「戻れない声」
「戻れない声」
通話は続いていた。
『なんで勝手に出て行ったの!』
『どれだけ心配したと思ってるの!』
怒りと心配が混ざった声が、
スマホ越しに流れ続ける。
灯はスマホを握る手に力を入れたまま、
小さく息を吸った。
逃げたい。
でも、切らない。
それだけは決めていた。
「……ごめんなさい」
もう一度だけ、そう言う。
それ以外の言葉が出てこない。
向こうの声はさらに強くなる。
『謝ればいいってもんじゃないでしょ!』
『ちゃんと説明しなさい!』
説明。
その言葉に、
灯の胸がきゅっと縮む。
何を説明すればいいのか分からない。
“ここにいる理由”を説明しようとすると、
全部が崩れてしまいそうだった。
その時。
湊が一歩だけ近づいた。
でも、スマホには触れない。
ただ、低い声で言う。
「灯さん」
灯が少しだけ顔を向ける。
湊は続ける。
「深呼吸だけしてください」
それだけだった。
アドバイスでもなく、
説得でもなく。
ただ、それだけ。
灯は小さく頷く。
吸って。
吐く。
もう一度。
少しだけ、
視界が落ち着く。
通話の向こうの声はまだ続いている。
でも。
少しだけ“遠く”に感じるようになった。
湊は静かに言う。
「全部説明しなくていいです」
灯の目が揺れる。
「……でも」
「今は、“ここにいる”って言えれば十分です」
灯は唇を噛む。
そして、もう一度スマホに向かって口を開いた。
「……今は」
声が震える。
それでも続ける。
「今は、少しだけ落ち着くために……一人になりたくて」
沈黙。
向こうの声が一瞬止まる。
そしてまた、
『勝手なこと言わないで!』
強い声。
灯の肩が震える。
その瞬間。
湊の胸の奥に、
小さな違和感が落ちた。
(“心配”だけじゃない)
その声には、
どこか“支配”のようなものが混じっていた。
灯はそれでもスマホを離さない。
目を閉じている。
逃げていない。
でも――
押し潰されそうになっている。
湊は一歩下がる。
そして、
あえて言った。
「灯さん」
灯が薄く目を開ける。
湊は静かに言う。
「その電話、今すぐ終わらせてもいいです」
灯の瞳が揺れる。
「……え」
湊は続ける。
「逃げじゃなくていいです」
「今のあなたが壊れそうなら、それで十分です」
通話の向こうの声はまだ続いている。
でもその音が、
急に“別の世界の音”のように感じられた。
灯の指が震える。
切る。
切らない。
その間で、
時間だけが止まる。
そして――
灯は、ゆっくりと湊を見た。
助けを求める目だった。
その瞬間。
湊の中でも、
何かが静かに動いた。




