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親父の工房

 かん。


 つちの音が、土の奥から聞こえた。


 遠い。


 けれど、確かにそこにある音だった。


 かん。


 もう一度。


 ルカの胸の木札が、小さく鳴る。


 こん。


 ノエルの腕の中の鉄箱も、答えるように鳴った。


 こん。


 三つの音が、土の下で重なった。


 槌。


 木札。


 鉄箱。


 そして、ルカの手の中の欠けたナイフが、また微かに温かくなる。


「親父の工房って」


 ノエルが低く言った。


「王都の外れにあったんじゃないのか」


「そうだと思ってた」


「思ってた、ね」


「うん」


「嫌な言い方だな」


「最近、そういうのばっかりだ」


 ルカは暗い穴を見た。


 根の奥に続いている。


 人ひとりがやっと通れるくらいの穴。


 さっきの書庫の穴よりは広い。


 けれど、地上へ続く穴ではない。


 土の奥へ。


 さらに古い場所へ。


 工房の匂いが流れてくる。


 すす


 油。


 鉄。


 焼けた革。


 濡れた灰。


 そして、安い煙草の匂い。


 ルカは息を吸いかけて、止めた。


 ノエルが鉄箱を抱え直す。


 左腕は震えている。


 右手はまだ胸の前。


 布の下の指輪は沈黙していた。


「行くのか」


「行く」


「だよな」


「でも、君は少し休んだ方がいい」


「置いてく気か」


「言ってない」


「顔が言ってる」


「最近、顔に文句言われすぎだ」


「顔が悪い」


「ひどい」


 ノエルは口の端だけで笑った。


 すぐに痛みで顔をしかめる。


 ルカは鉄箱に手を添えた。


「支える」


「持つなよ」


「支えるだけ」


「少しだけだぞ」


「何回目だろうね、それ」


「うるせえ」


 二人で鉄箱を挟む。


 重い。


 けれど、さっきより少しだけ扱いやすい。


 鉄箱は、二人の間で黙っている。


 こん、とも鳴らない。


 クロが先に穴へ入った。


 黒い尻尾が、闇の中へ消える。


 ルカとノエルも続いた。


 土の穴は、少しずつ下っている。


 木の根が天井を縫っている。


 ところどころに、古い鉄片が埋まっていた。


 釘。


 刃こぼれした小刀。


 折れた鎖。


 曲がった針金。


 どれも錆びている。


 でも、ただ捨てられたものではない。


 土に埋め込まれ、道の骨みたいになっている。


 ルカはそれを踏まないように進んだ。


 ひとつひとつが、まだ何かを覚えている気がした。


 かん。


 また槌の音。


 近い。


 そのたびに、ナイフが温かくなる。


 右手の薬指は冷えない。


 そのことが、逆に怖かった。


 冷たい方が慣れている。


 痛い方がわかりやすい。


 温かい壊れ物は、何を求めているのかわからない。


「ルカ」


「うん」


「手、変な顔してる」


「手に顔はないよ」


「あるだろ。今、めちゃくちゃ嫌な顔してる」


 ルカはナイフを見た。


 黒い亀裂の奥に、赤っぽい光が滲んでいる。


 火ではない。


 炉の残り香だ。


「温かい」


「いいことじゃねえの」


「わからない」


「そればっかだな」


「うん」


 ノエルは黙った。


 それ以上は言わない。


 ルカも言わない。


 穴の先が、少し広くなった。


 土の壁が、石に変わる。


 白い王都の石ではない。


 黒い石。


 煤を吸った古い炉の石。


 その石壁に、何度も何度も同じ印が刻まれていた。


 細い刃。


 欠けていないナイフ。


 それから、雑な字。


 戻るな。


 進め。


 戻るな。


 進め。


 ノエルが眉を寄せる。


「命令が多いな」


「親父みたい」


「お前の親父、そんな感じだったのか」


「うん」


