同じ目の子
欠けたナイフが、手の中で冷たくなった。
さっきまで残っていたガロの工房の熱が、すっと引く。
鉄。
灰。
紙。
全部の匂いが、一瞬で薄くなった。
板の隙間の向こうで、小さな影が立っている。
灰色の布。
白い箱の破片。
片目。
ルカと同じ色の目。
『次は、君の番だよ』
鉄箱が、膝の前で低く鳴った。
こん。
ノエルは鉄片を握ったまま、息を殺している。
右手は胸の前。
布の下の指輪が、硬く震えていた。
クロは入口で背を低くし、牙を見せている。
ルカは鈴を押さえたまま、灰色の子どもを見た。
「六番を返せって」
ノエルが低く言った。
「どういう意味だよ」
灰色の子どもは首を傾けた。
その動きは、白い返却路にいた六番目と似ていた。
でも、違う。
こちらの子どもは、白くない。
王都の布ではない。
灰を吸った布。
焼け残りを縫い合わせたような服。
裸足。
足首に赤い糸はない。
代わりに、足の甲に黒い数字が書かれていた。
七。
ルカの喉が冷える。
灰色の子どもが、小さな白箱の破片を持ち上げた。
それは、割れた蓋の一部だった。
裏側に、赤い糸がこびりついている。
『六番を、返して』
「六番目はここにいない」
ルカは言った。
声は震えた。
けれど、出た。
灰色の子どもの片目が、瞬きをした。
『いる』
ルカの道具袋の中で、鈴が震える。
ち。
音になる前に、ルカはもう一度押さえた。
灰色の子どもは、その動きだけでわかったように言う。
『そこ』
ノエルの顔が険しくなる。
「鈴か」
『返して』
「返したらどうなる」
ノエルが問う。
灰色の子どもはノエルを見た。
片目だけ。
その視線がノエルの右手へ落ちる。
『君も、返す』
ノエルの口元が歪んだ。
「何を」
『手』
布の下で、真鍮の指輪が鈍く鳴る。
こん。
鉄箱が答える。
こん。
ルカは鈴を握った。
灰色の子どもは、ゆっくりと板へ手をかけた。
小屋の入口の板が、ぎし、と鳴る。
クロが飛びかかろうとする。
「待って」
ルカが言った。
クロは止まらない。
でも、噛みつく直前で身を反らし、入口の手前に着地した。
灰色の子どもは動かない。
怖がりもしない。
ただ、クロを見ている。
『動物は返さない』
クロが低く唸る。
『動物は、名前を持たないから』
ルカの指に力が入る。
クロには名前がある。
少なくとも、ルカたちはそう呼んでいる。
けれど王都の仕組みでは、違うのか。
名前と呼称。
記録と存在。
その境目が、だんだんわからなくなる。
ノエルが鉄片を握り直した。
「お前、王都のやつか」
灰色の子どもは答えない。
「返却係か」
『違う』
「じゃあ何だ」
『残り』
風が吹いた。
灰が板の隙間から入ってくる。
灰色の子どもの布が、小さく揺れた。
『返せなかったもの』
ルカの胸の木札が熱くなる。
鉄箱の七つ目の結び目から、黒い染みが少し広がった。
ノエルもそれを見る。
声を出さない。
灰色の子どもが言った。
『六番は、返却係になった』
灰色の子どもは、白箱の破片を胸に当てる。
『六番は、鈴になった』
次に、ルカを見る。
『七番は、箱になる』
小屋の中の空気が固まった。
ノエルが立ち上がろうとする。
左腕が震えて、すぐに膝が落ちる。
それでも鉄片を構えた。
「ふざけんな」
灰色の子どもは、ノエルを見ない。
ルカだけを見ている。
『順番だから』
「誰が決めた」
ルカが聞いた。
灰色の子どもの目が、ほんの少し細くなる。
『紙』
「紙は間違う」
『間違わない』
「間違う」
ルカは欠けたナイフを握る。
冷たい。
今は冷たい。
でも、手から離れない。
「僕の名前を削った」
『だから、戻す』
「戻さない」
『返す』
「返さない」
灰色の子どもの片目が、また瞬いた。
まるで、その答えを初めて聞いたようだった。
『返さない』
