鳴らない鈴
灰の光が、目に刺さった。
ルカは地面へ叩きつけられた。
背中。
肩。
肘。
道具袋。
全部が順番に痛んだ。
息が詰まる。
口の中に、灰と鉄粉の味が広がった。
少し遅れて、ノエルが落ちてきた。
鉄箱を抱えたまま。
「ぐっ――!」
転がる。
箱を離さない。
左肩から崩れて、なお右手は胸の前にある。
布の下の指輪を握っている。
クロは二人より先に着地していた。
背中を丸め、灰の地面に爪を立てている。
ルカは咳き込みながら起き上がった。
空が見えた。
灰色の空。
雲なのか、煙なのか、わからない。
地上だった。
外だ。
だが、自由な場所ではない。
目の前に広がっていたのは、屑鉄場だった。
壊れた車輪。
曲がった格子。
折れた槍。
潰れた鍋。
焼けた鎧。
王都の白い箱の破片。
割れた記録板。
名前のない荷札。
全部が山になって積まれている。
鉄と灰と紙の墓場。
風が吹くたび、薄い灰が舞った。
その灰の中に、細かい紙片が混じっている。
字が書かれているものもあった。
処分。
返却。
照合不能。
再利用不可。
ノエルが呻いた。
「……外って、もっとマシな場所じゃねえのかよ」
「少なくとも、地下よりは広い」
「それ、褒めてんのか」
「わからない」
「たぶん禁止」
「広い」
「よし」
ノエルは立ち上がろうとして、左腕を押さえた。
顔が歪む。
鉄箱はまだ抱えている。
だが、もう限界だった。
ルカはすぐ横に膝をつく。
「支える」
「持つな」
「支えるだけ」
「……もう聞き飽きた」
「僕も」
二人で鉄箱を地面に下ろした。
置くのではない。
灰の上に、布を敷く。
その上へ、そっと乗せる。
ノエルの左手は箱の端から離れない。
ルカの右手も、赤い糸には触れない位置で支えている。
鉄箱は鳴らなかった。
赤い糸も切れていない。
七つ目の結び目は、まだ歪なまま残っている。
ノエルは荒い息を吐いた。
「親父さん、生きてんのか」
ルカは灰捨て穴の方を見た。
穴は、屑鉄の山の斜面に開いていた。
黒い口。
その奥から、まだかすかに槌の音が聞こえる。
かん。
かん。
遠い。
でも、ある。
「わからない」
「だよな」
「でも、まだ叩いてる」
「それは生きてるってことじゃねえの」
「親父の場合、死んでても叩きそう」
「嫌な説得力だな」
クロが短く鳴いた。
屑鉄場の向こう。
王都の白い返却便が通った道が見える。
車輪の跡。
新しい。
灰の上に、まっすぐ残っている。
その先は、砦の外縁を回り込むように北へ伸びている。
六番目は、あの先へ運ばれた。
ルカの道具袋の中で、欠けた鈴が震えた。
音はしない。
でも、震えた。
ノエルがそれに気づく。
「鳴ったか」
「鳴ってない」
「じゃあ何だよ」
「呼んでる」
「最悪だな」
ルカは鈴を取り出した。
半分潰れた銀の鈴。
ガロが叩いた跡が、縁に新しく残っている。
前より、ほんの少しだけ開いている。
中に赤い糸。
六番目の名片。
外へ鳴らすな。
内へ鳴らせ。
名前を返したくなった時だ。
ルカは鈴を握る。
まだ鳴らすな。
親父の声が、骨の奥に残っている。
ノエルが車輪跡を見た。
「追うか」
「今は無理」
「だよな」
ノエルは悔しそうに口を閉じた。
左腕が震えている。
右手は開かない。
ルカの足首も赤い糸に締められた跡が痛む。
クロの口元にも血がついている。
全員、まともに走れない。
それでも、立ち止まっていられる場所ではない。
