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## 第38話 ### 「帰ってきたくなる理由」

## 第38話


### 「帰ってきたくなる理由」


昼過ぎ。


二人はほとんど寝ないまま、

静かな部屋でぼんやりしていた。


病院から戻ってきてから、

時間の流れだけが少し変だ。


灯はソファで膝を抱えている。


湊はキッチンでコーヒーを淹れていた。


その音を聞きながら、

灯はふと思う。


(帰ってきた、って言ったんだ)


自然に。


考える前に。


---


湊がマグカップを置く。


「かなり眠そうですね」


灯は少し笑う。


「湊さんもです」


お互い、

目の下に少しだけ疲れが残っている。


でも不思議と、

嫌な疲れじゃなかった。


---


しばらく沈黙。


そのあと、

灯がぽつりと言う。


「私、昨日まで」


「“帰る”って、義務みたいな言葉だと思ってました」


湊は静かに聞いている。


灯は続ける。


「帰らなきゃいけない場所」


「戻らなきゃいけない場所」


「そういう感じで」


少し間。


「でも今は、違う気がします」


---


湊はマグカップを持ったまま、

ゆっくり聞く。


「どう違いますか」


灯は少し考える。


言葉を探すみたいに。


そして小さく笑う。


「……帰りたい、って思えるかどうかです」


その言葉に、

湊の目が少しだけ揺れる。


---


その時。


スマホが鳴る。


今度は湊。


画面を見る。


数秒止まる。


灯が気づく。


「……あの人ですか」


湊は頷く。


喫茶店で会った女性。


少しだけ迷ったあと、

通話に出る。


「もしもし」


電話の向こうで、

何か短く話している。


湊の表情が変わる。


「……今?」


空気が少し張る。


灯も自然と姿勢を正す。


湊は短く返す。


「分かった」


通話が切れる。


沈黙。


灯が聞く。


「何かありました?」


湊は数秒だけ黙る。


そして言う。


「……倒れたそうです」


灯の呼吸が止まる。


「え……」


湊は小さく息を吐く。


「過労みたいです」


その瞬間。


昨日の病院の空気が、

また戻ってくる。


---


灯は静かに聞く。


「行きますか」


湊は答えない。


代わりに、

窓の外を見る。


その横顔は、

少しだけ苦しそうだった。


灯は初めて分かる。


これは“過去の恋人”とか、

そういう単純な話じゃない。


“置いてきた人”なんだ。


---


湊は低く言う。


「僕が行くことで」


「また中途半端になる気がします」


その声は、

本気で迷っていた。


灯はしばらく黙る。


そして。


ゆっくり言う。


「じゃあ」


湊が見る。


灯は続ける。


「中途半端じゃない行き方、すればいいんじゃないですか」


静かな声。


でも、

まっすぐだった。


---


湊は少しだけ目を見開く。


灯は続ける。


「逃げるか」


「全部背負うか」


「その二択しかないから苦しくなるんです」


少し間。


「ちゃんと線を引いたまま、大事にすることって」


「できないんですか」


部屋が静かになる。


湊は言葉を失う。


その考え方は、

今までの彼にはなかった。


---


灯は少し照れたように笑う。


「偉そうでしたね、今」


湊は数秒黙ってから、

小さく笑う。


「……かなり」


でもその笑顔は、

少し救われていた。


---


そして湊は、

静かに言う。


「行ってきます」


灯は頷く。


「はい」


少し間。


そして自然に言う。


「……待ってますね」


その一言で。


湊の目が、

ほんの少しだけ揺れた。


“帰ってくる場所”を、

今、

彼も与えられていた。


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