「嫌な親父だな」


「うん」


 ルカは少しだけ笑いかけた。


 けれど、すぐに口を閉じた。


 石壁の印の間に、別の字があった。


 王都の文字。


 きれいな、細い文字。


 廃棄炉管理区画。


 立入禁止。


 未登録児処理後、洗浄。


 ノエルの目が細くなる。


「未登録児」


 ルカは文字から目を逸らさなかった。


 読めてしまう。


 読みたくないのに。


 読めてしまう。


 白い通路で見た言葉と同じ匂いがする。


 返却。


 処分。


 洗浄。


 子どもに向ける言葉ではない。


 でも、王都はそれを子どもに貼る。


 クロが前方で短く鳴いた。


 穴が終わる。


 そこに、鉄の扉があった。


 古い扉。


 黒く焼けている。


 表面には無数の傷。


 叩いた跡。


 こじ開けた跡。


 内側から引っ掻いたような跡。


 中央に、小さな覗き窓。


 そして、その下に、錆びた札。


 王都外縁下請け第七工房。


 ルカの喉が詰まった。


 第七工房。


 親父の工房。


 王都の外れにあったはずの、小さな下請け工房。


 安い鉄を直し、壊れた農具を直し、兵の靴底の金具を直し、王都の工房から回される面倒な仕事ばかり受けていた場所。


 ルカが寝泊まりしていた場所。


 怒鳴られた場所。


 飯を食べた場所。


 名前を呼ばれた場所。


 それが、グリム砦の地下にある。


 廃棄炉管理区画の奥に。


 ルカは扉に手を伸ばした。


 ノエルが低く言う。


「待て」


「うん」


「触るなって言うべきか?」


「たぶん」


「じゃあ言う。触るな」


「でも」


「だよな」


 ノエルは舌打ちした。


「お前、いつもそれだ」


 ルカは扉を見た。


 触れれば、何かが来る。


 でも、触れなければ入れない。


 ナイフが、手の中で温かくなる。


 作業台に刺さっていた刃のない柄。


 この道を作った男。


 坊主に、返すな。


 その声が、まだ骨の奥に残っている。


 ルカは欠けたナイフの刃先を、扉の錆びた鍵穴へ近づけた。


 鍵穴は、普通の鍵穴ではなかった。


 刃の形をしている。


 欠けていない、細いナイフの形。


 ルカのナイフとは少し違う。


 欠けている分、合わない。


 刃先が入らない。


 ノエルが言った。


「壊すか」


「壊したら、たぶん開かない」


「面倒くせえ扉だな」


「うん」


 ルカはナイフを握り直す。


 直せば合う。


 欠けた刃を、元の形に戻せば。


 鍵穴に合う。


 扉は開く。


 右手の薬指が、少しだけ冷えかけた。


 修復しろ。


 刃を戻せ。


 いつもの衝動。


 だが、ナイフの温度がそれを押し返した。


 温かいまま、刃が小さく震える。


 直すな。


 そう言っているみたいだった。


 ルカは息を吸った。


 欠けた刃を鍵穴に当てる。


 合わない。


 その隙間に、道具袋から取り出した欠けた鈴を差し込んだ。


 ノエルが目を丸くする。


「それ、鍵か?」


「わからない」


「またそれか」


 ルカは鈴を、刃と鍵穴の隙間へそっと噛ませた。


 潰れた鈴。


 鳴らない鈴。


 六番目の名片。


 鈴の欠けた縁が、鍵穴の足りない部分にぴたりと収まった。


 かち。


 小さな音。


 音は鳴らないはずの鈴から出た。


 扉の奥で、槌の音が止まる。


 静寂。


 それから、内側から声がした。


『遅えぞ、灰かぶり』


 ルカの全身が固まった。


 親父の声だった。


 荒くて。


 低くて。


 煙草くさくて。


 怒鳴る寸前みたいな声。


 ノエルがルカを見る。


 ルカは声を出せなかった。


 鉄扉の鍵が回る。


 ぎ。


 ぎぎ。


 重い音。


 扉が、内側へ開いた。


 熱気が流れ出す。


 煤。


 油。


 鉄。


 安い煙草。


