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第2話 《荷物整理》の真名

 ——そこ、痛いよ。


 声は、壁の奥から聞こえた。


 低層一階。

 新人向けの石窟エリア。

 本来なら、石牙狼と小鬼くらいしか出ない場所だ。


 なのに、行き止まりのはずの壁が、ほんの少しだけ軋んでいる。


 俺は短剣の柄に手をかけたまま、息を止めた。


「誰だ」


 返事はない。


 声の主は見えない。

 足音もない。

 気配もない。


 ただ、壁から染み出した冷たい水が、指先に残っている。


 雨じゃない。

 地下水でもない。


 汗みたいだった。


 迷宮の壁が、痛みに耐えて汗をかいている。

 そんな馬鹿みたいな考えが頭に浮かんで、すぐに振り払った。


 壁が痛がるわけがない。


 ない、はずだ。


 でも、さっきの声は確かに言った。


 そこ、痛いよ、と。


「……落ち着け」


 俺は小さく息を吐いた。


 まず、状況を整理する。


 そうだ。

 荷物も、通路も、戦闘も、混乱した時ほど一つずつ並べる。


 見えるものから確認する。


 壁の傷。

 行き止まりからこちらへ向いた爪痕。

 潰れた発光苔。

 迷宮内部から染み出した水。

 そして、目の前に浮かんでいる半透明の文字。


【スキル《荷物整理》の真名を開放しました】

【真名:《迷宮整序》】


 まだ消えていない。


 俺は眉を寄せた。


「迷宮、整序……」


 聞いたことがない。


 そもそも、スキルに真名があるなんて話も知らない。

 教会でも、ギルドの新人講習でも、そんなことは教えられなかった。


 《荷物整理》。


 俺のスキルは、それだけだったはずだ。


 袋の中身を整える。

 取り出しやすくする。

 重さの偏りを減らす。


 地味で、安く買いたたかれて、戦闘では役に立たない。

 そういう扱いだった。


 けれど、今、目の前に浮かぶ文字は違うと言っている。


【周辺情報を整理中】

【壁面損傷:三日前】

【魔物痕跡:低層基準外】

【罠再生:失敗】

【推定危険度:上昇】


「……便利すぎるだろ」


 言ってから、違うと思った。


 便利。

 そういう感じじゃない。


 嬉しいとか、助かったとか、そういう軽さじゃない。


 むしろ、背中に冷たいものが張りつく感覚があった。


 自分でも気持ち悪いくらい、分かる。


 いや、前から見えていた。

 ただ、今はそれに名前がついた。


 名前がつくということは、もう知らないふりができない、ということだ。


 爪痕。

 苔の潰れ方。

 壁の湿り気。

 わずかな風の流れ。


 今までは「なんとなく嫌な感じがする」で済ませていたものが、言葉になってしまう。


 そうなると、もう逃げられない。


 危ないと分かっていて、見なかったことにはできない。


「……勘弁してくれ」


 口ではそう言った。


 でも足は、壁の傷へ向いていた。


 俺はしゃがみ込み、爪痕の深さを見た。


 石牙狼じゃない。

 あいつらの爪は鋭いが、ここまで深く石をえぐらない。

 それに高さが違う。低層の魔物にしては、爪の位置が高すぎる。


 大型。


 少なくとも、二階層までに出る魔物ではない。


 爪の端に、黒い苔が薄くこびりついていた。

 湿地階層の苔だ。


 六階層以降に生えるやつ。


「なんで、そんなものが一階にある」


 俺は壁の奥を見た。


 正面の壁は、地図では行き止まり。

 だが、風がある。


 風は嘘をつかない。

 どこかに抜けがある。

 もしくは、無理やりつながった穴がある。


 ——間違って、つながってる。


 さっきの声が、耳の奥でよみがえった。


「間違って、か」


