第30話 「帰り道の沈黙」
第30話
「帰り道の沈黙」
喫茶店を出たあと。
二人はしばらく何も話さなかった。
夜の街は静かだった。
信号の音。
遠くの車。
コンビニの明かり。
全部普通なのに、
湊だけが少し違う場所にいるように見える。
灯は隣を歩きながら、
何度も声をかけようとしてやめていた。
“支えたい”と思った。
でも、
どう支えればいいのか分からない。
湊はずっと前を見ている。
その横顔は静かで、
でもどこか遠かった。
やがて。
赤信号で立ち止まった時。
灯が小さく言う。
「……あの人」
湊は反応する。
「はい」
灯は少し迷ってから続ける。
「まだ、湊さんのこと好きなんですか」
空気が止まる。
信号の電子音だけが鳴っている。
湊はすぐに答えない。
灯は自分でも、
どうしてそんなことを聞いたのか分からなかった。
でも、
聞かずにいられなかった。
長い沈黙。
そして湊が言う。
「分かりません」
短い声。
でも、その“分からない”は本物だった。
灯の胸が少し痛む。
理由はまだ整理できない。
湊は続ける。
「ただ……」
少しだけ視線を落とす。
「昔の自分を見てる感じはしました」
青信号になる。
でも二人は少し動かなかった。
灯は聞く。
「昔の自分?」
湊は歩き出しながら言う。
「全部ちゃんとやろうとして」
「結局、誰も幸せにできなかった頃です」
その言葉は、
今までの湊よりずっと苦かった。
灯は初めて思う。
(この人、ずっと苦しいまま生きてたんだ)
---
部屋に戻る頃には、
夜はかなり深くなっていた。
湊は鍵を開ける。
でも――
ドアの前で止まる。
灯も気づく。
ドアノブに、
小さな封筒が挟まっていた。
白い封筒。
名前もない。
湊がゆっくり取る。
中を見る。
その瞬間。
湊の表情が変わる。
灯の胸がざわつく。
「……何ですか」
湊は答えない。
代わりに、
中の紙を折り直す。
でも灯は見えてしまった。
そこに書かれていた文字。
『次は、壊れる前に離してあげて』
空気が凍る。
灯の呼吸が止まる。
湊は何も言わない。
ただ、
その紙を強く握っていた。
灯は初めて、
怖くなる。
“過去”が来たんじゃない。
湊自身が、
壊れ始めている気がした。
---
部屋に入っても、
湊はしばらく立ったままだった。
灯はソファの前で止まる。
沈黙。
重い。
今までで一番。
やがて。
湊が小さく言う。
「……ごめんなさい」
灯が顔を上げる。
湊は続ける。
「巻き込んでますよね」
その声は、
初めて“弱っている人の声”だった。
灯の胸が強く痛む。
今までは、
湊が支える側だった。
でも今は違う。
灯はゆっくり言う。
「違います」
湊は動かない。
灯は続ける。
「私、自分でここにいるって決めました」
静かな声。
でも、逃げていない。
「だから、“巻き込まれた”じゃないです」
その言葉で、
湊の肩が少しだけ揺れる。
灯はさらに一歩近づく。
そして初めて、
真正面から言う。
「今度は、私が支えます」
沈黙。
湊は何も言えない。
その顔は、
今までで一番弱かった。
そして灯は気づく。
“帰ってきたくなる場所”って、
誰か一人が作るものじゃない。
壊れそうな人同士が、
必死に守ろうとする場所なんだと。




