「書類の理由」
「書類の理由」
「中で話しますか?」
湊の言葉に、
スーツの男は一瞬だけ頷いた。
「助かります」
二〇四号室のドアが開く。
廊下の空気が、
そのまま部屋に入り込む。
灯はソファの端に座ったまま、
動けなかった。
管理会社の男は部屋を一度見回し、
軽く咳払いをする。
「こちら、入居者は……朝倉灯さんで間違いないですね」
灯は小さく頷く。
声は出ない。
湊が代わりに言う。
「はい。隣人です」
男は書類を開く。
「実はですね、この件なんですが」
少し間を置く。
「保証人の方から連絡がありまして」
その言葉で、
灯の表情が一瞬だけ固まる。
保証人。
その単語が、
胸の奥に刺さる。
男は淡々と続ける。
「無断での転居、連絡不通の状態が続いているため」
「状況確認と、今後の意志確認をお願いしたいと」
灯の指先が、
膝の上でぎゅっと握られる。
湊はそれを横目で見ていた。
(これは“家庭問題”だけじゃない)
“手続き”という形をした圧力。
静かで、逃げにくい種類のもの。
男は続ける。
「本来であれば、ご家族と連絡を取っていただく必要があります」
その言葉に、
灯の呼吸が少し乱れる。
湊は一歩前に出る。
「本人の意思はどう扱われますか」
男は少しだけ眉を動かす。
「もちろん重要ですが……未成年ではないにせよ」
「状況次第では、ご家族優先になる場合もあります」
その瞬間。
部屋の温度が少し下がった気がした。
灯の顔から、
血の気が引いていく。
「……戻らなきゃいけないんですか」
かすれた声だった。
男は即答しない。
現実だけを置いていくように言う。
「一度、ご家族と話し合ってください」
沈黙。
その言葉は、
“命令”ではなく“当然”の形でそこにあった。
湊は静かに息を吐く。
そして言う。
「話し合いが成立しない場合は?」
男は書類を閉じる。
「その場合は、契約上の判断になります」
その言葉で、
全てが“制度”として動いていることが分かる。
灯は俯いたまま、
何も言えない。
戻る。
それしかないのか。
逃げたはずなのに。
また、戻されるのか。
その時。
湊が静かに言った。
「少し時間をください」
男は湊を見る。
湊は続ける。
「本人の状態も含めて、今は判断が難しいです」
その声は、
さっきまでより少しだけ強かった。
でも怒ってはいない。
ただ、
守るための声だった。
男はしばらく黙り、
「分かりました」とだけ言う。
「数日以内にご連絡ください」
そう残して、
部屋を出ていく。
ドアが閉まる音。
静寂。
今度の静けさは、
昨夜より重かった。
灯はそのまま動かない。
湊はゆっくりと隣に座る。
しばらくして、
灯が小さく呟く。
「……結局」
「戻るしかないんですよね」
湊はすぐに答えない。
ただ一度だけ、
窓の外を見る。
そして言う。
「まだ、決まってません」
灯は顔を上げる。
湊は続ける。
「“戻るしかない”って言われた状態と」
「“戻らない方法を探す状態”は違います」
灯の目が揺れる。
湊は静かに言った。
「今はまだ、後者です」
その言葉が、
部屋の空気を少しだけ変えた。
ただの現実の部屋が、
少しだけ“選択の場所”に戻る。
でも。
外の世界は、
すでに動き始めていた。




