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紙に消えない名前

 その紙の上で。


 ルカの名前だけが、ひとりでに削れ始めていた。


 ぱき。


 ぱき。


 背後の遠隔記録紙えんかくきろくしが鳴る。


 狭い壁の内側まで、その音は入ってきた。


 石の隙間をう虫みたいに。


 インクが染みる音。


 紙が裂ける音。


 名前が、削られる音。


「対象名……ルカ・グレイ」


 エルヴィンの声が、外から聞こえる。


 その声が、途中で止まった。


 紙が、また鳴る。


 ぱき。


 ぱき。


「……待て」


 いつも平らだったエルヴィンの声が、ほんの少し揺れていた。


 ルカは壁の中で、息を止めた。


 狭い。


 暗い。


 胸には木札。


 腰には道具袋。


 右手には、欠けたナイフ。


 そのどれよりも、いま重いものがあった。


 名前。


 ルカ・グレイ。


 王都で下請けの親父につけられた名。


 灰の中にいた子どもだから、グレイ。


 親父がそう呼んだ。


 工房の連中がそう呼んだ。


 追放された時も、紙にはその名があった。


 それがいま、紙の上で削られている。


「ルカ」


 前から、ノエルの声がした。


 狭い暗闇の中。


 ノエルが振り返っている。


 顔はよく見えない。


 でも、目だけが光っていた。


「止まるな」


 ルカは返事をしようとした。


 喉が動かなかった。


 自分の名前を呼ばれたはずなのに、声が胸の奥まで届くのに、一拍遅れた。


 ルカ。


 それが自分のことだと、わかる。


 わかるのに、手触りが薄い。


 濡れた紙に書いた文字みたいに、輪郭がにじんでいる。


 背後で、エルヴィンが低く命じた。


再照合さいしょうごうしろ」


 兵の声が返る。


「対象名、欠損けっそん


「欠損ではない。いま読めた」


「現在、読めません」


 また、紙が鳴る。


 ぱき。


 ぱき。


「記録名、ルカ・グレイ。王都外縁下請け工房登録。追放処分済み。残響保持者」


 兵が読み上げる。


 しかし、途中で声が詰まった。


「……記録名、欠損」


 ルカの喉の奥が冷えた。


 胸の木札が熱い。


 右手のナイフが冷たい。


 その二つに挟まれて、自分の名前だけが、薄く削られていく。


 ノエルが戻ってきた。


 狭い壁の中を、無理やり体をひねって。


「何やってんだよ」


「……俺」


 ルカはようやく声を出した。


 自分の声なのに、遠かった。


「俺、名前が」


 ノエルの顔が近づいた。


 泥。


 血。


 青白い頬。


 布を巻いた右手は、胸に押し当てたまま。


 左手だけで、ルカの襟を掴む。


「聞こえたか」


「え?」


「俺が呼んだの、聞こえたか」


「……うん」


「じゃあ残ってる」


 ノエルは短く言った。


「紙が何を削ろうが、俺が呼んでる。ルカ」


 その名が、暗闇の中で硬く鳴った。


 紙の音ではない。


 記録の音でもない。


 ノエルの声だった。


 少しかすれていて、痛そうで、乱暴で。


 でも、確かにそこにある声だった。


 ルカは息を吸った。


 名前が、胸の内側へ戻る。


 全部ではない。


 でも、戻る。


「……うん」


 ルカは頷いた。


「行ける」


「最初から行け」


「ごめん」


「謝るな」


 ノエルがルカの襟を放す。


 そのまま前へ進もうとして、足を滑らせた。


 ルカが腕を掴む。


「君こそ止まらないで」


「うるせえ」


「立てる?」


「這ってる」


「十分」


「真似すんな」


 クロが前方で、低く鳴いた。


 急げ。


 そう言っている。


 二人はまた進み始めた。


 崩れた防壁の内側は、思ったより長かった。


 石と石の隙間。


 古い補強材。


 蜘蛛くもの巣。


 乾いた土。


 何度も膝をぶつける。


 背中の道具袋が引っかかる。


 そのたびに、中のガラクタが小さく鳴った。


 子どもの靴。


 焼けた小皿。


