「線を引く声」
「線を引く声」
「……私は」
その言葉の続きが出るまでに、
灯は何度も息を吸った。
喉の奥が固まっている。
怖い。
それでも、
今ここで何も言わなければ、
また“決められる側”に戻る気がした。
ドアの向こうから声がする。
「灯、出てきなさい」
母の声。
それは命令というより、
“当然そうするはず”という確信だった。
湊は振り返らない。
ただ、灯の方を見ている。
急かさない。
でも、逃がさない。
その距離。
灯はゆっくりと一歩前に出る。
足が重い。
でも止めない。
「……私は」
もう一度。
今度は少しだけ声が出る。
「出ません」
静かだった。
一瞬、何も起きない。
廊下の空気も止まる。
その“間”が一番怖い。
そして――
外から声。
「……何を言ってるの?」
低い声。
驚きと怒りが混ざっている。
「いい加減にしなさい」
その瞬間。
灯の肩がびくっと動く。
でも。
湊が静かに言う。
「続けていいです」
その声は、支えるというより“背中を押す音”だった。
灯は小さく息を吸う。
そして言う。
「今は、ここにいます」
はっきりとは言えない。
でも、逃げる言葉でもない。
沈黙。
ドアの向こうの気配が強くなる。
「誰にそんなこと言われてるの」
母の声が変わる。
冷たさが増す。
「その男?」
その言葉で、
湊の存在が一気に“敵”として固定される。
湊は一瞬だけ目を閉じる。
そして言う。
「僕は関係を壊すつもりはありません」
「ただ、彼女の選択を止めないだけです」
外の声が笑う。
「選択?」
「そんなもの、あの子にあるわけないでしょう」
その言葉に。
灯の中で、何かが切れそうになる。
ずっと言われてきた言葉。
“あなたにはまだ決められない”
その瞬間。
灯は一歩、前に出た。
ドアに近づく。
湊が少しだけ動く。
でも止めない。
灯は震える手で、
ドアの前に立つ。
そして――
はっきりと言った。
「あります」
外の空気が止まる。
灯の声は続く。
「私は、ここにいます」
「それを決めたのは私です」
静か。
長い沈黙。
外から母の声。
「……戻りなさい」
短い。
でも強い。
その一言で、
過去が全部引っ張られる。
灯の目が揺れる。
でも――
今度は湊が一歩だけ近づく。
そして静かに言う。
「戻る必要はありません」
その声は、
初めて“対等に立つ人間の声”だった。
母の声が低くなる。
「あなた、本気で言ってるの?」
湊は答える。
「はい」
短い。
逃げない。
その瞬間。
灯の中で、
何かがはっきり形になる。
(これは、誰かに守られるだけの話じゃない)
灯はもう一度、息を吸う。
そして――
はっきりと言った。
「私は、戻りません」
今度は震えていない。
部屋の空気が変わる。
ドアの向こうが静かになる。
その沈黙は、
怒りよりも重かった。
やがて。
母の声が一言だけ残る。
「……後悔するわよ」
そして足音。
遠ざかっていく。
完全に消えるまで、
誰も動かなかった。
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静寂。
灯はその場に立ち尽くす。
初めて、自分で“線”を引いた場所。
湊は何も言わない。
ただ、その背中を見ている。
そして小さく思う。
(ここからが、本当の始まりだ)
部屋の空気はまだ揺れている。
でももう、
誰かに決められる場所ではなくなっていた。




