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第1話 外れ荷物持ち、追放される

 雨の日のギルド裏口は、いつも獣くさい。


 濡れた革袋。

 泥を吸った外套。

 乾ききらない血の匂い。

 それから、誰かが吐いた安酒のすっぱい臭い。


 俺は石畳の上に膝をつき、背負っていた大袋を下ろした。


 肩の骨が、ぎし、と鳴る。


 中身はロープ三束、水袋六つ、予備の短剣、保存食、魔石袋、解毒薬、包帯、油瓶、折りたたみ式の小鍋。

 あと、エルナが「焦げたから捨てて」と言った手袋。まだ使えるのに。


 表口の方から、歓声が聞こえた。


「《白銀の剣》だ!」

「六階層から帰ってきたぞ!」

「やっぱりヴァイスたちはすげえな!」


 表口には拍手。

 裏口には泥水。


 まあ、いつものことだ。


 俺は荷物袋の口を開き、中身をひとつずつ確認した。


 空の回復薬瓶が三本。

 包帯の残りが少ない。

 ロープの一本は、繊維が半分ほど切れている。これは次に使ったら危ない。


 あと、水袋。


「……減りすぎだな」


 六階層の湿地を通るなら、最低でも八つは必要だった。

 今日の消費量なら、次は十。いや、エルナが火魔法を撃ちすぎるなら十一。


 頭の中で勝手に数が並ぶ。


 水。

 包帯。

 解毒薬。

 帰り道。

 魔物の巡回。


 そういうものは、考えないと死ぬ。


 考えないやつから、だいたい死ぬ。


「おい、レント」


 背後から声がした。


 振り返ると、ヴァイス・グランハルトが立っていた。


 金髪を後ろに流し、白銀の剣を腰に下げている。雨に濡れても妙に絵になる男だ。

 ただ、その笑顔は薄い。


 高そうな皿に盛られた、冷めた肉みたいな笑顔。


「レント。お前、今日で終わりな」


 指先に絡んでいたロープのささくれが、爪の間に刺さった。


「……終わり?」


「ああ。お前はもう、うちのパーティにはいらない」


 ヴァイスは、当然のことを言うみたいに肩をすくめた。


 表口ではまだ誰かが騒いでいる。

 こっちの裏口には、雨音だけが増えていく。


「理由を聞いてもいいか」


「理由?」


 ヴァイスは軽く笑った。


「分からないのか?」


 その後ろから、赤い髪をゆるく巻いたエルナが歩いてきた。

 ローブの裾が少し焦げている。本人は気づいていない。いや、気づいていても、俺に言えば直ると思っているのだろう。


「足手まといは嫌いなの」


 エルナは、爪の先を見ながら言った。


「あなた、戦闘で何かした? 魔物を倒した? 私たちを守った? してないわよね。荷物を持って、後ろを歩いていただけ」


「荷物持ちは必要だろ」


「必要よ。でも、あなたじゃなくてもいい」


 横からロイが笑った。

 細い目。

 いつも通り、どっちにも転べる顔。


「まあまあ、そんな言い方すんなって。レントも頑張ってたしさ。ただ、ほら。俺たち、もうすぐAランクだろ? 人件費も見直さないと」


「荷物持ちなら、もっと安く雇える」


 ヴァイスが言った。


「お前のスキル、《荷物整理》だったよな。収納袋の中身を整えるだけの外れスキル。正直、いままで置いてやってたのは温情だ」


 外れスキル。


 聞き慣れた言葉だった。


 十五歳で教会から授かるスキル。

 剣術、火魔法、治癒術、身体強化。そういう分かりやすい力なら、冒険者としての道は開ける。


 俺のは《荷物整理》。


 袋の中身を崩れにくくする。

 必要なものを取り出しやすくする。

 それだけ。


 戦闘では役に立たない。

 そう言われてきた。


 実際、剣も魔法も俺は大したことがない。


 それは事実だ。


「でも、六階層の湿地は――」


「またそれか」


 ヴァイスの声が冷えた。


「お前はいつも、地味な話ばかりだな。水がどうとか、罠がどうとか、帰り道がどうとか」


「大事なことだ」


「俺たちは勝つために潜ってる。お前みたいに、逃げ道ばかり見てるわけじゃない」


 言葉が喉のあたりで止まった。


 言い返せることはあった。


 湿地の苔這いは、火を撃ちすぎると毒煙を出す。

