「鳴らない着信」
「鳴らない着信」
二〇四号室の前。
倒れたコンビニ袋と、
転がったペットボトル。
そして、
鳴り続けるスマホ。
『母』
その文字を見た瞬間、
灯の指が止まっていた。
「……出ないんですか?」
湊の声は、
責めるようなものではなかった。
ただ、
静かに確認するような声。
灯は小さく首を振る。
「……今は、ちょっと」
そう言いながらも、
スマホは何度も震える。
ブブッ、ブブッ。
まるで、
逃げ場を探すみたいに。
湊は少しだけ沈黙してから、
しゃがみ込んだ。
「立てますか?」
「……すみません」
灯はゆっくりと立ち上がる。
足元が少しふらつく。
湊は自然に、
彼女の荷物を持った。
「部屋、入ります?」
その一言に、
灯は少しだけ驚いた顔をした。
「……いいんですか?」
「そのままだと倒れそうなので」
冗談でもなく、
優しい声だった。
灯は少し迷ってから、
小さく頷いた。
二〇四号室。
まだ片付いていない部屋。
段ボールがいくつか積まれ、
カーテンも途中までしか付いていない。
その中で、
灯は小さく座り込んだ。
スマホはまだ震えている。
「……出なくていいんですか?」
湊が聞く。
灯は唇を噛んだまま、
しばらく黙っていた。
そして。
「……出たら、戻れなくなりそうで」
ぽつりと。
絞り出すような声だった。
湊は何も言わなかった。
代わりに、
倒れた椅子を起こして座る。
「戻れなくなるって、家に?」
灯は少しだけ笑った。
でもそれは、
とても小さかった。
「……私、ちゃんとした娘じゃないんです」
その言葉のあと。
部屋の空気が、
少しだけ重くなる。
灯は続ける。
「電話、出なきゃいけないのは分かってます」
「でも出ると……怒られるんです」
「何してるのって」
「なんで勝手に引っ越したのって」
湊はゆっくりと聞いていた。
途中で遮らなかった。
ただ、
そこにいるだけだった。
灯は俯いたまま、
小さく息を吐く。
「だから……逃げてるだけです」
沈黙。
スマホの振動は、
まだ止まらない。
ブブッ、ブブッ。
湊は少しだけ視線を落とし、
それから静かに言った。
「逃げるのって、そんなに悪いことですか?」
灯が顔を上げる。
湊は続ける。
「ちゃんと逃げないと、壊れることもありますよ」
その言葉に、
灯の目が揺れた。
「でも……」
「でも、怖いですよね」
湊は先に言った。
灯は言葉を失う。
湊は少しだけ笑う。
いつもの、
優しい笑い方だった。
「じゃあ、今は出なくていいです」
「……え?」
「代わりに」
湊は立ち上がる。
「落ち着いたら、一緒に考えましょう」
灯はぽかんとしたまま、
湊を見上げていた。
その時。
スマホの振動が、
ふっと止まる。
静寂。
部屋の中に、
初めて“音がない時間”が落ちる。
灯は小さく呟いた。
「……湊さんって」
「はい」
「ほんとに……帰ってきたくなる人ですね」
湊は少し困ったように笑う。
「それ、最近よく言われますね」
灯は少しだけ笑った。
今度は、
ちゃんとした笑顔だった。
その夜。
湊が自分の部屋に戻ろうとしたとき。
背中から、
小さな声がした。
「……湊さん」
振り返る。
灯はドアのところに立っていた。
スマホを握ったまま。
そして、
小さく言った。
「もし私が……ここにいてもいいなら」
その言葉の続きを、
湊はまだ知らない。




