「選べるはずのない選択」
「選べるはずのない選択」
静けさは戻ってこなかった。
ドアが閉まっても、
さっきの言葉だけが部屋に残っている。
「ご家族優先になる場合もあります」
灯はその言葉を、
何度も頭の中で繰り返していた。
ソファに座ったまま、
動けない。
湊はすぐ隣には座らず、
少しだけ距離を置いて立っていた。
近づきすぎない。
でも離れすぎない。
その絶妙な距離が、
今の灯には必要だった。
「……湊さん」
灯がかすかに呼ぶ。
湊はすぐに答える。
「はい」
灯は唇を噛んだまま言う。
「私、やっぱり戻らないといけないんですか」
その問いは、
“確認”じゃなかった。
“諦め”に近かった。
湊は少しだけ目を伏せる。
すぐに「違います」とは言えない。
現実は簡単じゃない。
でも。
ここで折れる言葉も言いたくなかった。
湊は静かに言う。
「戻るしかない、って決まったわけじゃないです」
灯の目が揺れる。
湊は続ける。
「ただ、今のままだと向こうが強いです」
「だから、“対抗する形”を作らないといけない」
灯は理解できない顔をする。
「対抗……?」
湊は少し考えてから言う。
「一人で戻るか」
「誰かと一緒に考えるか」
灯の胸が小さく動く。
湊は続ける。
「それだけでも違います」
静かな部屋で、
その言葉だけが少し現実味を持っていた。
灯は俯く。
「でも……誰かって」
そこで止まる。
言えない。
“誰か”なんて、
今までいなかったから。
湊はその沈黙を理解していた。
だから、
ゆっくり言う。
「今は、ここにいます」
その一言は、
押しつけじゃなかった。
ただの事実だった。
灯は顔を上げる。
その目は少しだけ揺れている。
「……湊さんは、関係ないのに」
湊は首を振る。
「関係ないって決めるのは、僕じゃないです」
灯は息を飲む。
湊は続ける。
「少なくとも、今ここにいる以上は」
「関係はあります」
その言葉は、
優しいのに逃げ場がなかった。
灯は黙る。
しばらくして、
小さく笑った。
でもそれは、
悲しい笑いだった。
「変ですね」
「普通、そこまでしないです」
湊は少しだけ肩をすくめる。
「普通じゃないかもしれません」
「でも、放っておくのも違う気がしてます」
その瞬間。
灯の目に、
少しだけ涙が浮かぶ。
でも落ちない。
代わりに、
ぽつりと聞く。
「……どうしてそこまでしてくれるんですか」
湊は一瞬止まる。
すぐには答えない。
その沈黙は、
今までで一番長かった。
そして――
静かに言う。
「たぶん」
「昔、助けられなかったことがあるからです」
灯の呼吸が止まる。
湊はそれ以上は言わない。
ただ視線を落とす。
その横顔は、
いつもの“優しい人”ではなかった。
少しだけ、
傷を抱えた人の顔だった。
部屋の空気が変わる。
灯はその変化を見ていた。
初めて気づく。
湊もまた、
“ここにいる理由”を持っている人だった。
その時。
灯のスマホが、
静かに一度だけ光った。
今度は、
震えなかった。
ただ、光っただけ。
それが逆に、
不気味なほど静かだった。