真似る。
声ではなく、意味を真似ている。
『返さないと、残る』
「残ればいい」
ノエルが言った。
灰色の子どもが、ようやくノエルを見る。
ノエルは鉄片を握ったまま、肩で息をしている。
「残るなら、残れよ」
『痛い』
「知るか」
『寒い』
「俺も寒い」
『重い』
「俺も重い」
鉄箱が、小さく鳴る。
こん。
ノエルは顔を歪めながら、続けた。
「でも返さねえ」
灰色の子どもは、黙った。
長い沈黙。
外で灰が舞う。
遠くで、王都の車輪の音がかすかに聞こえる。
ぎり。
ぎり。
返却便はもう遠い。
なのに、この子はここにいる。
返却便とは別のもの。
王都の手先ではない。
でも、王都の言葉で話す。
ルカは鈴を少しだけ持ち上げた。
鳴らさない。
ただ、見せる。
「六番目は、返さない」
灰色の子どもの片目が、鈴を追う。
「でも、君にも渡さない」
『どうして』
「君が誰かわからない」
『七番』
「それは番号」
『君』
「それも番号」
『ルカ』
その名を、灰色の子どもが呼んだ。
鉄箱が鳴る。
こん。
木札が熱くなる。
鈴が鳴りかける。
ち。
ルカは鈴を押さえる。
今度の呼び方は、下手ではなかった。
ノエルの呼び方でもない。
親父の呼び方でもない。
灰の炉の子どもたちの真似でもない。
もっと近い。
自分の喉の奥から聞こえるみたいな呼び方だった。
灰色の子どもは言った。
『君が返らないと、箱が開く』
ノエルが低く唸る。
「脅しか」
『順番』
「またそれかよ」
灰色の子どもは、白箱の破片を板の隙間から差し入れた。
クロが牙を剥く。
破片の裏側には、赤い糸。
そして、黒い文字。
七番。
仮箱化待機。
ルカは文字を読んだ。
読んでしまった。
ノエルも覗き込み、顔をしかめる。
「仮箱?」
鉄箱が鳴った。
こん。
七つ目の結び目から、黒い染みがさらに滲む。
灰色の子どもが言った。
『箱は、空だと困る』
「空じゃない」
ルカは鉄箱を見た。
ガロの声。
その箱の中にいるのは、名前じゃねえ。
呼び先だ。
中の子を起こせ。
箱を開けるな。
でも、灰色の子どもは首を横に振った。
『まだ寝てる』
「起こす」
『起こせない』
「起こす」
『歌えない』
ルカの喉が閉じた。
青い水の子守唄。
灰の中で赤ん坊だったルカが歌っていたもの。
歌えば、返る。
ガロはそう言った。
灰色の子どもは知っている。
なぜ。
ルカと同じ目をしたまま。
『歌えば、箱は開く』
「歌わない」
『歌わなければ、起きない』
ノエルが言った。
「歌以外で起こす」
『どうやって』
「知らねえ」
ノエルは鉄片を握り直す。
「知らねえけど、歌わねえ。開けねえ。返さねえ。別のやり方を探す」
灰色の子どもは動かない。
片目だけが、揺れた。
その目の色が、灰の光で一瞬薄くなる。
ルカと同じ色。
でも、奥が違う。
ルカの目ではない。
ルカに似せられた何か。
ルカは白箱の破片を見た。
七番。
仮箱化待機。
破片の端に、もうひとつ小さな傷がある。
細い刃の印。
ガロの印ではない。
あのナイフの男の印でもない。
もっと細い。
王都の書記が使う刃の跡。
ルカは針を取り出した。
ノエルが横目で見る。
「読むのか」
「少し」
「倒れるなよ」
「たぶん」
「禁止」
「倒れない」
ルカは白箱の破片に、針先を近づける。
灰色の子どもが止めなかった。
針が空気をなぞる。
破片が震えた。
最初に来たのは、冷たい白い匂い。
返却路。
白い棚。
小さな靴音。
次に、誰かの手。
白い手袋。
エルヴィンではない。
もっと古い手。
細い刃で、白箱の破片に文字を刻んでいる。
七番。
仮箱化待機。
予備人格残置。
ルカの針が止まった。
予備人格。
灰色の子どもが、片目でルカを見ている。
その言葉は、声にしてはいけない気がした。
ノエルが小さく聞く。