 エルナの火魔法は派手だが、あの通路では撃つ角度を間違えたら退路を焼く。


 ロイは罠解除が得意だと言っているが、湿地の罠は金属音がしない。水面の泡と、苔の浮き方を見る必要がある。


 フィナの治癒術は傷には効く。けれど毒の蓄積には弱い。だから解毒薬は多めに必要だ。


 ヴァイスの剣は、さっきの戦闘で刃こぼれしていた。次にガルム種と打ち合ったら、刃が欠ける。


 地図の印も間違っていた。

 六階層の北側通路。あそこは右に印をつけるべきじゃない。水の流れが逆だった。つまり、たぶん壁の裏に空洞がある。


 言える。

 いくらでも言える。


 でも、言ったところで、こいつらは聞かない。


 俺の仕事は、いつも終わったあとに消える。

 罠を避ければ、罠はなかったことになる。

 水を足しておけば、喉が渇かなかったことになる。

 帰り道を選べば、迷わなかったことになる。


 死ななかった理由は、誰にも見えない。


「黙ったってことは、納得したんだな」


 ヴァイスは、腰の袋から小さな革袋を投げてよこした。


 俺の足元に落ちる。


 ちゃり、と軽い音がした。


「最後の給料だ。感謝しろよ」


 拾い上げる。


 軽い。


 中身を見なくても分かる。

 革袋の沈み方が、いつもの三分の一もない。


 金貨はない。

 銀貨も少ない。

 銅貨の軽い音ばかりが、雨音に混じっていた。


「……これだけか」


「荷物持ちにしては十分だろ」


 エルナが鼻で笑った。


「かわいそう。でも仕方ないわよね」


 フィナが、少し離れたところに立っていた。


 淡い栗色の髪が雨で頬に張りついている。

 何かを言いたそうに唇を開いて、でも、結局閉じた。


「フィナ」


 俺が名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。


「……ごめんなさい」


「……いや、いい」


 フィナは、たぶん本当に悪いと思っている。

 でも、それ以上のことはしない。


 いつもそうだ。


 傷は見る。

 でも、手は伸ばさない。


「私は、みんなが決めたことに従うだけだから」


 ああ。


 そうか。


 指の感覚が少しずつ遠くなる。

 握っている革袋の紐が、濡れて、ぬるくて、うまく結べない。


 怒鳴りたいわけじゃない。

 殴りたいわけでもない。


 ただ、足元の泥水に、自分の顔が歪んで映っていた。

 それが、やけに他人みたいだった。


「じゃあな、レント」


 ヴァイスはもう興味をなくした顔で背を向けた。


「俺たちは上に行く。お前もまあ、身の丈に合った仕事を探せ」


 《白銀の剣》は表口へ戻っていった。


 拍手の中へ。

 光のある方へ。

 俺は裏口に残った。


 泥まみれの荷物と、使い古したロープと、少なすぎる報酬袋を持って。


 しばらく、その場にいた。


 雨が革袋を叩く。

 裏口の屋根から落ちた水が、首筋に入ってくる。

 冷たい。


 俺は荷物袋の中から、私物だけを抜き取った。


 短剣一本。

 古い外套。

 火打ち石。

 干し肉が二切れ。

 小さな水袋。

 あと、ぼろぼろの地図。


 それだけ。


 ロープは置いていこうと思った。


 でも、やめた。


 切れかけとはいえ、結び直せば一回くらいは使える。

 捨てるにはまだ早い。


 そう考えてしまう自分が、少し嫌になった。


 ギルドの裏口を出ると、雨はさらに強くなっていた。


 表通りの方では、《白銀の剣》が酒場へ向かっているのが見えた。

 誰かがヴァイスに声をかけ、エルナが笑い、ロイが大げさに両手を広げている。


 フィナだけが、一度こちらを見た。


 目が合う前に、俺は歩き出した。


 濡れた石畳を踏む。

 報酬袋が腰で軽く揺れる。


 宿代には足りる。

 たぶん一泊だけなら。


 明日の飯代は、怪しい。


「……笑えるな」


 笑えなかった。


 俺は街の端へ向かった。

 そこにはルバルカ大迷宮の入口がある。


 こんな日に潜るやつは少ない。

 低層なら、一人でも魔石を拾える。

 石牙狼の小さな魔石でも、三つ売ればパンとスープくらいにはなる。


 危ないのは分かっている。