 なら、本来ここにはないものが流れ込んでいる。


 魔物も。

 湿地の苔も。

 罠も。


 俺は一歩下がった。


 その時、通路の向こうから声が聞こえた。


「おい、こっちで合ってるのか?」


「地図だと正面だって。たぶん宝箱あるぞ」


「マジかよ。低層で宝箱とか当たりじゃん」


 若い声が二つ。


 新人冒険者だ。


 まずい。


 俺は振り返った。


 通路の曲がり角から、革鎧を着た少年二人が出てくる。

 片方は短剣。もう片方は錆びかけた片手剣。

 どちらも足運びが軽すぎる。


 疲れていないんじゃない。

 警戒していない。


 腰の水袋も揺れすぎている。

 留め具が甘い。走ったら落ちる。


「止まれ」


 俺は言った。


 二人がこちらを見る。


 片手剣の方が、俺の顔を見て眉をひそめた。


「あ? 誰だよ」


「その先に行くな」


「は?」


 短剣の少年が、壁の方を覗き込もうとする。


「宝箱あるんだろ? あんたもそれ狙い?」


「宝箱なんかない。そこは行き止まりだ」


「じゃあなんで止めるんだよ」


「壁の奥がつながってる。低層の通路じゃない。たぶん罠も壊れてる」


 二人は顔を見合わせた。


 それから、片手剣の少年が笑った。


「荷物持ちが何言ってんだよ」


 胸の奥で、何かが小さく沈んだ。


 ああ。

 そう見えるのか。


 泥だらけの外套。

 安物の短剣。

 肩に残った荷物袋の跡。

 戦闘職には見えない。


 見えないものは、ないものにされる。


「いいから戻れ」


「命令すんなって。俺たち、今日でEランクに上がる予定なんだよ」


「その前に死ぬぞ」


「縁起悪いこと言うなよ!」


 短剣の少年が、一歩踏み出した。


 その瞬間、俺の視界に文字が走った。


【罠再生:失敗】

【圧力板:誤作動中】

【発動まで:三秒】


「伏せろ!」


 考えるより先に体が動いた。


 俺は二人に飛びついた。


「うわっ、何す――」


 少年たちを押し倒した瞬間、壁の隙間から黒い針が飛び出した。


 ひゅ、と空気が裂ける。


 一本が俺の外套をかすめた。

 布が破れる音。

 遅れて、石壁に針が突き刺さる乾いた音。


 続けて、二本、三本。


 さっきまで少年たちの胸があった高さを、毒針が通り抜けていった。


「な……っ」


 片手剣の少年が、尻餅をついたまま固まっている。


 短剣の方は顔を真っ青にしていた。


「動くな」


 俺は低く言った。


「まだ終わってない」


【圧力板:再加圧】

【二次発動まで:五秒】


 二次発動。


 やっぱり壊れてる。

 普通の罠なら、一度発動すれば終わる。

 だがこれは再生に失敗して、発動条件が狂っている。


 俺は床を見た。


 石畳の一枚だけ、縁に泥が溜まっていない。

 つまり、わずかに沈んでいる。

 圧力板。


 でも針の角度が変だ。

 次は正面じゃない。

 床下から来る。


「お前ら、右の壁に張りつけ。早く」


「え、でも」


「今すぐ!」


 二人が転がるように右へ寄った。


 俺は短剣を抜き、圧力板の隙間に突っ込む。


 刃が嫌な音を立てた。


 こんな使い方をしたら刃が曲がる。

 でも、短剣一本と命二つなら、比べるまでもない。


 石板が跳ねる。


 床下から毒針が突き上がった。


 俺は短剣を捻り、板を斜めに噛ませた。


 針が途中で止まる。


 ぎぎ、と罠の内部が軋んだ。


【罠動作:停止】

【毒針残数:二】

【安全域:右壁沿い二歩】


「右壁沿いに二歩下がれ。足を床の黒い線に乗せるな」


「な、なんで分かるんだよ」


「いいから」


 二人は言われた通りに動いた。


 俺も圧力板から短剣を抜き、ゆっくり後退する。