 工房の中央に、男がいた。


 背中を向けて、炉の前で槌を打っている。


 かん。


 かん。


 男が振り返る。


 皺の深い額。


 煤のついた頬。


 男の胸には、白い箱の角が深く埋まっていた。


 男はルカを見て、目を細める。


「でかくなったな」


 ルカは唇を震わせた。


「親父」


 その言葉が出た瞬間、工房の銅管がぴしりと鳴った。


 親父は舌打ちする。


「呼ぶな、馬鹿」


 ルカは息を止めた。


 親父は舌打ちする。


「ここはまだ王都の腹だ。呼べば拾われる。泣くなら後にしろ」


 ノエルが鉄箱を抱えたまま、親父を睨む。


「おっさん、あんた何だ」


「見りゃわかるだろ。鍛冶屋だ」


「胸に箱刺さってる鍛冶屋は見たことねえよ」


「見聞が狭いな、坊主」


「うるせえ」


 親父はノエルを見た。


 そして、その右手に目を止める。


 布の下の指輪。


 鉄箱。


 傷だらけの左腕。


「カイルの弟か」


 ノエルの顔が変わった。


「なんで」


「その目つきでわかる。兄貴に似てねえな」


「殴るぞ」


「やってみろ。箱ごと転ぶぞ」


 ノエルが歯を食いしばる。


 けれど、何も言い返せなかった。


 親父はクロを見た。


「猫もいるのか」


 クロが低く唸る。


「こいつは嫌いじゃねえ顔だ」


 クロがさらに唸った。


 親父は少しだけ笑った。


 親父は作業台へ戻った。


「戸を閉めろと言った」


 ノエルがルカを見た。


 ルカは慌てて扉を閉める。


 鉄扉が重く閉じる。


 外の土の匂いが消えた。


 工房の熱だけが残る。


 親父は作業台の上を片付ける。


 雑に。


 釘や鉄片を払い、空いた場所を指差した。


「箱、そこへ置け」


 ノエルの目が鋭くなる。


「置かねえ」


「置け。床に置くな。台に置け」


「どっちも嫌だ」


「左腕が死ぬぞ」


「知るか」


 親父はノエルを見た。


 それから、低く言った。


「持ち続けるのと、守るのは違う」


 ノエルが黙った。


 その言葉は、乱暴なのに、深く刺さった。


 ノエルの左腕が震えている。


 もう限界だった。


 ルカはノエルの横に立つ。


「一緒に置こう」


「……置くんじゃねえ」


「うん」


「一瞬、預けるだけだ」


「うん」


 二人で鉄箱を作業台に乗せた。


 どん。


 重い音。


 工房全体が、わずかに震えた。


 炉の火が、低く揺れる。


 鉄箱の赤い糸は切れていない。


 蓋も開いていない。


 ノエルの左手は、まだ箱の端に触れている。


 親父はそれを見て、何も言わなかった。


 代わりに、ルカへ手を出した。


「鈴」


 ルカは道具袋から欠けた鈴を取り出した。


 親父の掌に乗せる。


 その瞬間、鈴が少しだけ震えた。


 鳴らない。


 けれど、親父は聞いたようだった。


「六番か」


 ルカは息を呑む。


「知ってるの」


「知らねえわけねえだろ」


 親父は鈴を炉の光にかざした。


 潰れた銀の縁。


 音の出ない裂け目。


 その中に、赤い糸が一本だけ挟まっている。


 親父は目を細めた。


「まだ鳴らねえか」


「鳴らせる?」


「鳴らすだけなら簡単だ」


 親父は鈴を作業台に置いた。


「問題は、何を鳴らすかだ」


 ルカは黙った。


 親父は炉の横から、小さな金床かなとこを出した。


 古い。


 角が欠けている。


 その上に鈴を置く。


 槌を持ち上げる。


 ルカは思わず声を出した。


「叩くの?」


「鍛冶屋に何を期待してんだ」


「壊れる」


「もう壊れてる」


「でも」


「直すな」


 親父の声が、工房の熱を切った。


 ルカは止まる。


 親父は鈴を見たまま言った。


「鳴らない鈴を、鳴る鈴に戻すな。戻せば、王都が拾う」


 ルカの胸の木札が熱を帯びる。


 親父は続ける。


