仮箱化
灰色の空の下で、ルカは欠けたナイフを握り直した。
ナイフは冷たい。
ガロの炉の熱は、もう残っていない。
刃の黒い亀裂が、灰の光を吸っている。
屑鉄場の向こう。
灰の道に、白い人影が並んでいた。
白い面。
背中の箱。
赤い糸の束。
回収係。
数は五人。
兵ではない。
鎧もない。
剣もない。
ただ、背負った白い箱から赤い糸が垂れている。
その糸の先に、小さな鉤。
魚を釣る針より細い。
でも、見るだけで皮膚の下が冷える。
白い面の一人が、首を傾けた。
『七番、仮箱化を開始します』
鉄箱が、激しく鳴った。
こん。
こん。
こん。
ノエルは鉄箱を抱える。
ルカは横から支える。
クロが入口から飛び出す。
灰が舞った。
回収係たちは走らない。
ゆっくり歩く。
一歩。
一歩。
白い靴が灰を踏む。
灰には足跡が残らない。
ノエルが舌打ちした。
「足跡も返却済みかよ」
「たぶん」
「禁止」
「……足跡がない」
「よし」
回収係の背中の箱が、一斉に鳴った。
こん。
こん。
こん。
こちらの鉄箱と同じ音。
けれど、軽い。
薄い。
空の箱が、中身を真似て鳴っているような音だった。
白い面の一人が、右手を上げる。
赤い糸が五本、空中へ伸びた。
風に乗るのではない。
自分で進む。
細い蛇みたいに、灰の空を這う。
狙いは、鉄箱ではなかった。
ルカの胸。
木札。
ノエルの右手。
指輪。
そして、道具袋。
鈴。
ルカは鉄箱から片手を離しかけた。
ノエルが怒鳴る。
「離すな!」
ルカは歯を食いしばる。
鉄箱を支える。
赤い糸が迫る。
クロが飛び上がり、一本を噛み切ろうとした。
だが、糸はクロの牙をすり抜けた。
実体がない。
いや、実体がある時とない時を切り替えている。
記録の糸。
紙に繋がる糸。
クロが着地し、すぐに振り返る。
低く唸る。
赤い糸の一本が、ルカの胸の木札へ触れた。
熱。
焼けるような熱。
木札が鳴る。
こん。
その音に、回収係の箱が答える。
こん。
『対象、木札残響保持』
『仮箱化、可』
ルカの胸の木札から、黒い文字が浮かびかけた。
ミ。
オ。
リ。
声にしていないのに、文字が浮かぶ。
ルカは息を止めた。
浮かんではいけない。
読まれてはいけない。
ノエルが左腕で鉄箱を抱えたまま、右手を胸へ押し当てる。
布の下で、指輪が強く鳴った。
こん。
赤い糸が、ノエルの右手へ向きを変える。
『異物右手、未登録遺物保持』
『部分返却、可』
ノエルの顔が歪む。
右手の布が、勝手にほどけかけた。
「っ……!」
ルカは鉄箱を支えたまま、足を踏み出す。
ナイフを振れない。
片手では箱が落ちる。
鉄箱が鳴る。
こん。
こん。
こん。
黒い染みが七つ目の結び目から広がっている。
赤い糸の一部が、黒く湿っている。
中の子。
まだ寝ている。
でも、呼ばれている。
歌えば、開く。
歌わなければ、起きない。
歌わずに起こす。
ノエルの声が耳に残る。
知らねえけど、歌わねえ。
ルカは鉄箱を見る。
開けない。
歌わない。
なら、何で起こす。
胸の奥で、ガロの槌の音が蘇る。
かん。
かん。
鍛冶屋は喋る前に叩く。
言葉ではなく、拍。
青い水の扉を開けた時。
胸を叩いた。
とん。
とん。
名前ではなく、拍。
ルカは鉄箱を支えたまま、自分の胸を肘で叩いた。
とん。
ノエルが気づく。
目だけで問う。
ルカはもう一度、叩く。
とん。
ノエルは一瞬だけ顔をしかめた。
それから、左腕で箱を抱えながら、自分の胸を肩で叩いた。
