「名前のない約束」
「名前のない約束」
「会うべきかもしれませんね」
その言葉が落ちたあと、
部屋の空気は少しだけ固くなった。
灯はコーヒーを持ったまま止まっている。
飲むことも、置くこともできない。
「……昔の知り合いって」
ようやく出た声は、小さかった。
湊はスマホを伏せる。
そして少しだけ考えてから言う。
「昔、一緒に暮らしていた人です」
その一言で、
灯の呼吸が一瞬だけ浅くなる。
“昔、一緒に暮らしていた人”
それは今の湊とは違う時間の話だ。
灯の知らない湊。
湊は続ける。
「急に連絡が来ました」
「話したいって」
短い説明。
でも、それ以上は言わない。
言えない距離がある。
灯はゆっくりカップを置く。
「行くんですか」
湊はすぐに答えない。
珍しい間。
それから言う。
「行った方がいい気がしてます」
その言葉に、
灯の胸が少しだけ締まる。
理由は分からない。
でも、“置いていかれる感じ”がする。
湊はその変化に気づく。
すぐに付け足す。
「灯さんを置いていくとか、そういう話ではないです」
でもその言葉は、
完全には届かない。
沈黙。
その時。
灯がぽつりと言う。
「私も行っちゃダメですか」
湊の動きが止まる。
灯は続ける。
「一緒に、じゃなくてもいいです」
「ただ……知らないままは、ちょっと嫌です」
その言葉は、
“守られる側”から少し外れていた。
湊はしばらく黙る。
そして小さく息を吐く。
「……危ないかもしれません」
灯はすぐに返す。
「今も十分、危ないです」
少しだけ笑う。
でも目は真剣だ。
湊はその顔を見て、
少しだけ視線を落とす。
(この子はもう、巻き込まれている)
(なら――)
湊はゆっくり言う。
「条件があります」
灯の目が上がる。
湊は続ける。
「無理だと思ったら、すぐ帰ること」
「僕の判断より、自分の感覚を優先すること」
灯は少しだけ頷く。
「それって……さっきの続きですね」
湊は少しだけ笑う。
「そうです」
その瞬間、
少しだけ空気が変わる。
“守る”から“同行する”へ。
その境界が動き始める。
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その夜。
二人は駅のホームに立っていた。
湊のスマホには、
一つの名前だけが表示されている。
待ち合わせ場所は、短い。
『駅前の喫茶店』
灯はコートの袖を少し握る。
「緊張しますね」
湊は静かに言う。
「普通です」
少し間。
そして続ける。
「でも、大丈夫です」
その言葉は、
いつもの“優しさ”とは少し違った。
根拠のある静けさ。
電車の音が近づく。
ホームの光が揺れる。
灯は小さく息を吸う。
そして言う。
「湊さん」
「はい」
「もし……私が邪魔だったら」
湊は即答する。
「邪魔だと思ったことはないです」
少しだけ間。
「むしろ」
「一人より、ずっといいです」
その言葉で、
灯の胸の中の揺れが少しだけ静まる。
電車が来る。
二人は同時に前を向く。
この先にいるのは、
“過去の湊”と、
まだ知らない“もう一つの関係”だった。