「こいつは音を失ったんじゃねえ。音を隠してる」


 ノエルが低く言う。


「六番目の名前か」


 親父はノエルを見ない。


「名前だったものだ」


 その言い方に、ルカの喉が冷えた。


 名前だったもの。


 六番目が持たされていた名片。


 ミ。


 オ。


 リ。


 しかし、六番目自身の名ではない。


 持たされたもの。


 返すな。


 持っていけ。


 親父は鈴を指で押さえる。


「鳴らすなら、外へ鳴らすな。内へ鳴らせ」


「内へ?」


「耳に届く音じゃねえ。骨に届く音だ」


 ルカは欠けたナイフを見た。


 ナイフの声は、いつも耳ではなく骨の奥へ刻まれた。


 親父はそれを見ていたように言った。


「その刃、ようやく温まったか」


「これは、何」


「お前を拾った時、握ってた」


 工房の空気が止まった。


 ノエルも動かない。


 クロも鳴かない。


 ルカはナイフを握った。


「俺が?」


「ああ」


「赤ん坊が、ナイフを?」


「正確には、握らされてた」


 親父は鈴から目を離さない。


「灰の中でな」


 ルカの胸の奥が、低く鳴る。


 こん。


 木札ではない。


 自分の内側。


 親父は槌を上げる。


 まだ叩かない。


「そのナイフは鍵じゃねえ。証拠でもねえ。返却札だ」


「返却札」


「王都が、お前をどこへ戻すか決めるためにくくりつけた道具だ」


 ルカの手が冷えた。


 今度はナイフではない。


 自分の手が。


「じゃあ、俺は」


「続けるな」


 親父が鋭く言った。


 ルカは口を閉じた。


「その先を言葉にするな。王都は言葉を拾う」


 ノエルが低く唸るように言った。


「じゃあ、どうやって話すんだよ」


「鍛冶屋は喋る前に叩く」


 親父は鈴に槌を落とした。


 かん。


 小さな音。


 鈴は鳴らない。


 けれど、ルカの胸の木札が震えた。


 こん。


 鉄箱が震える。


 こん。


 ナイフが温かくなる。


 じん。


 親父はもう一度、鈴を叩いた。


 かん。


 今度は、ノエルの右手の指輪が布の下で鳴った。


 こん。


 ノエルが顔をしかめる。


「今の」


「黙ってろ」


 親父は三度目を叩く。


 かん。


 鈴の潰れた縁が、わずかに開いた。


 音はしない。


 でも、工房の中のすべてのガラクタが、いっせいに息をした。


 壁の工具。


 古い鍋。


 折れた釘。


 空のインク壺。


 刃のない柄。


 木札。


 鉄箱。


 指輪。


 ナイフ。


 全部が、一瞬だけ同じ方向を向いた。


 作業台の上に、薄い影が立つ。


 白布をかぶった小さな子ども。


 六番目。


 顔はない。


 けれど、白布の下に赤い糸が揺れている。


 数字の六。


 その下に、古い傷。


 ミ。


 オ。


 リ。


 だが、その傷は鈴の中へ吸われていく。


 六番目の影が、こちらを見た。


『かえさないで』


 声は小さかった。


 平らではない。


 白い通路の声ではない。


 子どもの声だった。


 ノエルの喉が鳴る。


 ルカは鈴を見た。


 親父は槌を止めない。


 四度目。


 かん。


 鈴の中から、別の音が出た。


 ちり。


 ほんの微かな音。


 外へ広がらない。


 工房の壁を越えない。


 耳に入るのではなく、胸の奥へ落ちる音。


 六番目の影が薄くなる。


 でも、消えない。


 親父が低く言った。


「これで、あいつの名片は王都へ返らねえ」


「助けたの?」


 ルカが聞く。


 親父は鈴を見たまま、少しだけ顔を歪めた。


「まだだ」


 鈴が、もう一度だけ鳴った。


 ちり。


 六番目の影が、ルカへ手を伸ばした。


 白い指。


 赤い糸。


『七番目』


 その呼び方に、ノエルが睨む。


 だが、六番目は続けた。