「何て書いてある」
ルカは答えなかった。
灰色の子どもが、代わりに言った。
『残り』
ルカの指が冷える。
灰色の子どもの足の甲。
黒い数字の七。
ルカと同じ目。
王都は、ルカが返らなかった時のために、何かを残していた。
箱に入れるための予備。
七番目の代わり。
あるいは。
七番目から削ったもの。
鉄箱が鳴った。
こん。
黒い染みが七つ目の結び目を這う。
灰色の子どもが、それを見る。
『もうすぐ』
「何が」
ノエルが言う。
『箱が、君を呼ぶ』
ルカは破片から針を離した。
息が戻る。
灰色の子どもは、板の外で立っている。
入ってこない。
入れないのか。
入らないのか。
ルカは欠けた鈴を握った。
六番目の名片。
鳴らない鈴。
今、鳴らせばどうなる。
六番目を呼ぶのか。
この灰色の子どもを退けるのか。
それとも、鈴の中の名前を返してしまうのか。
まだ鳴らすな。
ガロの声。
名前を返したくなった時だ。
今は、返したくない。
返さない。
ルカは鈴をしまった。
灰色の子どもの目が、それを追う。
『隠すの』
「持っていく」
『重いよ』
「知ってる」
『痛いよ』
「知ってる」
『君も、箱になるよ』
ノエルが鉄片を上げた。
「それ以上言うな」
灰色の子どもは、ノエルを見る。
『君は、手を返す』
「返さねえ」
『返せば楽』
「楽になりに来たんじゃねえよ」
ノエルの声はかすれていた。
でも、折れていない。
右手の布が震える。
鉄箱が鳴る。
こん。
灰色の子どもは、白箱の破片をゆっくりと下ろした。
『返さない』
また真似た。
『残る』
風が吹く。
灰色の布が揺れる。
片目が、ほんの少しだけ細くなる。
『残るのは、痛い』
「うん」
ルカは言った。
灰色の子どもが見る。
「でも、君も残ってる」
灰色の子どもは動かなかった。
初めて、言葉が止まった。
ルカは続けなかった。
これ以上言えば、説得になる。
説得できる相手かどうかもわからない。
ただ、その事実だけを置いた。
君も残っている。
灰色の子どもの片目が、ゆっくり瞬いた。
外で、紙が鳴った。
ぱき。
ぱき。
紙鳥ではない。
もっと大きい。
屑鉄場の外、灰の道の方から。
記録紙が、何枚も同時に割れる音。
灰色の子どもが、そちらを見た。
『来る』
ノエルが鉄片を握る。
「王都か」
『回収係』
ルカの背中が冷える。
返却係。
再搬送。
回収係。
まだ別の係がいる。
灰色の子どもは、白箱の破片を小屋の前に置いた。
『六番を返して』
また同じ言葉。
でも、さっきより少しだけ違う。
命令ではない。
懇願にも近い。
ルカは答えない。
灰色の子どもは、板の隙間から片目を外した。
『返さないなら』
足音が一歩、遠ざかる。
『起こして』
鉄箱が鳴った。
こん。
黒い染みが、七つ目の結び目から赤い糸へ流れていく。
灰色の子どもは、灰の中へ下がった。
『歌わずに』
その姿が、屑鉄の影に溶ける。
ルカは入口へ這い寄った。
外を見る。
灰色の子どもはもういない。
白箱の破片だけが残っている。
七番。
仮箱化待機。
その文字が、灰の風で薄くなっていく。
遠くで、また紙が割れた。
ぱき。
ぱき。
ぱき。
今度は近い。
ノエルが黒パンの残りを袋へ突っ込んだ。
「休憩終わりか」
「うん」
「最悪だな」
「うん」
クロが入口から外へ出た。
低く唸る。
外で、紙が割れる音がした。
ぱき。
ぱき。
ぱき。
屑鉄場の向こう。
灰の道に、白い人影が並んでいた。
白い面。
背中の箱。
赤い糸の束。
回収係。
白い面の一人が、首を傾けた。
『七番、仮箱化を開始します』
鉄箱が、激しく鳴った。
こん。
こん。
こん。
ノエルは鉄箱を抱える。
ルカは横から支える。
クロが入口から飛び出す。
灰色の空の下で、ルカは欠けたナイフを握り直した。