 細い針。


 割れた指輪。


 どれも、声にはならない。


 でも、黙ってはいない。


 重い。


 ただ、重い。


 背後で兵たちが壁を叩いている。


「この中だ!」


「回り込め!」


「穴を塞げ!」


 エルヴィンの声が続く。


「殺すな。持ち物を傷つけるな。特にナイフと右手の遺物だ」


 ノエルが小さく舌打ちした。


「俺の右手を荷物扱いしやがった」


「違うよ」


「何が」


「たぶん、荷物より危険物扱い」


「もっと嫌だわ」


 ルカは少しだけ息が漏れた。


 笑いではない。


 けれど、暗闇の中で肺が動いた。


 その一瞬だけ、紙の音が遠ざかった気がした。


 前方で、クロが止まる。


 今度は三つの道があった。


 左は上へ。


 中央はさらに奥へ。


 右は下へ。


 左からは、兵の声。


 右からは、水音。


 中央からは、風。


 クロは中央を見ていた。


 その奥から、灰の匂いがした。


 それに混じって、かすかな鉄の匂い。


 ノエルが肩で息をしながら聞いた。


「真ん中か」


 クロが短く鳴く。


「わかったよ。偉そうに」


 ノエルが這って進む。


 ルカも続いた。


 中央の道は、途中から石ではなく木になった。


 古い板張り。


 ところどころ腐っている。


 体重をかけるたび、ぎし、と鳴る。


 下は空洞らしい。


 落ちたら終わりだ。


 ルカは木札を胸に押し当てる。


 木札は熱い。


 だが、さっきほどではない。


 門から離れたからか。


 それとも、ルカの名前が削られているせいで、木札の熱まで遠くなったのか。


 考えたくなかった。


 前方が少し明るくなる。


 細い光。


 古い格子窓。


 その向こうに、外が見えた。


 砦の内側ではない。


 裏門の外壁沿い。


 灰色の斜面。


 枯れた草の先に、古い信号塔しんごうとうが立っている。


 半分崩れた石の塔。


 その上に、折れた旗竿はたざお


 白布が一枚、絡まっていた。


 十年前のものか。


 それとも、もっと最近のものか。


 わからない。


 ただ、その白だけが、灰の景色の中で妙に明るかった。


 ノエルが小さく息を吸った。


「兄ちゃんの布……?」


「わからない」


 ルカは答えた。


 でも、木札が少し鳴った。


 こん。


 ナイフも冷たく震える。


 その白布は、ただの布ではない。


 少なくとも、この道の終わりを示している。


 クロが格子窓の下で、爪を立てた。


 外へ出ろ、ということらしい。


 ルカは窓の留め具を探った。


 錆びている。


 動かない。


 ノエルが左手を伸ばす。


「どけ」


「待って、怪我」


「いいから」


 ノエルは左手で留め具を掴み、体重をかけた。


 ぎり、と音がする。


 右手は胸の前。


 使えない。


 それでも、左手だけで押す。


 歯を食いしばる。


 傷だらけの肩が震える。


 ルカは横から手を添えた。


 二人で押す。


 ぎぎ。


 ぎ。


 かこん。


 留め具が外れた。


 格子窓が、外側へ倒れる。


 冷たい風が流れ込んだ。


 灰と草の匂い。


 自由の匂いではない。


 追われるための空気だった。


 クロが先に飛び出す。


 ノエルが続く。


 ルカも外へ体を滑らせた。


 足元が斜面だった。


 危うく転がり落ちそうになる。


 ノエルが左手でルカの袖を掴んだ。


「落ちるな」


「君も」


「俺は落ち慣れてる」


「慣れないで」


 背後で、壁の内側から兵の声が近づいている。


 すぐに窓を見つけられる。


 時間はない。


 クロは信号塔へ向かっていた。


 迷わず。


 ルカとノエルは追った。


 斜面を降りる。


 足元の灰が滑る。


 ノエルが一度、膝をついた。


 ルカが支える。


 ノエルは何も言わずに立つ。


 布を巻いた右手は、まだ胸にある。


 開かない。


 そこにある指輪が、時々小さく鳴った。


 ルカの木札も、答えるように熱を持つ。


 名前は呼ばない。