『ルカ』


 今度は、上手かった。


 ルカは息を止めた。


『箱を、開けないで』


 鉄箱が、作業台の上で低く鳴る。


 こん。


『でも』


 六番目の声が細くなる。


『中の子を、起こして』


 炉の火が、低く跳ねた。


 ノエルの左手が、鉄箱の端を掴む。


「中の子」


 親父が槌を置いた。


 その音が重かった。


「来たか」


「何が」


 ノエルが言う。


 親父はルカを見た。


 その目は、いつもの怒鳴る前の目ではなかった。


 もっと奥が暗い。


「お前が一番聞いちゃならねえ話だ」


 ルカは鉄箱を見た。


 赤い糸。


 七つ目の結び目。


 音止め。


 開封禁止。


 木札が熱い。


 ナイフが温かい。


 鈴は胸の奥で、まだ鳴らない音を震わせている。


 ノエルが鉄箱の端を掴んだまま言った。


「でも聞くんだろ」


 ルカは頷いた。


 親父が舌打ちした。


「その顔、嫌いだったんだよ」


「ごめん」


「謝るな。腹が立つ」


 親父は炉の奥を見た。


 白い箱が、彼の胸の穴と繋がっている。


 そこから、紙片がまた一枚落ちた。


 ぱさり。


 紙片には、黒い文字が浮いていた。


 灰児第七号。


 処分猶予。


 保管先、第七工房。


 担当、ガロ・ベネット。


 ルカは紙を見る。


 ガロ。


 親父の名前。


 そうだ。


 親父にも名前があった。


 呼んだことはほとんどない。


 みんな、親父と呼んでいた。


 親父は紙片を足で踏んだ。


 黒い文字が潰れる。


「読むな」


 ルカは目を上げる。


 親父、いや、ガロはルカを見ていた。


「お前は、俺の紙を読むために戻ってきたんじゃねえ」


「じゃあ、何のために」


 ガロは答えなかった。


 代わりに、作業台の下から、古い小箱を取り出した。


 黒い木箱。


 片手に乗るくらいの大きさ。


 蓋に、刃の印。


 その印は、欠けていない。


 ガロは小箱を開けた。


 中には、何も入っていなかった。


 いや。


 底に、灰が敷かれている。


 その灰の中に、小さな足跡があった。


 赤ん坊の足跡。


 ひとつ。


 ガロは言った。


「お前が灰の中にいた証拠は、これだけだ」


 ルカは小箱を見た。


 足跡。


 小さい。


 信じられないくらい小さい。


「もう一つあった」


 ガロは続ける。


「お前の声だ」


 ルカは顔を上げる。


「声?」


「あの日、お前は泣いてなかった」


 工房の炉が低く鳴る。


 かん、と遠くで槌の余韻。


「歌ってた」


 青い水の子守唄が、ルカの喉の奥で蘇りかけた。


 ルカは口を閉じる。


 ガロが頷く。


「それだ。絶対に歌うな」


 ノエルが低く言う。


「歌うと、来るのか」


「来るんじゃねえ」


 ガロの声がさらに低くなる。


「返る」


 鉄箱が鳴った。


 こん。


 木札が鳴る。


 こん。


 鈴が鳴らないまま震える。


 ガロは鉄箱を見た。


「その箱の中にいるのは、名前じゃねえ」


 ルカは息を止めた。


「じゃあ」


「呼び先だ」


 工房の銅管が、ぴしりと鳴った。


 外のどこかで、王都の紙が反応した気がした。


 ガロが顔を上げる。


「まずいな。長く喋りすぎた」


 扉の向こうで、白い音がした。


 とん。


 とん。


 小さな靴音。


 返却路が追いついてきた。


 ノエルが鉄箱を抱えようとする。


 ルカも手を伸ばす。


 ガロが怒鳴った。


「待て」


 二人は止まる。


 ガロは鈴をルカへ投げた。


 ルカは受け取る。


 欠けた鈴。


 もう少しだけ開いた鈴。


 外へは鳴らない鈴。


「それを持ってけ。六番の名片はそこへ入れた」


「親父は」


「俺は行けねえ」


 ガロは自分の胸を指した。


 白い箱の角。