 一人で迷宮に入るのは、馬鹿のやることだ。


 でも、腹は空く。

 宿には金がいる。

 明日は勝手に来る。


 迷宮の入口には、古い石門が立っていた。


 雨で黒く濡れた門。

 その奥に、地下へ続く階段が口を開けている。


 冷たい風が、下から上がってきた。


 石と土と、湿った苔の匂い。


 俺は、その匂いを吸った。


 少しだけ、落ち着いた。


「ダンジョンは嘘をつかない」


 口から、勝手にこぼれた。


 壁の傷は傷だ。

 足跡は足跡だ。

 水の流れは、流れた方向を隠さない。

 罠はそこにあるから、そこにある。


 嘘をつくのは、いつも人間の方だ。


 俺は階段を下りた。


 低層一階。


 新人向けの石窟エリア。

 壁には発光苔がまばらに生えていて、青白い光を落としている。


 足音が、湿った通路に吸われる。


 いつもなら、ここで左の通路を選ぶ。

 魔物の数が少ない。

 ただし採れる魔石も少ない。


 右は石牙狼が出やすい。

 一人なら避ける。


 正面は行き止まりだ。

 地図ではそうなっている。


 俺は、正面を見た。


「……ん?」


 壁に傷があった。


 別に、傷くらい珍しくない。

 冒険者の剣跡。

 魔物の爪痕。

 荷車のこすれ。


 迷宮の壁は、いろんなもので傷つく。


 ただ、その傷はおかしかった。


 爪痕が深い。

 石牙狼のものじゃない。


 しかも傷の向きが変だ。

 行き止まりへ向かっているんじゃない。

 行き止まりから、こちらへ出てきている。


 俺は近づいた。


 壁に指を当てる。


 湿っている。


 でも雨水じゃない。

 迷宮の内側から染み出した水だ。


 発光苔の一部が潰れている。

 それも、今日じゃない。二日、いや三日前くらい。

 苔の戻り方が遅い。魔力の流れが乱れている証拠だ。


 いや、待て。


 なんで分かる。


 俺は息を止めた。


 分かる。

 妙にはっきり分かる。


 傷の古さ。

 壁の奥の空洞。

 通った魔物の大きさ。

 罠が一度壊れて、再生に失敗した気配。


 頭の中で、散らばっていた小石が勝手に並ぶみたいに、情報が形になっていく。


「……気持ち悪いな」


 自分の声が、通路に落ちた。


 その瞬間だった。


 目の前に、半透明の文字が浮かんだ。


【スキル《荷物整理》の隠し条件を満たしました】


 俺は瞬きをした。


 消えない。


【一定以上の迷宮情報を認識】

【一定以上の危険回避実績を確認】

【真名開放条件を達成】


「……は?」


 喉が変な音を出した。


 半透明の文字が、さらに重なる。


【スキル《荷物整理》の真名を開放します】

【真名:《迷宮整序》】


 膝の奥が、少しだけ冷えた。


 《迷宮整序》。


 聞いたことがない。

 荷物整理じゃないのか。

 収納袋の中身を整えるだけの、外れスキルじゃなかったのか。


 文字はまだ続く。


【周辺情報を整理】

【壁面損傷:三日前】

【魔物痕跡:低層基準外】

【罠再生:失敗】

【推定危険度:上昇】


 俺は壁から手を離した。


 指先に、冷たい水がついている。


 いや、水じゃない。

 汗みたいだ。


 壁が、汗をかいている。


「なんだよ、これ」


 通路の奥が暗い。


 行き止まりのはずの壁。

 その向こうで、何かがかすかに動いた気がした。


 風が吹いた。


 地下なのに。


 そして、声がした。


 子どものような。

 遠くで眠っていた誰かが、やっと目を覚ましたような。


 俺は振り返った。


 誰もいない。


 右の通路にも、左の通路にも、足音はない。

 呼吸の気配もない。


 なのに、声だけが、壁の奥から染み出してくる。


 ——やっと、聞こえた。


「……誰だ」


 返事はない。


 代わりに、行き止まりのはずの壁が、ほんの少しだけ軋んだ。


 俺は短剣の柄に手をかけた。


 指が濡れている。

 雨のせいじゃない。


 迷宮の奥から、もう一度、声がした。


 ——そこ、痛いよ。

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