第4話 失敗作の魔法使い
低層三階へ向かう階段は、いつもより冷えていた。
雨で濡れた外套が背中に張りつく。
曲がった短剣が、鞘の中でかたかた鳴る。
ギルドの扉を出る時、ダレンが何か言っていた気がするが、ほとんど耳に入らなかった。
俺の視界には、半透明の文字が浮かんでいる。
【同様の損傷反応:低層三階】
【危険度:上昇】
【警告:救助可能時間、残りわずか】
そして、耳の奥に残る声。
——おいていかないで。
誰の声かは分からない。
迷宮そのものなのか。
中にいる誰かなのか。
それとも、俺の頭がおかしくなったのか。
分からない。
でも、見えてしまった。
なら、行くしかない。
低層三階は、本来なら新人でも入れる階層だ。
石窟の通路が広くなり、小さな広間が増える。
魔物は石牙狼と小鬼が中心。
罠もせいぜい落とし穴や簡単な矢罠。
……のはずだった。
「違うな」
三階へ降りてすぐ、俺は立ち止まった。
匂いが違う。
湿った石の匂いに、焦げた鉄みたいな臭いが混じっている。
それから、古い薬草。
治療院の奥にある、煮詰めすぎた薬湯の匂い。
床を見る。
泥の跡がある。
新人用の安い靴底。
少なくとも四人分。
ただ、足跡の向きがおかしい。
奥へ進んだ跡はある。
戻ってきた跡がない。
「……やっぱりか」
俺は通路の壁に手を当てた。
低層一階の時ほどではないが、壁が冷たい。
迷宮の内側から、細く水がにじんでいる。
その水が、ひとすじ、床へ流れていた。
普通なら低い方へ流れる。
なのに、その水はゆっくり奥へ向かっている。
水が坂を上るわけがない。
つまり、魔力の流れが逆だ。
【迷宮損傷反応:確認】
【周辺情報を整理中】
【魔力流:逆流】
【封鎖記録:一部欠損】
また表示が出た。
「一部欠損……」
全部じゃない。
一部だけ消えている。
誰かが記録を削ったのか。
それとも、迷宮そのものが覚えていないのか。
考えながら進もうとした、その時だった。
「そこ、踏まないで」
声がした。
今度は、迷宮の声じゃない。
少し高めで、硬い声。
命令というより、警告に近い。
俺は足を止めた。
つま先のすぐ前に、黒い線が走っている。
床石の継ぎ目に見えるが、違う。
魔力で焼きつけた細い線だ。
一歩踏み出していたら、踏んでいた。
通路の奥、発光苔の青い光の中に、銀色の髪の少女が立っていた。
短く切られた銀髪。
整った顔立ち。
ただ、前髪だけが妙に斜めで、そこだけ自分で失敗したみたいに不器用だ。
年は俺より少し下か、同じくらい。
濃紺のローブを着ている。布地はいい。貴族かもしれない。
その手には杖。
杖先には、細い光の線が集まっていた。
「誰だ」
「それはこちらの台詞。ここは私が調査中」
少女は俺をじっと見た。
警戒している。
ただ、怯えてはいない。
杖を向ける角度がまっすぐだ。
でも重心は後ろ。撃つより、距離を取るための構え。
戦い慣れていない。
けれど、魔法は使える。
「冒険者か?」
「ミリア・ルナフォール。魔法使い。あなたは?」
「レント。元荷物持ち」
「元?」
「昨日、追放された」
言ってから、なんで正直に答えたんだと思った。
ミリアは一瞬だけ眉を動かした。
「そう」
それ以上は聞いてこなかった。
少し意外だった。
普通なら、笑うか、気まずそうにするか、どちらかだ。
でもミリアは、俺の肩書きよりも床の線の方に視線を戻した。
「そこを踏むと、魔法陣が反応する」
「魔法陣?」
「この先の広間にある。古い陣。誰かが上書きしている」
「上書き?」
ミリアは小さく頷いた。
「本来の式の上に、別の式が重ねられている。雑。かなり雑。線の太さが合っていないし、魔力の流れを無理やり曲げている」
少し早口になった。
目も、さっきより明るい。
ああ。
この手の話になると止まらないタイプだ。
俺にも身に覚えがある。
「その線、罠か?」
「罠というより、境界線。踏むと奥の陣に魔力が流れる。たぶん警報か、起動補助」
「なら、俺が踏まなくても誰かが踏んでる」