 でも、二人の間には、あの音がある。


 ミオリ。


 声にしなくても、沈黙の中で鳴っている。


 信号塔の入口は、崩れた石で半分塞がっていた。


 クロがその隙間へ潜る。


 ルカたちも、体を押し込んだ。


 中は暗い。


 けれど、防壁の中よりは広い。


 床には古い旗布。


 折れた木箱。


 錆びた金具。


 壁には、煤で書かれた印があった。


 丸。


 二本線。


 欠けた三角。


 マレナの印。


 ルカは息を呑んだ。


「ここも」


「目録か?」


「たぶん」


 信号塔の奥に、石の台があった。


 その上に、小さな箱が置かれている。


 木ではない。


 薄い鉄の箱。


 蓋には、赤い糸が巻かれていた。


 その糸は、ノエルの右手の指輪に結ばれていたものと同じ色に見えた。


 ノエルが一歩近づく。


 ルカは止めようとした。


 でも、声が出る前に、ノエルが止まった。


 自分で。


 右手を胸に押し当て、奥歯を噛んでいる。


「触らない」


 ノエルが言った。


「今は」


 ルカは頷いた。


 少しだけ、胸が熱くなった。


 無理に進まない。


 開ければいいわけじゃない。


 そのことを、ノエルももう知っている。


 クロが箱の前に座る。


 鳴かない。


 ただ、見ている。


 まるで、これを見つけさせるためにここへ来たみたいだった。


 ルカは箱には触れず、周囲を見る。


 石の台の下に、古い札が落ちていた。


 煤で汚れている。


 拾おうとして、止める。


 触るな。


 でも、読む。


 ルカは膝をつき、目を近づけた。


 文字がある。


 王都の整った字ではない。


 荒い。


 急いで刻んだ字。


 たぶん、マレナの手ではない。


 もっと若い筆跡。


 読みづらい。


 それでも、いくつか読めた。


 白布。


 裏門。


 信号塔。


 灰児はいじ


 ルカの喉が止まった。


 灰児。


 知らない言葉。


 でも、知らないはずなのに、胸の奥が嫌な音を立てた。


 ノエルが気づく。


「何て書いてある」


 ルカは答えようとした。


 だが、その前に。


 外で、紙が鳴った。


 ぱき。


 ぱき。


 遠隔記録紙。


 近い。


 兵が信号塔へ来ている。


 ノエルが剣の代わりに、落ちていた鉄片を拾った。


 左手で。


 右手はまだ開かない。


 ルカは木札を抱え、ナイフを握る。


 指先が痛む。


 新しい亀裂の入ったナイフは、前より冷たい。


 塔の入口に、影が差した。


 兵ではなかった。


 黒い外套。


 エルヴィン。


 彼は剣を抜いていない。


 手には遠隔記録紙。


 端の焦げた紙が、風に震えている。


 エルヴィンは塔の中を見回した。


 クロ。


 ノエル。


 ルカ。


 石の台の鉄箱。


 そして、床の古い札。


 その目が、ほんのわずかに変わった。


「……そこにあったか」


 ルカはナイフを握った。


 ノエルが前へ出ようとする。


 ルカは左手で止めた。


 エルヴィンは近づかない。


 入口に立ったまま、紙を見た。


 紙面に、黒い文字が浮かぶ。


 けれど、すぐに崩れる。


 対象名。


 欠損。


 照合先。


 欠損。


 残響保持者。


 欠損。


 そして。


 新しい文字が、ゆっくり染み出した。


 灰児。


 エルヴィンの顔が硬くなる。


 ルカはその文字を見ていない。


 でも、わかった。


 遠隔記録紙が吐いたその音が、塔の空気を変えたからだ。


 灰児。


 それは、名前ではない。


 分類だ。


 人ではなく、何かを箱に入れるための言葉。


 エルヴィンが、低く読んだ。


灰児第七号はいじだいななごう


 ノエルが息を呑む。


 ルカは、自分の胸の奥で何かが沈むのを感じた。


 第七号。


 ルカ・グレイではない。


 灰かぶりですらない。


 番号。


 紙の上で、人間ではない形へ変えられていく音。


 ノエルが一歩前に出た。


「違う」


 低い声。