屑鉄場の奥から、別の音がした。
紙が割れる音。
ぱき。
ぱき。
ルカは振り返る。
屑鉄の山の上に、白い紙片が舞っている。
遠隔記録紙。
破片。
いや、破片ではない。
紙片が何枚も集まり、風の中でひとつの形を作ろうとしている。
鳥。
白い鳥。
紙でできた監視鳥。
王都の目。
エルヴィンのものではない。
もっと粗い。
もっと安い。
だが、数が多い。
紙鳥が一羽、灰の空を旋回した。
その腹に、黒い文字が浮かぶ。
七番、外縁屑鉄場にて痕跡。
ノエルが舌打ちする。
「もう来た」
ルカは欠けたナイフを握る。
刃はまだ温かい。
だが、紙鳥へ向けた瞬間、その温度がすっと引いた。
ナイフは紙を嫌がっている。
ガロの工房の熱は、まだ白い紙へ渡りたがらない。
クロが跳んだ。
紙鳥へ飛びかかる。
紙鳥はひらりと避け、上へ逃げる。
クロの爪が空を切った。
紙鳥の腹の文字が変わる。
異物一、二、一匹。
搬送品、確認不能。
音止め箱、未照合。
ぱき。
ぱき。
屑鉄場のあちこちから、紙鳥が湧き始めた。
壊れた記録板の隙間。
白い箱の破片の裏。
折れた札の山。
王都はここにも目を撒いている。
ノエルが鉄片を拾おうとして、左腕が動かず顔をしかめた。
ルカは鉄箱を見た。
動かせない。
走れない。
紙鳥は増える。
鳴らない鈴は、手の中で震えている。
まだ鳴らすな。
でも。
何かをしなければ、見つかる。
ルカは周囲を見る。
屑鉄。
壊れた鍋。
曲がった格子。
割れた白板。
折れた鎖。
名前のない荷札。
ここにあるものは、全部、使われ終わったものだ。
王都が捨てたもの。
紙から外れたもの。
なら。
ルカは道具袋から、曲がった針を取り出した。
ノエルが見る。
「何する気だ」
「鳴らさない」
「鈴を?」
「うん」
ルカは欠けた鈴を、地面に置いた。
灰の上。
鉄箱の横。
それから、屑鉄の山から細い鎖を一本拾う。
錆びている。
切れかけている。
その鎖を鈴の割れ目に通す。
針で赤い糸に触れないように、鈴の外側だけを留める。
ノエルが眉を寄せた。
「何だそれ」
「鳴らさないための紐」
「意味わからん」
「僕も、少し」
「少しなのかよ」
紙鳥が下りてくる。
一羽。
二羽。
三羽。
腹に文字が浮かぶ。
対象確認。
対象確認。
対象――
ルカは鈴を掴み、地面に軽く押し当てた。
鳴らさない。
揺らさない。
音を外へ出さない。
ただ、鈴の内側にある赤い糸を、鎖の錆びた輪で囲む。
外へ鳴らすな。
内へ鳴らせ。
親父はそう言った。
でも、今は鳴らさない。
内側へ閉じる。
ルカは針を動かした。
ちり、と音がしそうになる。
鈴が震える。
ルカは指で鈴の口を塞いだ。
音は出ない。
かわりに、屑鉄場の灰が小さく震えた。
紙鳥たちの文字が乱れる。
対象かくに――
対象、か――
対象、なし。
一羽目が、空中でばらけた。
白い紙片が灰へ落ちる。
二羽目も文字を失う。
三羽目も。
ぱら。
ぱら。
紙鳥が、ただの紙片へ戻っていく。
ノエルが目を見開いた。
「何した」
「たぶん」
「禁止」
「隠した」
「何を」
「音」
ルカは鈴を握った。
鈴は鳴っていない。
でも、鈴の内側に、屑鉄場の音が吸われている。
足音。
息。
鉄箱の重み。
クロの唸り。
ルカという名を探す紙鳥の音。
全部ではない。
ほんの少し。
だが、王都の紙が拾うには十分な音を、鈴が内側へ沈めた。
ノエルは短く笑った。
「鳴らない鈴、便利だな」