とん。
ぎこちない。
弱い。
でも、拍だ。
鉄箱が鳴る。
こん。
回収係の赤い糸が、一瞬止まった。
『不明拍、検出』
白い面が一斉に傾く。
ルカは続けた。
とん。
ノエル。
とん。
ルカ。
とん。
鉄箱。
こん。
胸の拍。
箱の拍。
鈴は鳴らさない。
歌は歌わない。
ただ、眠っている子の背を叩くように。
灰の中で息を忘れたものへ、まだここにいると知らせるように。
鉄箱の黒い染みが、広がるのをやめた。
赤い糸の震えが少し変わる。
ノエルが小さく息を吐く。
「効いてる?」
「たぶん」
「禁止」
「……止まってる」
「よし」
だが、回収係は止まらない。
白い面の一人が、左手を上げた。
背中の白箱が開く。
中から、細い紙片が何枚も飛び出した。
紙片は空中で重なり、小さな白い輪になった。
首輪。
いや、箱輪。
人の首ではなく、胸にかける輪。
ルカの胸の木札を囲むための形。
『仮箱枠、展開』
白い輪が飛んでくる。
クロが跳ぶ。
今度は、噛めた。
紙の輪の端に牙が入る。
ばり、と音がした。
クロの体が空中で弾かれる。
紙の輪は裂けたが、半分だけ残る。
残った輪が、ルカの肩へかかった。
重い。
紙なのに、鉄より重い。
木札がその内側で熱を帯びる。
『七番、箱枠接続』
ルカの視界が白く滲む。
屑鉄場が遠ざかる。
白い棚。
白い箱。
小さな足跡。
返却便。
灰色の子どもの片目。
全部が一瞬で重なる。
ノエルが叫ぶ。
「ルカ!」
その声に、赤い糸が反応する。
『呼称、固定』
ルカの名前が、白い輪の内側に刻まれようとする。
ル。
カ。
ルカ。
木札が焼ける。
ナイフが冷たい。
鈴が道具袋の中で鳴りかける。
ち。
鳴らすな。
まだ鳴らすな。
ルカは右手のナイフを、白い輪へ押し当てた。
切るのではない。
欠けた刃の隙間を、白い輪の文字へ合わせる。
ルカという字の、欠けたところへ。
刃が合った。
ぴたりと。
白い輪の文字が止まる。
『名称固定、失敗』
回収係の声が乱れる。
ルカはナイフを捻る。
欠けたまま。
戻さない。
白い輪に黒い亀裂が入る。
ぱき。
紙が割れる。
ルカの肩から、輪が落ちた。
地面へ落ちた瞬間、白い輪は灰になった。
ノエルが短く笑う。
「それ、鍵にも輪にも使えるのかよ」
「僕にもわからない」
「便利すぎて嫌だな」
「うん」
回収係が五人、同時に首を傾けた。
『欠損刃、未登録』
『返却札、照合不能』
『七番、異常』
赤い糸が、今度はナイフへ集中する。
ルカは一歩下がる。
ノエルも鉄箱を抱えて下がる。
小屋の後ろは屑鉄の山。
前には回収係。
右は灰の道。
左は壊れた水車の方。
逃げるなら左。
だが、鉄箱を抱えたノエルは速く走れない。
ルカは箱を支える。
ノエルが息を荒くしながら言った。
「左」
「うん」
「俺が箱を持つ」
「一緒に」
「支えるだけだろ」
「うん」
「なら走れ」
クロが先に左へ駆けた。
回収係の糸が伸びる。
ルカたちは屑鉄の間を走る。
走ると言うより、転びながら進む。
鉄箱が重い。
ノエルの左腕がもう震えるどころではない。
ルカの足首も痛む。
でも、止まらない。
赤い糸が背後から迫る。
一本が鉄箱の赤い糸へ絡みかけた。
その瞬間。
鉄箱の内側から、かすかな音がした。
こん。
これまでとは違う。
弱い。
小さい。
でも、内側から叩き返す音だった。
赤い糸が弾かれる。
ノエルが目を見開く。
「今の」
「起きてる」
「起きたのか」
「まだ」
