赤い糸が、ルカたちの鉄箱ではなく、炉心の縁へ向かった。
炉心の周囲にある古い金具へ結ばれていく。
一本。
二本。
三本。
道を作っている。
鉄箱を炉心へ運ぶための糸の道。
ノエルが叫ぶ。
「させるか!」
鉄箱を抱えたまま踏み出そうとする。
左膝が落ちる。
ルカが支える。
ノエルは歯を食いしばる。
「離すな」
「離さない」
「絶対だぞ」
「うん」
灰色の子どもが、白い箱の間を走った。
音がない。
裸足なのに、灰を踏む音がしない。
その手に持った白箱の破片を、炉心の縁へ投げる。
破片が赤い糸の一本に当たった。
糸が跳ねる。
回収係の白い面が一斉に灰色の子どもへ向く。
『予備人格、干渉』
灰色の子どもは逃げない。
片目でルカを見る。
『起こすなら』
赤い糸が灰色の子どもへ伸びる。
『ここじゃない』
糸が足に絡む。
黒い七の数字が歪む。
灰色の子どもの体が、炉心側へ引かれる。
ルカは反射的に動こうとした。
ノエルが低く言う。
「箱」
ルカは止まる。
鉄箱を離せない。
灰色の子どもも見ている。
助けろとは言わない。
ただ、見ている。
ルカは欠けたナイフを握る。
片手では届かない。
投げれば、失う。
鈴はまだ鳴らせない。
鉄箱は離せない。
すべてが足りない。
灰色の子どもが、赤い糸に引かれながら言った。
『拍を、逆に』
ルカは息を止めた。
拍を逆に。
その意味を考える前に、炉心が鳴った。
かん。
白い箱。
こん。
鉄箱。
こん。
ルカの胸。
とん。
全部が同じ方向へ揃えられている。
炉心へ。
返却へ。
呼び先へ。
なら、逆。
ルカは胸を叩く手を止めた。
ノエルが見る。
ルカは鉄箱の側面を叩いた。
とん。
外からではない。
胸の代わりに、箱へ。
ノエルも気づいた。
鉄箱を抱えたまま、肩ではなく、額を箱に当てる。
ごつ。
鈍い音。
「痛っ」
それでも、もう一度。
ごつ。
拍ではない。
ずれた音。
炉心の槌と合わない音。
ルカは箱の側面を叩く。
とん。
ノエルが額を当てる。
ごつ。
クロが箱の下を前足で叩く。
たん。
三つの音がばらばらに鳴る。
とん。
ごつ。
たん。
炉心の槌が、一瞬だけ乱れた。
か――
白い箱の拍もずれる。
こん。
こん、ではない。
こ。
ん。
回収係の赤い糸が揺れた。
糸の道が曲がる。
灰色の子どもに絡んでいた糸が少し緩む。
ルカは続ける。
とん。
ノエル。
ごつ。
クロ。
たん。
鉄箱の中から、遅れて返る。
とん。
今度は、炉心と合わない。
こちらへ返っている。
灰色の子どもが、その隙に赤い糸を抜けた。
床へ転がる。
白箱の破片が割れる。
灰色の子どもは起き上がらない。
でも、片目は開いている。
『それ』
声がかすれる。
『忘れないで』
ルカは頷く代わりに、箱を叩いた。
とん。
中から返る。
とん。
炉心の赤い光が、怒ったように膨らむ。
回収係が階段を降りてくる。
五つの白い面。
赤い糸。
背中の箱。
ノエルが灰色の子どもを見た。
「お前、歩けるか」
灰色の子どもは答えない。
でも、白い箱の間へ這い込んだ。
消える。
逃げたのか、隠れたのか。
死んではいない。
たぶん。
ノエルが言う前に、ルカが言った。
「たぶん禁止」
ノエルは少しだけ笑った。
「なら、生きてる」
「うん」
「よし」
回収係が近い。
炉心の周囲には、いくつもの白い箱。
退路は階段だけ。
階段には回収係。
炉心の向こうには、白い箱の山。
その奥に、細い通路が見える。
赤い光に隠れた、低い通路。
マレナの印はない。
ガロの印もない。
でも、その入口に、小さな手形があった。
灰色の手形。
子どもの手。
ルカはそれを見た。
ノエルも見た。
「行くぞ」
ノエルが言う。
「うん」
「箱、揺らすな」
「揺らさない」
「さっき叩いてたやつが言うな」
「必要だった」
「なら、今度も必要になったら言え」
「うん」
二人は鉄箱を抱え、炉心の縁を回る。
熱が強い。
赤い光が顔を焼く。
白い箱の間から、拍が聞こえる。
とん。
とん。
とん。
それは一つではない。
十でもない。
無数。
起こされるのを待っているのか。
返されるのを拒んでいるのか。
わからない。
ただ、全部が炉心の槌に合わせられかけている。
かん。
こん。
かん。
こん。
ルカは鉄箱を叩く。
とん。
ノエルが額を当てる。
ごつ。
クロが前足で床を叩く。
たん。
ずらす。
合わせない。
返さない。
そのたびに、鉄箱の中から小さな拍が返る。
とん。
回収係の糸が背後で迫る。
白い面が炉心の赤に染まる。
ルカたちは低い通路へ滑り込んだ。
最後に、炉心が大きく鳴った。
かん。
その音で、白い箱のいくつかが一斉に震えた。
こん。
こん。
こん。
そして、誰かの声がした。
ひとつではない。
炉心の底から。
箱の中から。
壁の奥から。
『おこして』
ルカは足を止めかけた。
ノエルが鉄箱を引く。
「止まるな」
「今」
「聞こえた」
ノエルの声が震えていた。
「でも止まるな」
ルカは進んだ。
低い通路の奥へ。
赤い光が背後に遠ざかる。
前方は暗い。
でも、そこにも拍があった。
とん。
とん。
とん。
今度は、壁の中ではない。
床の下でもない。
前から聞こえる。
ルカたちは暗闇の中を進む。
鉄箱の中の拍が、それに重なる。
とん。
とん。
とん。
やがて、通路の奥に小さな扉が見えた。
扉には、番号も文字もない。
ただ、三つの手形だけが並んでいる。
灰色。
赤。
黒。
クロが扉の前で座る。
ルカは欠けたナイフを握った。
ノエルは鉄箱を抱え直した。
扉の向こうから、拍が返る。
とん。
ルカは胸を叩く。
とん。
扉の向こう。
とん。
そして聞こえた。
細い声。
『……だれ』
鉄箱が、ルカの手の下で震える。
ルカは名乗らない。
胸を、もう一度だけ叩く。
とん。
扉の向こうから、かすかに遅れて。
とん。
返ってきた。




