「いてもいい場所」
「いてもいい場所」
「もし私が……ここにいてもいいなら」
灯の声は、
廊下の静けさに溶けるくらい小さかった。
湊はすぐに返事をしなかった。
軽く答えるには、
その言葉は少し重かった。
でも。
放っておくには、
もっと重かった。
湊は少しだけ息を吐いてから、
静かに言った。
「ここは、誰かを追い出す場所じゃないですよ」
灯は目を瞬かせる。
湊は続ける。
「いてもいいかどうかじゃなくて」
「いたいなら、いていいと思います」
その言葉に。
灯の肩の力が、
少しだけ抜けた。
でも同時に、
まだ迷いも残っている顔だった。
「……でも」
「家族のことですか?」
灯は言葉を止める。
湊は少し視線を落とす。
「無理に戻れとは言いません」
「でも、ずっと逃げ続けるのもしんどいですよね」
優しい声だった。
押しつけない。
でも、
ちゃんと現実に触れている声。
灯はゆっくりと頷いた。
「……分かってます」
そのあと、小さく付け足す。
「でも、怖いです」
湊は少しだけ笑った。
「それは、普通です」
短い言葉。
それだけで、
灯の目が少しだけ揺れた。
沈黙。
廊下の電灯が、
かすかに音を立てている。
その中で。
灯がぽつりと聞く。
「湊さんは……どうしてそんなに優しいんですか?」
湊は一瞬止まった。
「え?」
「怒らないし……否定しないし」
「普通、もっと踏み込んでくるものじゃないですか?」
湊は少し考えてから、
ゆっくり答える。
「昔は、踏み込んでましたよ」
灯は顔を上げる。
湊は視線を遠くに向ける。
「でも……踏み込みすぎると、誰かが壊れることもあるって知ったので」
短い沈黙。
灯はその言葉を、
静かに受け取っていた。
その時だった。
湊の部屋の方から、
小さな音がした。
ピッ。
……ガスの自動点火音。
「……あ」
湊は思い出したように顔を上げる。
「コンロつけっぱなしでした」
「えっ」
灯の緊張が一瞬で抜ける。
「危ないですよそれ!」
「すみません、ほんとに」
湊は軽く頭をかいた。
その少し抜けた様子に、
灯は思わず笑ってしまう。
「もう……しっかりしてください」
「それはよく言われます」
そのやり取りで、
空気がふっと柔らかくなる。
灯は少しだけ息を吐いてから、
小さく言った。
「……私、少しだけ」
「ここにいてもいいですか」
湊は一瞬だけ驚いた顔をして。
それから、
いつもの優しい笑みで頷いた。
「もちろん」
その夜。
二〇四号室の灯りは、
初めて消えなかった。
そして――
その少し後。
廊下の奥で、
また一度だけ灯のスマホが震えていた。