「怖いけどね」
「便利で怖いのは、だいたいお前の道具だ」
「否定しづらい」
クロが、落ちた紙片を爪で押さえた。
紙片には、文字が残っている。
外縁屑鉄場。
七番。
捕捉失敗。
失敗。
失敗。
同じ言葉が、何度も薄く浮かんでは消える。
ルカは紙片を拾おうとして、やめた。
拾わない。
今持っていくべきものではない。
ノエルが車輪跡を見た。
「六番目は北か」
「うん」
「親父の工房は戻れねえ」
「うん」
「じゃあ、どこ行く」
ルカは屑鉄場を見渡した。
北には返却便。
南にはグリム砦。
東には王都の巡回路。
西には、灰に沈んだ丘と壊れた水車。
マレナの工房はもう遠い。
戻れるかどうかもわからない。
でも、ここには道具がある。
王都が捨てたもの。
記録から外れたもの。
使われ終わったもの。
ルカは欠けた鈴を道具袋に戻した。
まだ鳴らさない。
まだ返さない。
「少し隠れる」
「また地下か」
「地上で」
「地上に隠れる場所なんてあるのか」
クロが先に歩き出した。
屑鉄の山の間。
壊れた白箱の裏。
古い荷車の陰。
そこに、低い入口があった。
木の板で隠されている。
板には、煤で印が描かれていた。
丸。
二本線。
欠けた三角。
マレナの印。
ノエルが笑った。
「婆さん」
ルカも息を吐いた。
安堵ではない。
でも、少しだけ肺が広がる。
マレナは、ここにも印を残していた。
屑鉄場。
灰捨て穴の出口。
親父の工房から出た先。
全部、知っていたのか。
それとも、知った上で何も言わなかったのか。
どちらでも怖い。
どちらでも、ありがたい。
ルカは板をどかす。
低い小屋のような空間があった。
屑鉄を積んで作った隠れ場所。
小屋の中は狭い。
ノエルが先に座る。
鉄箱を膝の前に置く。
ルカも横に座る。
クロは入口で丸くなった。
しかし、目は閉じない。
外では紙片がまだ灰に混じって舞っている。
返却便の車輪跡は北へ続いている。
遠くで、白い音が一度だけ鳴った。
とん。
ルカは黒パンを半分に割った。
硬い。
指が痛む。
ノエルに半分渡す。
ノエルは黙って受け取った。
二人は少しだけ食べた。
味はほとんどしない。
灰の味の方が強い。
クロには小さく欠片を渡した。
クロは匂いを嗅ぎ、嫌そうな顔で食べた。
鉄箱が鳴った。
こん。
二人は同時に見た。
赤い糸は切れていない。
蓋も開いていない。
ただ、七つ目の結び目から、黒い染みが滲んでいた。
ガロの声が蘇る。
箱を開けるな。
でも、中の子を起こせ。
開けずに起こせ。
できなきゃ死ぬだけだ。
鉄箱がまた鳴る。
こん。
今度は、内側からではなかった。
外。
小屋の外。
屑鉄場のどこかで、同じ音がした。
こん。
ノエルが鉄片を掴む。
ルカはナイフを握る。
クロが立ち上がる。
小屋の外から、灰を踏む音が近づいてきた。
一歩。
二歩。
三歩。
止まる。
板の隙間の向こうに、小さな影が立っていた。
子ども。
白布ではない。
灰色の布。
手に、小さな白い箱の破片を持っている。
『六番を、返して』
ノエルが歯を食いしばった。
ルカの道具袋の中で、欠けた鈴が鳴りかける。
ち。
音になる前に、ルカは鈴を押さえた。
外の子どもは、もう一度言った。
『返して』
板の隙間から、片目だけがこちらを覗いた。
ルカと同じ色の目。
『七番目』
鉄箱が鳴った。
こん。
『次は、君の番だよ』
欠けたナイフが、手の中で冷たくなった。