 エルヴィンの視線がノエルへ向く。


「違うって言ってんだろ」


 ノエルは鉄片を握りしめた。


「そいつはルカだ」


 紙が鳴った。


 ぱき。


 ぱき。


 まるで、その言葉を嫌がるみたいに。


 エルヴィンは黙っていた。


 怒鳴らない。


 否定もしない。


 ただ、紙とルカを見比べている。


「……君は」


 エルヴィンが言った。


「自分の登録番号を知らないのか」


 ルカは答えなかった。


 知らない。


 知りたくない。


 でも、体は知っているような気がした。


 灰の匂い。


 欠けたナイフ。


 下請けの親父の手。


 王都の外れ。


 全部が、遠くで繋がろうとしている。


 エルヴィンが一歩、塔の中へ入った。


 クロが唸る。


「その箱を渡しなさい」


「嫌だ」


 答えたのは、ルカだった。


 声は思ったより静かだった。


 エルヴィンが止まる。


「中身を知っているのか」


「知りません」


「なら、なぜ拒む」


 さっきと同じ問い。


 ルカはナイフを握る。


 答えを言葉にしたら、また嘘になる。


 でも、今度は黙らなかった。


「あなたが知ってる顔をしてるからです」


 エルヴィンの眼鏡の奥が、わずかに揺れた。


 ノエルが横で短く笑った。


「いい返事だな」


「君に褒められると不安になる」


「黙れ、今はかっこつけとけ」


 外で兵の足音が増える。


 塔を囲まれつつある。


 逃げ道は少ない。


 クロが石台の裏へ回った。


 爪で床を掻く。


 そこにも、古い板があった。


 マレナの逃げ道。


 どこまでも、あの老婆の手が残っている。


 ルカは鉄箱を見た。


 触れていいのか。


 開けていいのか。


 持っていくべきか。


 置いていくべきか。


 迷う。


 けれど、迷っている時間はない。


 ノエルが布の右手を胸に押し当てたまま、左手で鉄箱を掴んだ。


「持つ」


「ノエル」


「開けない。持つだけ」


 その声に、少しだけ震えがあった。


 でも、手は止まらなかった。


 鉄箱が、石台から持ち上がる。


 その瞬間、ルカの木札が熱を持った。


 ナイフが冷えた。


 遠隔記録紙が悲鳴のように鳴った。


 ぱきん。


 紙面の文字が裂ける。


 灰児第七号。


 その横に、黒い線が走った。


 エルヴィンが目を見開く。


 ルカは見ていない。


 でも、またわかった。


 自分の名前だけではない。


 番号までもが、削られ始めている。


 エルヴィンが低く呟いた。


「……記録が、拒否されている」


 塔の外で、鐘が鳴った。


 五つ。


 六つ。


 今までより近い。


 王都の紙が、彼らを囲もうとしている。


 だが、塔の床下で、クロが板を外した。


 暗い穴が開く。


 ノエルが鉄箱を抱え、ルカを見る。


「行くぞ」


 ルカは頷いた。


 エルヴィンが一歩踏み出す。


「待て」


 その声には、命令ではないものが混じっていた。


 焦り。


 いや。


 恐怖。


「その箱は、開けるな」


 ルカはエルヴィンを見た。


「知ってるんですね」


 エルヴィンは答えなかった。


 答えないことで、答えた。


 ノエルが穴へ滑り込む。


 クロが続く。


 ルカも入ろうとして、最後に振り返った。


 エルヴィンは入口に立っている。


 兵たちが背後に集まっている。


 遠隔記録紙が、彼の手の中で黒く滲んでいる。


 その紙面から、ルカの名も、番号も、消えかけていた。


 エルヴィンが、低く言った。


「君がそれを持てば、王都から消えるぞ」


 ルカは穴の縁に手をかけた。


「今まで、いたことになってましたか」


 返事を聞かずに、ルカは暗闇へ身を滑らせた。


 上で、紙が裂ける音がした。


 ぱきん。


 今度は、乾いた音だった。


 名前でも。


 番号でもなく。


 紙そのものが、耐えきれずに割れた音だった。

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