 数秒待つ。


 音はしない。


 もう大丈夫、だと思う。

 いや、思うじゃない。


 床の震えが消えている。

 壁の水の流れも戻った。

 発光苔の光も揺れていない。


「……止まった」


 そう言った瞬間、膝に力が抜けそうになった。


 危なかった。


 針の一本は、外套を裂いただけだった。

 けれど、袖口の布が黒く染まっている。


 毒だ。


 直撃していたら、たぶん助からない。


「す、すみませんでした!」


 短剣の少年が、頭を下げた。


「俺、知らなくて……その、荷物持ちって」


「別にいい」


「いや、よくないだろ! 死ぬところだった!」


 片手剣の少年も、震えた声で言った。


「助かった。ありがとう」


 礼を言われた。


 久しぶりだった。


 それなのに、胸の奥はあまり温かくならなかった。

 むしろ、冷たいものが広がっていく。


 この罠は低層のものじゃない。


 再生に失敗している。

 しかも、罠の向きがめちゃくちゃだ。


 本来なら、宝箱や分岐路を守る位置にあるはず。

 でもここは行き止まり。

 新人が地図を見て近づくだけの場所だ。


 意味のない場所に、殺すための罠がある。


 おかしい。


「戻れ。今日はもう終わりだ」


「え、でも」


「続けたいなら勝手にしろ。俺は二度は飛び込まない」


 二人は今度は反論しなかった。


 片手剣の少年が、俺を見て聞く。


「あんた、名前は?」


「レント」


「レントさん。俺、バル。こっちはジム。……今度、礼をさせてくれ」


「礼なら、ギルドに報告してくれ。低層一階に異常な罠があるって」


「分かった。絶対言う」


「左壁沿いに戻れ。十五歩目の割れた床は踏むな。水が染みて滑る」


「そこまで分かんのかよ……」


「見えただけだ。それ以上は知らない」


 二人が通路の向こうへ戻っていく。

 足音が遠ざかるまで待ってから、俺は壁に向き直った。


「……さて」


 置いていくべきだ。


 普通に考えればそうだ。

 新人を助けた。

 罠も止めた。

 ギルドに報告すればいい。


 でも、さっきの声が耳から消えない。


 ——そこ、痛いよ。


 俺は壁に手を当てた。


 さっきより冷たい。


 目の前に、また文字が浮かぶ。


【迷宮損傷を確認】

【損傷箇所:低層一階・未登録接続部】

【原因:人為的破壊】


「人為的……」


 つまり、誰かがやった。


 自然に壁が壊れたわけじゃない。

 魔物が掘ったわけでもない。


 人間が、迷宮を壊した。


 俺は奥歯を噛んだ。


 嘘をつくのは、いつも人間の方だ。

 さっき自分で言った言葉が、妙に重く戻ってくる。


 壁の奥から、また声がした。


 今度は少しだけ、近い。


 ——間違って、つながってる。

 ——ここじゃないのに。

 ——こっちに、来ちゃだめなのに。


「何が来るんだ」


 返事はない。


 ただ、壁の向こうで、重い何かが爪を立てる音がした。


 がり。


 がり。


 石を削る音。


 爪痕の高さが、頭の中に浮かぶ。

 湿地の苔。

 低層基準外の魔物。

 壊れた罠。

 新人が通る道。


 俺は短剣を握り直した。


 刃先はさっきの罠で少し曲がっている。

 戦うには心細い。


 でも、ここで引けば、次に来る新人が死ぬ。


 いや待て。

 俺は何を考えている。


 一人で大型魔物を相手にする気か?

 馬鹿か。

 さっきまで追放されて、宿代にも困っていた荷物持ちだぞ。


 そうだ。

 戻れ。

 ギルドに知らせろ。

 それが正しい。


 だけど。


 ギルドが、信じるか?


 追放されたばかりの外れ荷物持ちが、低層一階で中層級の異常を見つけたと言って。

 信じるか?