「どっちだよ!」
「起きかけてる!」
鉄箱がまた鳴る。
こん。
今度は、ルカの胸の拍に近い。
とん。
こん。
とん。
こん。
ルカは走りながら、自分の胸を叩いた。
ノエルも、歯を食いしばって肩で拍を返す。
とん。
こん。
とん。
こん。
回収係の糸が、迷うように揺れた。
『不明拍、干渉』
『仮箱化、遅延』
遅延。
止めてはいない。
でも、遅らせている。
それで十分だった。
今は。
屑鉄場の左端に、壊れた水車があった。
水はない。
枯れた用水路。
半分折れた大きな木の輪。
水車の下に、暗い隙間がある。
クロがそこへ飛び込む。
ルカたちも続く。
しかし、回収係の糸が先に回り込んだ。
水車の木枠に、赤い糸が絡む。
ぎし。
古い水車が動いた。
水もないのに。
ゆっくり回る。
枯れた羽根が、ぎぎぎ、と音を立てる。
逃げ道が塞がる。
ノエルが鉄片を投げた。
片手で。
狙いは雑。
けれど、鉄片は水車の壊れた軸に当たった。
かん。
ガロの槌の音に似た音がした。
ルカのナイフが、一瞬だけ温かくなる。
水車の軸に、古い印が浮かんだ。
マレナの印。
丸。
二本線。
欠けた三角。
ここも。
ノエルが息を吐く。
「婆さん!」
水車の軸が、もう一度鳴る。
かん。
水車は回るのをやめた。
羽根の一枚が、外れる。
その奥に、小さな穴。
子どもなら通れる。
まただ。
大人禁止の道。
ルカは鉄箱を見る。
通るか。
ぎりぎり。
ノエルが即座に言う。
「押す」
「うん」
「今度は雑に押すなよ」
「善処する」
「信用ならねえ!」
赤い糸が背後から迫る。
回収係の足音はない。
でも、白い面が近づいている。
ルカは鉄箱の端を押す。
ノエルが前から引く。
クロが穴の中で鳴く。
早く。
鉄箱が穴へ入る。
赤い糸が石の縁に擦れる。
黒い染みが広がりかける。
ルカは胸を叩く。
とん。
鉄箱が答える。
こん。
染みが止まる。
ノエルが箱を引く。
肩が水車の縁にぶつかる。
「痛っ!」
「ごめん!」
「謝るな、押せ!」
ルカは押した。
鉄箱が抜ける。
ノエルが穴の向こうへ消える。
クロもいる。
ルカが続こうとした瞬間、赤い糸が足首に絡んだ。
冷たい。
白い床の糸とは違う。
これは外から引く糸だ。
ルカの足が後ろへ引かれる。
灰の上に倒れる。
欠けたナイフが手から離れかけた。
ノエルが穴の向こうから叫ぶ。
「ルカ!」
『七番、捕捉』
回収係の声。
赤い糸が増える。
足首。
膝。
腰。
胸の木札。
白い面が近づく。
背中の箱が開いている。
ルカを入れるための空白。
仮箱化。
箱になる。
灰色の子どもの声が、耳の奥で響く。
次は、君の番だよ。
ルカは鈴を掴んだ。
道具袋の中。
欠けた鈴。
まだ鳴らすな。
名前を返したくなった時だ。
今は。
返したくない。
でも、戻されそうだ。
ルカは鈴を握る。
鳴らすのではない。
押さえるのでもない。
赤い糸へ向けて、鈴の口を開いた。
中へ。
外ではなく。
赤い糸が、鈴の中の赤い糸へ反応する。
一瞬だけ、糸同士が見つめ合った。
その隙に、ルカは欠けたナイフを拾う。
足首の糸へ、刃を当てる。
切れない。
なら、欠けたところを合わせる。
糸の結び目。
回収係の糸にも、結び目がある。
白い床の時と同じ。
ルカは刃の欠けを、結び目に噛ませた。
ぴたり。
ナイフが温かくなる。
ガロの槌の音。
かん。
ルカは捻った。
赤い糸がほどけた。
切れたのではない。
ほどけた。
『回収糸、解除』
