「出る理由」
「出る理由」
『母』
その文字が、画面の中で静かに光っていた。
ブブッ。
もう一度、スマホが震える。
灯の指は止まったまま動かない。
昨日よりは落ち着いているはずなのに、
それでも呼吸が少し浅くなる。
湊は横でそれを見ていた。
急かさない。
でも、離れもしない。
その距離が、今の灯にはちょうどよかった。
「……出ますか?」
湊が静かに聞く。
灯は小さく首を振る。
「まだ……怖いです」
その声は正直だった。
昨日みたいな“逃げ”ではなく、
ちゃんと自分の状態を言葉にしている。
湊は少しだけ頷いた。
「じゃあ、出なくてもいいです」
灯の肩がわずかに緩む。
でも、湊はそこで終わらせなかった。
「その代わり」
灯が顔を上げる。
湊は続ける。
「出る理由だけ、一緒に考えませんか」
灯は目を瞬かせる。
「理由……ですか?」
「はい」
湊はスマホの画面を見ずに言った。
「“出なきゃいけないから出る”だと苦しいです」
「でも、“出てもいい理由”なら少し楽になる」
灯は黙る。
そんな考え方をしたことがなかった。
湊は少し視線を落としながら続ける。
「たとえば」
「ちゃんと話したいから、とか」
「今は少しだけ元気だよって伝えたい、とか」
灯の表情が少し揺れる。
湊は優しく言う。
「“怒られるから怖い”だけじゃなくていいんです」
沈黙。
スマホはまだ震えている。
でも、その音が少しだけ遠く感じるようになっていた。
やがて灯は、小さく息を吸う。
「……今出たら」
「何を言えばいいんでしょう」
湊は少しだけ考えてから答えた。
「正直でいいと思います」
「怖いなら怖いでいいし」
「今は話す準備ができてないでもいい」
灯は目を伏せる。
そして、ぽつりと言った。
「……それでも、怒られます」
湊はすぐに否定しなかった。
少し間を置いてから、
「それでもいいんじゃないですか」
と静かに言った。
灯が顔を上げる。
湊は続ける。
「怒られるのが怖いのに、ずっと黙ってる方がもっとしんどいと思います」
その言葉は、
正しさじゃなくて“経験”の声だった。
灯はスマホを見つめる。
震えはまだ止まらない。
でも――
少しだけ、指が動いた。
画面をなぞる。
通話ボタンの上で止まる。
湊は何も言わない。
ただ、そこにいる。
灯は小さく息を吐いて。
そして。
タップした。
「……もしもし」
声は少し震えていた。
通話の向こうから、
すぐに強い声が返ってくる。
『やっと出たの!?』
灯の肩がびくっと動く。
でも。
切らない。
逃げない。
湊はその横顔を見ていた。
灯は小さく目を閉じてから、
「……ごめんなさい」
とだけ言った。
その一言が、
やけに静かに響いた。
通話は続いている。
怒り声も聞こえている。
でもその中で。
灯はもう一度だけ、
息を吸った。
そして――
ちゃんと向き合おうとしていた。
湊はその横で、
ただ静かに立っていた。
少し離れた場所で、
それでも“帰ってこられる場所”として。




