第3話 白銀の剣、罠を踏む
ギルドの受付台は、雨の日ほど妙に明るい。
磨かれた木の板。
壁に貼られた依頼票。
乾いた羽ペンの匂い。
冒険者たちの濡れた外套から立ちのぼる獣くささ。
外はまだ雨だった。
俺は受付台の前に立って、曲がった短剣を腰に差したまま、低層一階で起きたことを報告していた。
「ですから、低層一階の正面通路に異常があります。地図上は行き止まりですが、壁の奥に未登録の接続部がある。罠も低層基準じゃありません。毒針です。圧力板も再生に失敗している」
受付嬢のリナさんは、困った顔で羽ペンを止めた。
年は俺より少し上。
新人冒険者にも丁寧に接する人で、受付の中ではまだ話が通じる方だ。
ただ、今は完全に困っている。
「レントさん。ええと、確認しますね。低層一階で、中層相当の痕跡を見つけた、と」
「はい」
「その痕跡は、目視で確認できるものですか?」
「壁の傷と、発光苔の潰れ方は見れば分かります。罠の残骸も残っているはずです。ただ、接続部は一時的に塞ぎました」
「塞いだ?」
「罠の残骸とロープで。二時間前後は持つと思います」
リナさんの眉が少し下がった。
ああ、いまのは失敗だった。
普通に考えれば、低層一階の壁の奥に未登録接続部があって、それを追放されたばかりの荷物持ちがロープで塞いできた、なんて話はおかしい。
俺だって、他人から聞いたら疑う。
「その……同行者はいましたか?」
「新人二人を助けました。バルとジムです。報告に来るように言ってあります」
「二名の証言が取れれば、調査依頼として上げやすくはなります」
リナさんは言葉を選んでいた。
俺を疑っている、というより、どう処理したらいいか分からない顔だ。
俺は受付台に手を置いた。
爪の間に、まだ黒い汚れが残っている。
毒針の跡じゃない。
壁から染み出した水と、石粉が混じったものだ。
「低層三階にも、同じ損傷反応があります」
「同じ、ですか?」
「はい。低層一階よりひどい可能性があります。封鎖した方がいい」
「レントさん」
リナさんの声が少し低くなった。
「低層三階は、今日も複数の新人パーティが入っています。封鎖となると、支部長補佐以上の判断が必要です。根拠が……」
「根拠ならあります」
言いかけて、止まった。
半透明の表示。
迷宮の声。
《迷宮整序》。
それをどう説明する?
自分のスキルが急に真名を開放して、迷宮の傷が見えるようになりました。
低層三階が痛いと言っています。
無理だ。
俺でも自分を疑う。
「……壁の傷と、罠の残骸です」
「では、まず調査班に確認を――」
「その前に、低層三階へ入る新人を止めてください」
リナさんは答えなかった。
受付台の横で、他の冒険者が笑った。
「おいおい、低層三階封鎖だってよ」
「誰が言ってんだ?」
「あいつだろ。《白銀の剣》を追い出された荷物持ち」
「ああ、昨日の?」
声が刺さる。
刺さるが、そこまで深くはない。
もう昨日さんざん刺さった。
痛みは、二度目になると少し鈍くなる。
いや、慣れたくはないけど。
リナさんが何か言おうとした時、奥の扉が開いた。
そこから、細身の男が出てきた。
きっちり撫でつけた髪。
折り目のついたギルド職員の制服。
靴は泥ひとつついていない。
口元だけ笑っている。
目は笑っていない。
「どうしました」
男は受付台の内側に立った。
リナさんが、少し緊張した声で言う。
「ダレン補佐。レントさんから低層一階の異常報告がありまして」
「レントさん?」
ダレンと呼ばれた男は、俺を見た。
視線が、上から下へ落ちる。
濡れた外套。
曲がった短剣。
安物の泥染みの残った革靴。
肩に残った荷物袋の跡。
目だけで、値踏みされた。
「あなたが、昨日《白銀の剣》を離れたという荷物持ちの方ですか」
「離れたんじゃない。追放されたんです」
「そうでしたか。それはお気の毒に」
声だけは丁寧だった。
でも、紙の上に薄く油を塗ったみたいな声だ。
滑る。
何も残らない。
「報告内容を聞きました。低層一階の異常、低層三階の危険、未登録接続部……ずいぶん大きな話ですね」
「事実です」
「事実、ですか」
ダレンは笑った。
「冒険者の方は、現場で興奮すると物事を大きく見積もりがちです。とくに、パーティを離れた直後は精神的にも不安定になる」
言い方が、丁寧すぎて嫌だった。