回収係の声が乱れる。
ルカは穴へ飛び込んだ。
ノエルが襟を掴む。
乱暴に引き込む。
肩が木枠にぶつかる。
痛い。
でも、入った。
水車の羽根が背後で落ちる。
どん。
穴が塞がる。
赤い糸が、外で木を叩いた。
ぱし。
ぱし。
ぱし。
回収係の声が遠くなる。
『七番、再捕捉不能』
『仮箱化、継続』
『追跡路、再算出』
暗い穴の中で、三人と一匹はしばらく動けなかった。
ノエルが荒い息のまま言った。
「……お前、今、鈴鳴らしたか」
「鳴らしてない」
「じゃあ何した」
「開けた」
「何を」
「口」
「鈴の?」
「うん」
「怖っ」
「僕もそう思う」
鉄箱が、二人の間で小さく鳴った。
こん。
今度は、はっきりと内側からだった。
ノエルが黙る。
ルカも黙る。
クロが箱に鼻を近づけ、すぐに後ずさった。
箱の七つ目の結び目。
黒い染みの中に、小さな白い点が浮かんでいる。
星みたいな点。
いや。
穴だ。
内側から、針で突いたような小さな穴。
開いてはいない。
蓋は閉じている。
でも、結び目の奥に、光がひとつある。
ノエルが声を潜めた。
「起きたのか」
ルカは鉄箱へ手を伸ばす。
赤い糸には触れない。
箱の側面へ、指先だけを当てる。
冷たい。
けれど、内側から微かな拍が返る。
とん。
とん。
とん。
ルカは息を止めた。
歌ではない。
声でもない。
拍。
中から。
返ってきた。
ノエルが鉄片を握る手を緩めた。
「おい」
「うん」
「今の、返事か」
ルカは答えようとして、できなかった。
代わりに、自分の胸を一度だけ叩く。
とん。
鉄箱の中から、少し遅れて。
とん。
ノエルの顔が、灰の暗闇の中で変わった。
驚きでもない。
恐怖でもない。
もっと、言葉にしにくいもの。
ルカはもう一度、胸を叩いた。
とん。
箱の中から。
とん。
クロが小さく鳴いた。
今度は唸りではなかった。
呼ぶような声。
鉄箱の中の拍が、一瞬だけ乱れた。
そして、三度目。
とん。
ルカでも、ノエルでもない拍が、箱の内側から鳴った。
ノエルが掠れた声で言った。
「歌わずに」
ルカは頷いた。
「開けずに」
鉄箱の中で、眠っていた何かが、もう一度だけ小さく叩いた。
とん。
その瞬間。
穴の奥から、別の音が返った。
かん。
槌の音。
遠い。
ガロの工房ではない。
前方。
この穴の先。
かん。
もう一度。
ルカは顔を上げた。
暗闇の向こうに、薄い赤い光が見える。
炉の光。
でも、親父の炉ではない。
もっと大きい。
もっと深い。
王都の廃棄炉。
ノエルも見た。
「また炉かよ」
ルカは欠けたナイフを握る。
ナイフは温かくも冷たくもない。
ただ、手の中で静かだった。
鉄箱の中から、拍が返る。
とん。
遠くで、槌が鳴る。
かん。
ふたつの音が、暗闇の中で重なった。
その奥から。
低い、大人の声がした。
『仮箱化対象、炉心へ誘導』
ノエルが舌打ちした。
「誘導されてんじゃねえか」
「うん」
「戻るか」
背後では、回収係の赤い糸がまだ水車を叩いている。
ぱし。
ぱし。
前には、赤い炉の光。
ルカは鉄箱を見た。
箱の中から、小さな拍。
とん。
ルカは胸を叩く。
とん。
ノエルが息を吐く。
「行くんだな」
「うん」
「たぶん禁止」
「行く」
「よし」
クロが先に立った。
暗い穴の奥へ。
赤い光へ。
ルカとノエルは鉄箱を挟んで進んだ。
背後で回収係が叩く音。
前方で炉が呼ぶ音。
その間で、鉄箱の中の小さな拍だけが、まだ消えずに返っていた。




