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## 第34話 ### 「帰ってきてしまう人」

## 第34話


### 「帰ってきてしまう人」


夜。


灯はベランダに出ていた。


春の終わりの風が、

少しだけ冷たい。


部屋の中では、

湊が洗い物をしている音がする。


その音を聞きながら、

灯はぼんやり思う。


(帰ってきてしまう場所って、なんだろう)


安心する場所?


逃げられる場所?


違う気がした。


もっと、

苦しくても戻ってしまう場所。


そういうものなのかもしれない。


---


ガラス戸が開く。


湊が出てくる。


缶コーヒーを二本持っていた。


一本を灯へ渡す。


「ありがとうございます」


湊は隣に立つ。


少し沈黙。


そして言う。


「……疲れましたか」


灯は少し笑う。


「湊さんこそ」


湊は否定しない。


代わりに小さく息を吐く。


「昔のことって」


少し間。


「思ったより、残りますね」


灯は静かに聞く。


湊は続ける。


「終わったと思ってたんですけど」


「実際は、置きっぱなしだっただけでした」


その言葉は、

妙にリアルだった。


---


灯は缶を両手で持ちながら言う。


「私、ちょっと安心しました」


湊が見る。


灯は少し迷ってから続ける。


「湊さんでも、ちゃんと苦しいんだなって」


沈黙。


普通なら失礼な言葉。


でも湊は少し笑った。


「なんですか、それ」


灯も少し笑う。


「だって、ずっと完璧みたいだったので」


湊はゆっくり首を振る。


「全然ですよ」


そして小さく言う。


「むしろ、失敗ばっかりです」


---


その時。


スマホが鳴る。


湊のではない。


灯のスマホ。


画面を見る。


知らない番号。


空気が止まる。


灯の指が止まる。


湊はすぐに言わない。


“出るな”も、

“出ろ”も。


選ばせる。


灯は深く息を吸う。


そして――出た。


「……はい」


数秒の沈黙。


そのあと。


灯の顔色が変わる。


「え……」


湊の表情が動く。


灯は立ち上がる。


「どういうことですか」


声が震える。


電話の向こうで何か言われている。


灯の目が揺れる。


そして――


スマホを握る手が強くなる。


「そんなの、聞いてません……!」


電話が切れる。


沈黙。


湊が近づく。


「何がありました」


灯はうまく息ができない。


数秒。


そして、

絞り出すように言う。


「……母が」


喉が震える。


「倒れたって」


空気が止まる。


風だけが動いている。


湊は一瞬だけ言葉を失う。


灯の目は完全に揺れていた。


さっきまで積み上げていたものが、

一気に崩れかける。


灯は小さく呟く。


「私のせい……?」


その声は、

今までで一番弱かった。


---


湊はすぐに否定しない。


軽い言葉では届かないと分かっていた。


だから、

ゆっくり言う。


「まず、確認しましょう」


灯は顔を上げる。


湊は続ける。


「本当に危険な状態なのか」


「誰が言ったのか」


「今、何が必要なのか」


静かな声。


でも、

崩れかけた灯を現実へ戻す声だった。


---


灯は唇を噛む。


涙が少しだけ滲む。


「……怖いです」


湊は頷く。


「はい」


灯は続ける。


「でも」


震えながら、

ちゃんと言う。


「逃げたくないです」


その言葉で、

湊の目が少しだけ変わる。


---


過去は、

終わったあとに戻ってくる。


しかも一番弱った瞬間を狙うように。


でも今。


灯はもう、

ただ逃げるだけの人ではなくなっていた。


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