「切れない手」
「切れない手」
灯は湊を見ていた。
助けてほしいのか、
決めてほしいのか、
自分でも分からない目だった。
スマホの向こうでは、
まだ声が続いている。
『聞いてるの!?』
『ちゃんと――』
その声が、
今は少し遠く感じる。
でも確かに、
灯の中を削っていく音だった。
湊は一度だけ、
短く息を吸った。
そして言う。
「灯さん」
灯の肩が小さく動く。
湊は続ける。
「選んでいいです」
「続けるか、終わらせるか」
灯の目が揺れる。
「どっちでもいいです」
「でも、“誰かに決められる”のは違うと思います」
その言葉に、
灯の表情が少しだけ変わる。
今までずっと、
誰かの声に従うか、
逃げるかしかなかった。
自分で“選ぶ”という発想が、
そこにはなかった。
湊はスマホを見ない。
ただ、灯だけを見る。
「今のあなたが壊れない方を選んでください」
その一言が、
静かに落ちた。
通話の声はまだ続いている。
でも、
灯の中では別の音が生まれていた。
自分の心臓の音。
呼吸の音。
そして――
震える指先。
灯はスマホを握り直す。
「……私」
声がかすれる。
一度止まる。
湊は何も言わない。
待っている。
押さない。
支えもしない。
ただ、
そこにいる。
灯はゆっくりと息を吐いて。
そして、
「……今は、切ります」
そう言った。
その瞬間。
通話の向こうの声が一段強くなる。
『ちょっと待ちなさい!』
でも。
灯の指は、
もう動いていた。
タップ。
通話終了。
静寂。
一気に部屋が“無音”になる。
その無音が、
逆に耳に痛いほどだった。
灯はスマホを握ったまま、
その場に立ち尽くす。
肩が震えている。
切った。
切ってしまった。
その事実が、
ゆっくりと押し寄せてくる。
「……私」
声が出ない。
後悔なのか、
解放なのか、
分からない感情。
視界が揺れる。
その時。
湊は何も言わずに、
一歩だけ近づいた。
そして、
「大丈夫です」
ただ、それだけ言った。
灯は顔を上げる。
涙が落ちる寸前だった。
「……大丈夫、なんですか」
湊は少しだけ笑う。
優しい、いつもの笑い方で。
「今すぐは分からないです」
「でも、今はちゃんと“自分で選べました”」
灯の呼吸が乱れる。
そのまま、
ゆっくりとしゃがみ込む。
スマホが手から落ちそうになる。
湊はそれを拾って、
そっと机の上に置いた。
そしてもう一度言う。
「ここにいていいです」
灯は小さく震えながら、
顔を上げる。
その目はもう、
逃げていなかった。
ただ、揺れていた。
夜はまだ終わらない。
けれどその部屋には、
初めて“自分の意思で残った静けさ”があった。
そして――
湊はふと思う。
(この静けさは、これから崩れるのか、それとも守れるのか)
その答えは、
まだ誰も知らなかった。