「え?」
俺は床を見る。
黒い線の上に、靴底の跡が二つ。
片方は浅い。
もう片方は深い。
「新人が踏んだ跡がある。少なくとも二人。深い方は、荷物を背負っていたか、怪我人を支えていた」
ミリアが目を細めた。
「そんなことまで分かるの?」
「見れば」
「……説明して」
「今は後でいいか?」
通路の奥から、何かがこすれる音がした。
ひどく小さい。
でも、普通の魔物の足音じゃない。
引きずっている。
布か、革か。
あるいは、人間の靴底。
ミリアも気づいたらしい。
杖を握る手に力が入る。
「この先に、広間がある。魔法陣はそこ」
「負傷者は?」
「私が来た時には、もう起動していた」
「一人で来たのか」
「悪い?」
「悪いとは言ってない」
ただ、無茶だとは思った。
でも俺も一人で来ている。
人のことは言えない。いや本当に。
俺は黒い線をまたいだ。
踏まないように。
ミリアが少し驚いた顔をした。
「分かるの?」
「線が見えてる」
「普通は、魔力視がないと見えない濃さに落としてある」
「じゃあ普通じゃないんだろ」
「自分で言う?」
「言ってから後悔してる」
ミリアはほんの少しだけ、口元を動かした。
笑った、のかもしれない。
広間に出た瞬間、空気が変わった。
床一面に、古い魔法陣が刻まれている。
大きい。
直径は十歩以上。
円の内側に、いくつもの記号と線が走っている。
ただ、ところどころ線が黒く焼けていた。
その上に、新しい線がある。
古い線は、石に深く刻まれている。
新しい線は、表面だけを焼いて無理やりなぞった感じだ。
ミリアが小さく息を呑む。
「……やっぱり、ひどい」
俺は魔法陣そのものより、周囲の床を見た。
砂の流れ。
靴跡。
削れた石。
壁の水。
おかしい。
魔法陣の中心へ向かった跡がある。
でも、外へ戻る跡が途中で消えている。
消えたんじゃない。
床が動いている。
「ミリア。陣の中心には近づくな」
「分かってる。あそこは魔力が沈んでる。触れたら引っ張られる」
「いや、床もだ」
「床?」
「中心の石だけ、砂が逆に流れてる。たぶん下が空洞だ」
ミリアは床を見た。
「……本当だ。陣の式だけじゃ分からなかった」
「式だけ見てると足元を見落とす」
「あなたは足元しか見てない」
「生きて帰るには大事だ」
「否定はしない」
会話している場合じゃない。
そう思った時、魔法陣の奥からうめき声が聞こえた。
「……たす、け」
俺とミリアは同時にそちらを見た。
広間の壁際に、革鎧の少年が倒れている。
年は十五、六。新人だ。
足が黒い線に絡まれている。
魔法陣から伸びた魔力の糸みたいなものが、足首を縛っていた。
「生きてる」
俺が動こうとすると、ミリアが腕を伸ばした。
「待って。あの糸に触れると陣が起動する」
「じゃあどうする」
「切る」
「切れるのか?」
「普通の攻撃魔法では無理。式のつなぎ目を断てば、たぶん」
「たぶんか」
「それしかない」
ミリアは杖を構える。
杖先に光が集まる。
だが、細い。
火力は弱い。
本人も分かっているのだろう。唇を強く結んでいた。
その瞬間、魔法陣が震えた。
黒い線が光り始める。
【魔法陣:暴走準備】
【起動条件:外部魔力干渉】
【推定被害:広間全域】
「ミリア、撃つな!」
「でも、切らないと!」
「壊すな。左下の線を見ろ!」
「左下?」
「新しい線だけ色が違う。そこだけ後から焼いてる。古い線と噛み合ってない」
ミリアの目が、魔法陣へ走る。
「……本当だ。主式じゃない。補助線。いや、違う。封じ込めの線を、起動式に変えてる?」
「俺にはそこまでは分からん」
「分からないのに、なんで場所は分かるの」
「砂の流れがそこだけ止まってる。あと、壁の水が避けてる」
「何それ」
「俺も何それって思ってる」
魔法陣の光が強くなる。
倒れている少年が苦しそうにうめいた。
ミリアは一瞬だけ目を閉じた。
次に開いた時、迷いが消えていた。
「線を切る。あなた、あの子を引く準備をして」
