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## 第35話 ### 「戻る場所の意味」

## 第35話


### 「戻る場所の意味」


夜の風が、

急に冷たく感じた。


灯はスマホを握ったまま動けない。


『お母様が倒れました』


電話の向こうの声が、

まだ耳に残っている。


病院名。


搬送。


家族への連絡。


頭の中で言葉だけが回る。


---


湊は静かに聞く。


「病院は?」


灯は小さく答える。


「中央総合病院……」


湊はすぐスマホを取り出す。


時間を確認。


交通手段。


夜間受付。


動きが早い。


その“現実に戻す動き”で、

灯の呼吸が少しだけ戻る。


「行きましょう」


湊が言う。


灯は顔を上げる。


「……でも」


その“でも”には、

色んな感情が詰まっていた。


怖い。


会いたくない。


責められるかもしれない。


でも。


もし本当に倒れていたら。


---


湊は静かに言う。


「後悔するかどうかで決めるのは、危ないです」


灯は止まる。


湊は続ける。


「今は、“自分がどうしたいか”で決めましょう」


その言葉で、

灯の目が少しだけ揺れる。


昨日までなら、

“どうするべきか”で考えていた。


でも今は違う。


灯はゆっくり息を吸う。


そして言う。


「……行きたいです」


小さい声。


でも、

ちゃんと自分で選んだ声だった。


湊は頷く。


「分かりました」


---


三十分後。


二人はタクシーの中にいた。


街の光が窓を流れていく。


灯はずっと膝の上で手を握っている。


湊は何も急かさない。


ただ隣にいる。


その沈黙が、

今はありがたかった。


---


病院に着く。


白い光。


静かな廊下。


消毒液の匂い。


灯の足が少し止まる。


湊が言う。


「無理なら、戻れます」


灯は数秒黙る。


そして首を振る。


「……行きます」


---


受付で名前を伝える。


看護師が少し驚いた顔をする。


「娘さんですか?」


その言葉だけで、

灯の胸が強く痛む。


“娘”。


その立場から逃げたかったわけじゃない。


ただ、

苦しかっただけだ。


---


病室の前。


灯の呼吸が浅くなる。


ドアの向こうに、

過去が全部ある気がした。


湊は少し後ろに立っている。


前に出ない。


“これは灯が決める場所”だと分かっているから。


灯は小さく聞く。


「……一緒にいてくれますか」


湊は即答する。


「います」


その一言で、

灯は少しだけ泣きそうになる。


---


ゆっくり、

病室のドアを開ける。


そこにいたのは――


思っていたより、

ずっと小さく見える母だった。


酸素チューブ。


白いシーツ。


閉じた目。


昨日までの“圧”が、

全部抜け落ちたように見えた。


灯は立ち尽くす。


言葉が出ない。


その時。


母の目がゆっくり開く。


視線が動く。


そして。


灯を見つける。


数秒。


長い沈黙。


やがて母は、

かすれた声で言う。


「……来たの」


その一言で、

灯の中の感情が一気に揺れる。


怒り。


怖さ。


安心。


悲しさ。


全部混ざる。


---


灯はうまく笑えないまま言う。


「……来たよ」


母は少しだけ目を閉じる。


そして小さく呟く。


「帰ってきたのかと思った」


その言葉に、

病室の空気が止まる。


灯の目が揺れる。


でも――


今回は違った。


灯はゆっくり、

ちゃんと言う。


「違うよ」


静かな声。


でも、

逃げていない。


「私は、自分で来たの」


その瞬間。


湊は病室の後ろで、

静かに目を閉じる。


“戻る”と“来る”は違う。


灯はもう、

誰かに引き戻されて来たんじゃない。


自分でここへ来たんだ。


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