「消えない音」
「消えない音」
夜は静かだった。
それなのに、
二〇四号室の空気だけは少し違っていた。
湊は自分の部屋に戻ったあと、
なかなか寝つけずにいた。
天井を見上げながら、
さっきの灯の顔を思い出す。
「ここにいてもいいですか」
あの言葉は、
軽く流せるものじゃなかった。
その時。
ブブッ。
スマホが鳴る。
画面を見る。
『灯』
湊は少しだけ迷ってから、
通話ボタンを押した。
「もしもし」
少しの沈黙のあと。
小さな声が返ってきた。
「……すみません」
灯だった。
「どうしました?」
「その……さっきの電話、まだ出てなくて」
湊は少しだけ息を吐いた。
「出なくていいって言いましたよね」
「はい……でも」
灯の声が揺れる。
「ずっと鳴ってて……怖くて」
湊はゆっくりと体を起こした。
「今もですか?」
「今は止まってます」
少し間。
湊は静かに言う。
「じゃあ、よかったですね」
灯は小さく笑った気配を見せる。
でも、
その笑いはすぐ消えた。
「……でも」
「また鳴ったらどうしようって思って」
湊は少し黙る。
そして、
ゆっくり言った。
「じゃあ、一つだけ決めましょうか」
「決める……?」
「鳴ったらすぐ出るんじゃなくていいです」
灯は息を止める。
湊は続ける。
「でも、逃げるのもやめなくていい」
「ただ、“明日考える”って決めるだけでいいです」
灯は黙っていた。
夜の静けさが、
通話越しに伝わる。
やがて小さく言った。
「……それなら、できるかもしれません」
湊は少しだけ笑う。
「十分です」
通話が終わると、
部屋はまた静かになった。
そのはずなのに。
湊の耳にはまだ、
さっきの声が残っていた。
――「ここにいてもいいですか」
翌朝。
湊がドアを開けると、
二〇四号室の前に灯が立っていた。
少し眠そうな顔。
でも昨日より、
ほんの少しだけ落ち着いて見える。
手には小さな紙袋。
「おはようございます」
湊は軽く目を丸くする。
「おはようございます」
灯は少しだけ笑って、
「昨日のお礼です」
と言って紙袋を差し出した。
中には、
コンビニではないパンと、
小さなコーヒーが二つ。
「ちゃんとした朝ごはん、食べてほしくて」
湊はそれを受け取りながら、
少しだけ笑った。
「これ、もう同居人みたいですね」
その言葉に。
灯は一瞬だけ固まって。
それから、
ほんの少しだけ視線をそらした。
「……そう、かもしれません」
その声は小さかった。
でも。
少しだけ、
嬉しそうだった。
その時。
また。
灯のスマホが震えた。
ブブッ。
二人の間に、
一瞬の沈黙。
画面にはまた――
『母』
灯の指が止まる。
湊も気づく。
でも、
どちらもすぐには動けなかった。
廊下の空気が、
昨日より少しだけ重くなる。
そして。
灯は、
ゆっくりと湊の方を見た。