「ここが俺の棺だ」


 ルカの胸が詰まる。


 ガロは顔をしかめた。


「泣くな」


「泣いてない」


「顔が泣く準備してる」


 ノエルが小さく言った。


「顔、便利だな」


「黙れ、坊主」


 ガロは炉の脇の壁へ向かう。


 そこに、古い搬出口があった。


 鉄の蓋。


 黒く焦げている。


 ガロは蓋の取っ手を掴む。


 重そうに引き上げる。


 ぎぎぎ。


 下に、斜めの滑り台のような通路があった。


 灰捨て穴。


 工房から外へ、灰を捨てるための穴。


「ここを行け」


「どこへ出る」


 ノエルが聞く。


「外縁の屑鉄場くずてつばだ」


「安全か」


「安全な道なんざねえ」


「だよな」


 ガロはノエルを見た。


「箱を落とすな」


「言われなくても」


「腕を捨てるな」


 ノエルの目が止まった。


 ガロは続ける。


「死んだやつの代わりに、自分を壊すな。そんなもん、誰も喜ばねえ」


 ノエルは何も言わなかった。


 右手の布が、小さく震えた。


 ガロはルカへ向く。


「お前は、開けるな」


「でも、起こせって」


「開けずに起こせ」


「そんなこと」


「できなきゃ死ぬだけだ」


 雑。


 乱暴。


 最悪の教え方。


 ルカの知っている親父そのものだった。


 ガロは欠けたナイフを指差した。


「その刃は、戻すな。欠けたまま使え。欠けたところからしか、通れねえ場所がある」


 ルカはナイフを握った。


 温かい。


 ガロの工房の熱と同じ温度。


 扉の向こうで靴音が増える。


 とん。


 とん。


 とん。


 銅管が鳴る。


 白い箱が、ガロの胸で軋む。


 ガロの体から、紙片が剥がれ落ちる速度が速くなった。


 ルカは一歩近づいた。


「親父」


「呼ぶなって言ったろ」


「ごめん」


「謝るな」


 ガロは舌打ちした。


 それから、少しだけ声を落とす。


「……ルカ」


 その名が、工房の中で鳴った。


 王都の紙に拾われない。


 炉の熱の中で、槌の音に混じり、煤に沈む。


 ちゃんと、名前だった。


「行け」


 ガロは言った。


「灰の中から拾ったもんを、王都へ返すな」


 ルカは頷いた。


 言葉が出ない。


 ノエルが鉄箱を抱える。


 今度は、ルカも横から支える。


 二人で灰捨て穴へ進む。


 クロが先に飛び込む。


 滑り台の奥は真っ暗だ。


 ノエルが先に入る。


 鉄箱を抱えて。


 ルカが続こうとした時、ガロがもう一度言った。


「鈴は、まだ鳴らすな」


 ルカは振り返る。


「いつ」


 ガロは槌を拾った。


 炉の前に戻る。


 扉の向こうで、白い声がした。


『七番、再捕捉』


 ガロは笑った。


 荒く、短く。


「名前を返したくなった時だ」


 ルカはその意味を聞けなかった。


 白い扉が、内側から軋む。


 ガロが槌を振り上げる。


 ルカは灰捨て穴へ身を滑らせた。


 落ちる直前。


 最後に聞こえたのは、親父の怒鳴り声だった。


「遅えぞ、紙屑ども!」


 そして、槌の音。


 かん。


 かん。


 かん。


 滑り落ちながら、ルカは欠けた鈴を握った。


 鈴は鳴らない。


 でも、胸の奥で、六番目の小さな声が震えていた。


『かえさないで』


 灰捨て穴の先に、灰色の光が見えた。


 外だ。


 ルカとノエルとクロ。


 木札。


 鉄箱。


 欠けたナイフ。


 欠けた鈴。


 全部が、灰の匂いの中へ投げ出されていく。


 背後で、工房の扉が壊れる音がした。


 白い声。


 親父の怒声。


 槌の音。


 それらが、土と灰に呑まれて遠ざかる。


 ルカは目を閉じなかった。


 灰の光の中へ、落ちていった。

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