「増えていく現実」
「増えていく現実」
コン、コン。
ノックは、急かすものじゃなかった。
むしろ、
“確認”に近い音だった。
灯は動けない。
さっきまで少し持ち直していた呼吸が、
また浅くなる。
湊は一歩だけ前に出る。
ドアの前に立ち、
すぐには開けない。
「……どなたですか」
外から声。
少し疲れたような、低い女性の声だった。
「灯さんの大学の、学生課です」
その言葉に、
灯の目が一瞬だけ大きくなる。
湊も気づく。
(今度は“家族”じゃない)
(もっと別の層だ)
湊は振り返る。
灯は小さく震えながら、
こくりと頷いた。
「……知ってる人です」
その声は、
安心と不安が半分ずつ混ざっていた。
湊はゆっくりドアを開ける。
廊下に立っていたのは、
スーツではなく、少しカジュアルな服の女性だった。
手にはクリップボード。
表情は硬いが、
敵意はない。
「突然すみません」
女性はまずそう言った。
「朝倉灯さん、こちらにいらっしゃると伺って」
灯の名前が出た瞬間、
灯の肩がわずかに揺れる。
湊は一歩横にずれる。
「中へどうぞ」
女性は軽く会釈して入る。
部屋に入った瞬間、
一度だけ周囲を見回す。
そして灯を見つける。
「……よかった。無事なんですね」
その一言に、
灯は少しだけ目を見開く。
想定していた“追い詰める声”ではなかった。
女性は椅子に座ることもなく、
立ったまま続ける。
「ここ数日、大学側にも連絡がつかなくて」
「ご家族からも相談がありました」
その言葉で、
また“外の線”が一本つながる。
灯の表情が曇る。
女性は続ける。
「ただ、状況は理解しています」
その言葉に、
湊が少しだけ反応する。
理解している?
女性は書類を軽く叩く。
「正直に言うと、家庭内の問題については大学として介入できる範囲が限られています」
「ですが……」
一拍置く。
「学生の安全確認は別です」
その目が、灯を見る。
「今、危険な状態ではないですか?」
その問いは、
責めではなかった。
でも逃げ道もなかった。
灯は答えられない。
喉が詰まる。
湊が代わりに口を開こうとして――やめる。
これは“本人の言葉”が必要な場面だった。
沈黙。
長く感じる沈黙。
やがて灯は、小さく言う。
「……今は、大丈夫です」
その声は震えている。
でも、嘘ではなかった。
女性は少しだけ頷く。
「分かりました」
そして続ける。
「ただ、今後のことを整理する必要があります」
「ご家族との関係、生活環境、学業継続の意思」
言葉が並ぶたびに、
現実が形になっていく。
灯の目が揺れる。
「全部……話さなきゃいけないんですか」
女性は静かに言う。
「守るためには、情報が必要になります」
守る。
さっき湊が言った言葉と、
同じ単語。
でも意味は少し違う。
湊は横で聞いていた。
(これはもう、個人の問題じゃない)
(“社会の処理対象”になりかけている)
その時。
灯がぽつりと呟く。
「……私、どこにいるのが正しいんですか」
誰に向けたでもない言葉。
その瞬間。
部屋の空気が止まる。
女性も答えない。
湊もすぐには答えられない。
ただ一つだけ確かなのは、
この問いに“正解”はないということだった。
そして湊は、
ゆっくり口を開く。
「正しい場所じゃなくていいです」
灯が顔を上げる。
湊は続ける。
「今、壊れない場所を選んでください」
その言葉が、
部屋の中に落ちる。
外の現実と、
中の居場所の間で。
灯は初めて、
「選択」というものの重さを理解し始めていた。