 いや、信じない。


 少なくとも、すぐには動かない。


 その間に誰かがここへ来る。


 俺は壁の傷を見た。


 分かってしまう。


 これは、もうすぐ開く。


 知らないふりは、できない。


 その時、視界の端に新しい表示が浮かんだ。


【応急処置案を提示】

【罠残骸を利用し、未登録接続部を一時封鎖可能】

【必要物:ロープ/短剣/油瓶/石片】


「……荷物持ち向けすぎるだろ」


 俺は思わず笑った。


 笑いながら、背負い袋を下ろす。


 切れかけのロープ。

 捨てなくてよかった。

 本当に、嫌になるくらい、こういうものは役に立つ。


 油瓶を取り出し、罠の残骸の金具に塗る。

 短剣を楔にして、圧力板を斜めに固定する。

 ロープを壁の出っ張りに巻き、石片で締める。


 戦うんじゃない。


 閉じる。

 通さない。

 時間を稼ぐ。


 荷物持ちの仕事だ。


 壁の奥で、何かがぶつかった。


 どん、と腹に響く音。


 石粉が落ちる。


「急げ、俺」


 手が震える。

 でも結び目は間違えない。


 巻き結び。

 半結び。

 最後に、引けば締まる形。


 ガルム種の牙で引き裂かれた時も、この結び方だけは残った。

 ヴァイスは見ていなかった。

 エルナは気づかなかった。

 ロイは自分の罠解除だと思っていた。

 フィナは、たぶん少しだけ分かっていた。


 でも今は、どうでもいい。


 俺は最後の結びを引いた。


 瞬間、圧力板が噛み合い、壁の奥の隙間に罠の残骸が食い込んだ。


【一時封鎖:成功】

【持続予測:二時間前後】

【推奨:速やかにギルドへ報告】


 二時間。


 十分じゃない。

 でも、今はそれだけあればいい。


 壁の向こうの音が遠ざかる。


 がり、がり、という爪音が、ゆっくり沈んでいく。


 俺はその場に座り込んだ。


 息が荒い。

 肩が痛い。

 短剣はさらに曲がった。


 ひどい仕事だ。


 でも、二人は逃がした。

 通路も、しばらくは塞いだ。


 それでいい。


 たぶん。


 壁の奥から、また声がした。


 さっきよりも、少しだけ弱い声。


 ——ありがとう。


 俺は顔を上げた。


「お前は、誰なんだ」


 返事はなかった。


 代わりに、半透明の文字が浮かぶ。


【迷宮損傷を確認】

【原因:人為的破壊】

【損傷情報:記録照合中】


 続いて、別の表示。


【照合失敗】

【該当記録なし】

【迷宮損傷情報:未登録】


 未登録。


 ギルドの地図にもない。

 記録にもない。


 つまり、誰かが隠している可能性がある。


 嫌な汗が背中を伝った。


 俺は立ち上がり、曲がった短剣を鞘に戻した。

 戻りきらず、途中で引っかかる。


「ほんと、最悪だ」


 でも、足は出口へ向いていた。


 報告しなきゃならない。

 信じられるかどうかは分からない。


 それでも、言わないわけにはいかない。


 名前がついたから。


 もう、知らないふりはできない。


 迷宮の出口へ向かって歩き出した、その時。


 背後で、壁がもう一度だけ軋んだ。


 振り返る。


 発光苔の青白い光の中、壁の表面に細い線が走っていた。


 まるで、誰かが内側から爪でなぞったみたいな線。


 そこに、文字が浮かぶ。


【警告】

【低層一階の損傷は、単独事例ではありません】


 次の一文を見た瞬間、喉の奥が乾いた。


【同様の損傷反応:低層三階に存在】


 低層三階。


 新人が、明日も明後日も普通に入る階層。


 俺は、雨の匂いがまだ残る外套を握った。


 迷宮の奥から、かすかな声がした。


 ——あっちは、もっと痛い。

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