「ドアの前で止まるもの」
「ドアの前で止まるもの」
夜はまだ終わっていなかった。
灯のスマホは、机の上で静かに沈黙している。
さっきのメッセージ。
『話さないなら、そっちに行く』
その一文だけが、
部屋の空気に残っていた。
灯はソファに座ったまま、
動けない。
怖いのに、
もう“逃げる反射”だけでは動かない。
その代わりに、
思考が止まらない。
(来るって、どこに?)
(ここに?)
その時だった。
コン。
軽いノック。
一度だけ。
それだけで、
灯の呼吸が止まる。
湊はすぐに立ち上がる。
でも、昨日までのような“確認の動き”じゃない。
今日は違う。
一歩が、早い。
「……出ません」
灯の声が裏から飛ぶ。
湊は一瞬だけ止まり、
振り返らずに言う。
「分かってます」
そしてドアへ向かう。
コン。
もう一度。
今度は少し強い。
湊はドアの前に立ち、
息を一つだけ整える。
そして言う。
「どちら様ですか」
外から声。
低く、はっきりとした女性の声。
「灯の母です」
その瞬間。
部屋の空気が、完全に変わった。
灯の肩が跳ねる。
「……っ」
息が詰まる。
湊は振り返らない。
ただ静かに言う。
「今日はお引き取りください」
外の声がすぐ返る。
「娘に会いに来ただけです」
「会う権利はあります」
“権利”
その言葉が、静かに刺さる。
湊は少しだけ目を細める。
そして言う。
「ここは本人の意思で決めています」
外の沈黙。
一拍。
そして声が変わる。
「あなた、誰?」
湊は少し間を置く。
ここで答えを間違えると、
すべてが壊れる。
だから短く言う。
「隣人です」
外の声が少し笑う。
冷たい笑い。
「隣人が、そこまで口出しするんですか」
湊は一歩も引かない。
「していません」
「守っているだけです」
その言葉に、
灯の胸が小さく揺れる。
守る。
さっき自分が選んだ言葉。
外の声は続く。
「その子は家の問題を抱えているだけです」
「外部の人間が介入することではありません」
湊は静かに返す。
「問題かどうかは、本人が決めます」
沈黙。
廊下の空気が重くなる。
そして――
灯の母の声が、少しだけ低くなる。
「灯」
ドア越しに呼ぶ。
「出てきなさい」
その一言で、
灯の中の何かが一気に揺れる。
過去と現在がぶつかる音。
湊は振り返る。
灯は立ち上がっていた。
でも、足が動かない。
その目が震えている。
湊は一瞬だけ迷う。
そして言う。
「灯さん」
灯が顔を上げる。
湊は静かに続ける。
「ここで決めていいです」
「出るか、出ないか」
外の声はまだ続いている。
でも今は、
この部屋の中だけが“選択の場所”だった。
灯は唇を噛む。
手が震える。
そして――
小さく息を吸う。
過去と現在の間で、
初めて自分の声を出す。
「……私は」
ドアの向こうと、
この部屋の中と、
すべてが静かに止まる。
灯の選択だけが、
残されていた。