「俺が元パーティへの腹いせで騒いでいると?」
「そこまでは言っていません。ただ、手続きには順序があります」
「その順序の間に誰かが死んだら?」
「低層は新人向けに整備された安全区域です。過度な不安を広める方が、かえって混乱を招きます」
安全区域。
その言葉を聞いた瞬間、低層一階の黒い毒針が頭に浮かんだ。
新人の胸の高さを通り抜けた針。
石壁に刺さった音。
壁の奥から聞こえた声。
——あっちは、もっと痛い。
「低層三階に調査を出してください」
「必要なら出します」
「いつ」
「確認のうえ、適切な時期に」
「今じゃないと意味がない」
ダレンの口元の笑みが、少しだけ薄くなった。
「冒険者には、分をわきまえていただかないと」
その言葉に、受付台の周りが一瞬静かになった。
分。
昨日も似たようなことを言われた気がする。
身の丈に合った仕事を探せ、と。
俺は息を吐いた。
怒鳴るな。
ここで怒鳴れば、面倒な荷物持ちが騒いだだけになる。
情報を並べろ。
荷物を整理するみたいに。
「低層一階の正面通路。壁面に大型魔物の爪痕。湿地階層の黒苔。罠は毒針式で、圧力板が再加圧する状態でした。新人二名が証言できます。俺の外套にも毒針がかすった跡があります」
袖口を見せる。
黒く染まった布。
ダレンはちらりと見ただけだった。
「外套の汚れだけでは、証拠として弱いですね」
「なら現場を見ればいい」
「だから、確認しますと言っているのです」
「確認している間に、三階で同じことが起きる」
「あなたは低層三階を見たのですか?」
俺は黙った。
見てはいない。
表示では見た。
声も聞いた。
でも、それは証明できない。
ダレンは、俺の沈黙を見て、ゆっくり頷いた。
「憶測ですね」
「……」
「レントさん。あなたの熱意は分かりました。ですが、ギルドは個人の勘だけで階層を封鎖できません。ひとまず報告書として受理します。あとは我々に任せてください」
任せてください。
その言葉が、やけに薄く聞こえた。
俺は受付台から手を離した。
木目に、水滴の跡が残っている。
「分かりました」
分かっていない。
でも、これ以上ここで言っても意味がない。
俺は背を向けた。
出口に向かう途中、掲示板の前で足が止まった。
依頼票がいくつも貼られている。
薬草採取。
小鬼討伐。
低層二階の地図更新。
六階層の湿地エリア調査。
その六階層の依頼票に、赤い印が押されていた。
【受注済】
受注パーティ名。
《白銀の剣》
「……今日行くのか」
紙の端に、出発時間が書いてある。
今朝。
つまり、もう潜っている。
俺は依頼票を見たまま、無意識に計算していた。
六階層。湿地エリア。
昨日の消耗。
水袋は足りない。
回復薬も少ない。
ロープは古いものを置いていったはずだが、予備を買い足したとは思えない。
エルナは苔這い相手に火を撃つ。
ロイは宝箱を見れば止まらない。
ヴァイスは正面突破を選ぶ。
フィナは毒の兆候を見逃さないが、強く言えない。
「……やめとけよ」
声が漏れた。
誰に言ったのか分からない。
もう俺の仕事じゃない。
あいつらが選んだことだ。
なのに、頭の中で勝手に道が描かれる。
六階層の湿地。
北側通路。
水の流れが逆の場所。
あそこは、壁の裏に空洞がある。
空洞があるなら、苔這いの巣が近い。
火を撃てば毒煙。
毒煙で視界が落ちる。
ロイが焦って宝箱に手を出す。
罠。
そこまで見えて、俺は目を閉じた。
見えるな。
もう、俺の荷物じゃない。
そう思った。
思ったのに、掲示板の前からしばらく動けなかった。
◇
昼を過ぎても、雨はやまなかった。
俺はギルドの隅の席にいた。
硬いパンと薄いスープ。
銅貨を節約するなら、これで十分だ。
十分なはずなのに、腹にはあまり入ってこない。
受付の方では、何人かの冒険者が低層一階の話をしていた。
「罠が出たって?」
「新人二人が騒いでたな」
「けどギルドは封鎖しないらしいぞ」
「まあ、低層だしな」
バルとジムは報告してくれたらしい。
そこは少しだけ救いだった。
でも、低層三階はまだ封鎖されていない。
俺はスープをかき混ぜた。
水っぽい。
塩も薄い。
でも温かい。
温かいものを食べると、昨日から固まっていた体が少しだけほどける。
その時、ギルドの扉が荒く開いた。
雨音が流れ込む。
「おい、担架! 担架持ってこい!」