「分かった」
「私が失敗したら?」
「失敗しない線を切れ」
「無茶を言う」
ミリアは杖を下げた。
撃つのではない。
杖先の光を、細い針のように伸ばす。
火力は弱い。
でも、線が細い。
細すぎるくらい細い。
それが黒い補助線に触れた。
じゅ、と焦げる音。
魔法陣全体が一瞬、強く光った。
俺は走った。
少年の腕を掴む。
魔力の糸が足首から離れる。
「引くぞ!」
少年を抱え、後ろへ転がる。
直後、床の中心が沈んだ。
がこん、と石が落ちる音。
広間の中央に、真っ黒な穴が開いた。
そこから冷たい風が吹き上がる。
穴の底は見えない。
「……今の、落ちてたら?」
ミリアが聞いた。
「戻ってこなかっただろうな」
「簡単に言わないで」
「難しく言っても落ちる時は落ちる」
「あなた、性格悪いって言われない?」
「昨日追放された」
「……ごめん」
「いや、そこは謝らなくていい」
ミリアは一瞬だけ気まずそうにしたが、すぐに倒れている少年の方へ向かった。
「意識はある?」
「薄い。足首は?」
「魔力焼け。深くはない。でも早く治療した方がいい」
俺は少年の装備を見る。
腰に新人用の冒険者タグ。
名前はトマではない。
別の新人だ。
低層三階で戻っていないパーティとは別口かもしれない。
つまり、被害者は一組だけじゃない。
胃の奥が重くなった。
ミリアは魔法陣の端にしゃがみ込んでいた。
「これ、変」
「何が」
「本来は、危険を広げないための陣だった。迷宮の魔力を整えて、傷を閉じるためのもの。たぶん古い時代の処置式」
「傷を閉じる?」
「ええ。でも誰かが書き換えた。閉じるためじゃなく、奥に押し込めるために」
「蓋をしたのか」
「そう。雑な蓋。だから内側の魔力が歪んでる」
低層一階の壁。
間違ってつながっていた穴。
ここじゃないのに、来ちゃだめなのに。
声の意味が、少しだけ分かった気がした。
誰かが迷宮の傷に蓋をした。
蓋をしただけで、治していない。
だから別の場所が裂けた。
俺は広間の端を見た。
崩れた石片の下に、何かが挟まっている。
赤黒い封蝋。
俺はそれを拾い上げた。
ミリアが見た瞬間、表情を変える。
「それ……」
「知ってるのか」
「ギルドの封蝋。でも、低層三階で使うものじゃない」
「どこで使う」
「封鎖区画。一般冒険者を入れない場所」
俺の視界に文字が浮かぶ。
【封鎖記録:一部欠損】
【対象階層:低層三階】
【詳細情報:閲覧不能】
閲覧不能。
俺は封蝋を握った。
硬い。
古い。
でも、誰かが最近触った跡がある。
ミリアが低く言う。
「これ、ギルドが関わってるかもしれない」
俺はすぐには答えなかった。
封蝋を見る。
石粉のつき方。
欠けた端。
それから、ほんの少しだけ新しい指の跡。
古い。
でも、放置されていたものじゃない。
「……いや、たぶん間違いない」
「どうして?」
「こっちには、もう少し嫌なものが見えてる」
ミリアが俺を見る。
「あなた、本当に何者?」
俺は封蝋を見下ろした。
追放された荷物持ち。
外れスキル持ち。
昨日までは、それで説明できた。
でも今は、どう言えばいいのか分からない。
「元荷物持ち」
「それ、説明になってない」
「俺もそう思う」
広間の奥、沈んだ床の穴から、冷たい風が吹いた。
その風に混じって、かすかな声が聞こえる。
——まだ、奥にいる。
俺は顔を上げた。
ミリアも、魔法陣の奥を見ていた。
「今、何か聞こえた?」
「聞こえたのか?」
「声じゃない。魔力の震え。でも……助けを呼んでるみたいな」
初めて、俺とミリアの視線が同じ場所へ向いた。
穴の奥。
封鎖されたはずの区画。
記録から欠けた場所。
俺の視界に、また文字が浮かぶ。
【封鎖記録:一部欠損】
【生存反応:不明】
【低層三階・未登録区画への接続を確認】
ミリアが息を呑む。
「この下に、何があるの」
俺は曲がった短剣の柄に手を置いた。
答えはない。
ただ、迷宮の奥から、細い声がした。
——まだ、閉じないで。