誰かが叫んだ。
ざわめきが広がる。
俺は立ち上がった。
入口から、冒険者たちが入ってくる。
泥まみれの男が二人。
その後ろに、肩を貸されている女。
さらに、その奥。
白銀の鎧。
ヴァイスだった。
ただし、昨日とは違う。
金髪は泥と苔にまみれ、白銀の鎧には黒い汚れがこびりついている。
腰の剣は抜いたまま。刃の中ほどが欠けていた。
エルナはローブの裾を焦がしているどころではなかった。
左袖が焼け落ち、頬に黒い煤がついている。
ロイの右腕には、黒い痣が浮かんでいた。
手首から肘にかけて、蛇みたいに絡みついている。
フィナは顔色がひどく悪い。
唇が青い。
治癒術を使いすぎた時の顔だ。
《白銀の剣》が帰ってきた。
拍手はなかった。
代わりに、雨と泥と、苦い薬草の匂いがした。
「どけ!」
ヴァイスが怒鳴る。
いつもの自信に満ちた声じゃない。
苛立ちと焦りが混ざっている。
「治療師を呼べ! ロイが呪いを受けた!」
「呪い?」
周囲の冒険者がざわめく。
ロイは無理に笑おうとしていた。
でも顔がひきつっている。
「いや、まあ、ちょっとな。宝箱に変なのが……」
「黙れ」
ヴァイスが低く言った。
ロイは口を閉じた。
俺は席の陰から見ていた。
胸の奥が、嫌な感じに冷えている。
ほら見ろ。
そう思った。
思ってしまった。
同時に、思いたくなかった。
エルナが受付台に手をついた。
「六階層の情報が違っていたわ。苔這いの巣が、地図の位置とずれていた。あんなの、聞いてない」
違っていたんじゃない。
見ていなかっただけだ。
あの階層の苔這いは、巣を移す。
湿度と水の流れで場所が変わる。
地図だけ見て進めば外す。
俺は何度も言った。
苔の色を見ろ。
壁の水滴を見ろ。
足元の泡を踏むな。
でも、あいつらは聞かなかった。
「火を撃ったら、毒煙が出たんだ!」
エルナが苛立った声を上げる。
「普通、苔なら燃やすでしょう!」
普通は、燃やさない。
少なくとも湿地階層の黒苔は燃やさない。
煙に毒が混じるから。
フィナが咳き込む。
治癒術で自分の毒も抑えているのだろう。無理をしている。
ロイは右腕を押さえて、歯を食いしばっていた。
「宝箱もおかしかったんだよ。あんなの、見た目は普通だった。鍵穴も罠線もなかった。なのに開けた瞬間、黒い霧が出て――」
「黙れと言った!」
ヴァイスの怒鳴り声が、ギルド中に響いた。
ロイはびくりと肩を跳ねた。
その時、ロイの視線がこちらに向いた。
俺と目が合う。
細い目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。
気まずさ。
焦り。
それから、たぶん、認めたくない何か。
ロイは小さく口を動かした。
「……あの宝箱、レントなら止めてたか?」
声は小さかった。
近くにいた俺と、たぶんフィナくらいにしか聞こえない。
でも、聞こえた。
フィナの顔がさらに青くなる。
ヴァイスがロイを睨んだ。
「黙れ」
今度は怒鳴り声ではなかった。
低くて、硬い。
自分に言い聞かせるような声だった。
俺は何も言わなかった。
ざまあみろ。
そう言えば楽だったかもしれない。
でも、ロイの腕の黒い痣は、本物だった。
フィナの震える指も、本物だった。
エルナの焦げた袖も、ヴァイスの欠けた剣も。
そして何より。
全部、見えていた。
見えていたのに、俺はもう止めなかった。
それが、胸の奥で少しだけ引っかかった。
「道を空けてください」
静かな声がした。
ダレン・ホークが、奥の扉から出てきた。
さっきと同じ、泥ひとつない靴。
きっちり整った髪。
口元だけの笑み。
この騒ぎの中でも、まったく乱れていない。
「《白銀の剣》の皆さん、奥の処置室へ。詳細はそこで聞きます」
ヴァイスが苦い顔をする。
「ダレン、これは――」
「分かっています」
ダレンは柔らかく言った。
「六階層での小規模な判断ミス、ということで処理しましょう。Aランク昇格審査への影響は、最低限に抑えます」
小規模。
ロイの腕を見ても、そう言えるのか。
フィナの唇を見ても。
ヴァイスの剣を見ても。
エルナの焦げたローブを見ても。
小規模。
便利な言葉だ。
「ただし、報告書には不要な混乱を招く表現は避けてください」
ダレンの目が、ちらりと俺を見た。
「低層一階の件もありますからね」
俺は席から立っていた。
いつ立ったのか、自分でも分からなかった。
「六階層で何があったか、記録してください」
ダレンは俺を見る。
「もちろん記録します」
「苔這いの巣が移動していたこと。毒煙が出たこと。宝箱から黒い霧が出たこと。罠線が見えなかったこと。全部です」
「レントさん」
ダレンは困ったように眉を下げた。
「あなたは当事者ではありません」
「だからこそ見えることもある」
「追放された直後に、元パーティの失敗を大げさに語る。そういう行為は、あまり感心しませんね」
周りがざわつく。
昨日の話を知っている冒険者もいる。
知らない冒険者も、だいたい察した顔をしている。
追放された荷物持ち。
元パーティの失敗を笑いに来たやつ。
そう見えているのだろう。
俺は一度、口を閉じた。
怒鳴るな。
並べろ。
「俺は笑いに来たんじゃない」
「では、何を?」
「低層一階の異常と、六階層の異常がつながっている可能性があります」
「根拠は?」
半透明の表示。
迷宮の声。
同様の損傷反応。
言えない。
言っても通らない。
「……痕跡です」
「また痕跡ですか」
ダレンは小さく笑った。
「壁の傷、苔の色、床の湿り気。あなたは観察力があるのかもしれません。ですが、ギルドは個人の感覚だけで動く組織ではありません」
「新人が死んでから動くんですか」
「言葉には気をつけてください」
ダレンの声が、少しだけ冷えた。
ほんの少し。
だが、周囲の空気は変わった。
受付嬢のリナさんが、こちらを見ている。
バルとジムも、いつの間にか入口近くに立っていた。
彼らは何か言いたげだったが、ギルド職員に止められている。
ダレンは俺の前まで歩いてきた。
近くで見ると、香の匂いがした。
甘い。
支部長室の扉から漏れていた匂いと同じだ。
「レントさん。あなたの報告は受理しました。調査も行います。ですから、これ以上、不確かな話で冒険者を不安にさせるのは控えてください」
「いつ調査する」
「支部長には、私から報告しておきます」
その瞬間だった。
視界の端に、文字が浮かんだ。
【虚偽報告の痕跡を確認】
息が止まる。
ダレンを見た。
彼は変わらず穏やかに笑っている。
【迷宮損傷情報:隠蔽されています】
隠蔽。
文字はすぐに消えた。
だが、見間違いじゃない。
俺はダレンの背後を見た。
ギルド奥の扉。
支部長室へ続く、重そうな木の扉。
中は見えない。
ただ、隙間から甘い香の匂いが漏れている。
ダレンはまだ笑っていた。
「ご理解いただけますね?」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
喉の奥に、低層一階の壁から染み出していた冷たい水の感触が戻る。
——あっちは、もっと痛い。
低層三階。
まだ誰も止めていない。
俺の報告は、紙の上で眠らされる。
《白銀の剣》の失敗は、小規模な判断ミスになる。
六階層の異常も、低層一階の罠も、たぶんきれいな言葉で薄められる。
そして明日も、新人が迷宮へ入る。
俺は、ダレンの笑顔を見た。
口元だけ動く。
目は笑わない。
なるほど。
迷宮は嘘をつかない。
でも、人間は報告書で嘘をつく。
その時、ギルドの奥から鐘の音が鳴った。
緊急呼び出しではない。
階層帰還の記録鐘だ。
また誰かが帰ってきたらしい。
受付の一人が青い顔で走ってくる。
「ダレン補佐! 低層三階から、負傷者が出ました!」
ギルド内の空気が凍った。
俺の手が、自然に曲がった短剣の柄へ伸びる。
ダレンの笑顔が、初めてほんの少しだけ固まった。
「低層三階、ですか?」
「はい! 新人パーティが一組、戻ってきません! 同行していた別パーティが、封鎖区画のようなものを見たと――」
低層三階。
封鎖区画。
俺は一歩踏み出した。
ダレンの横を抜けようとする。
「待ちなさい」
ダレンの声が飛ぶ。
「あなたは関係ありません」
俺は足を止めなかった。
「あります」
「何が?」
振り返らずに答えた。
「見えてしまった」
ギルドの扉を開ける。
雨の匂いが流れ込む。
その奥で、迷宮の入口が黒く口を開けている。
俺の視界に、半透明の文字が浮かんだ。
【同様の損傷反応:低層三階】
【危険度:上昇】
【警告:救助可能時間、残りわずか】
そして、迷宮の奥から、かすかな声がした。
——おいていかないで。




