「壊れる前の選択」
「壊れる前の選択」
朝の光は、もう柔らかいだけじゃなかった。
窓の外で、
遠くの車の音が途切れ途切れに響く。
二〇四号室。
灯はコーヒーを両手で持ったまま、
スマホを見つめていた。
画面には何も映っていない。
それでも、
そこに“何かがある気がする”。
昨日の夜。
今日の朝。
少しずつ落ち着いてきたはずなのに、
逆に静けさが怖くなる瞬間があった。
「……湊さん」
灯が呼ぶ。
キッチンに立っていた湊が振り返る。
「はい」
灯は少し迷ってから言う。
「もしまた……あの人が来たら」
湊はすぐに答えない。
一拍置いてから、静かに言う。
「その時は、その時で考えましょう」
灯は小さく首を振る。
「でも、怖いです」
湊はコーヒーを注ぎながら言う。
「怖いのは普通です」
その言い方は優しいけど、
逃げ道を作らない声だった。
湊は続ける。
「ただ、“怖いから何もしない”にしない方がいいです」
灯の指が止まる。
その言葉は、
昨日までの湊より少しだけ違っていた。
優しいけど、
少しだけ現実に踏み込んでいる。
灯は湊を見る。
「湊さんって……」
「はい」
「最初より、ちょっと変わりましたね」
湊は少しだけ笑う。
「そうかもしれません」
短い沈黙。
その時だった。
コン、コン。
ドアが鳴る。
二人の空気が止まる。
灯の顔が一瞬で固まる。
湊はすぐに動く。
でも、急がない。
ただ一歩ずつドアに近づく。
「……誰ですか」
外から声。
少しだけ違う男の声だった。
「管理会社です」
湊は一瞬だけ目を細める。
灯を見る。
灯は動けないまま、湊を見ている。
湊は静かにドアを開けた。
廊下に立っていたのは、
スーツ姿の男だった。
書類を手にしている。
「こちらの部屋、少し確認したいことがありまして」
その視線が、
湊の後ろにいる灯に向く。
一瞬。
空気が変わる。
灯の肩が、また小さく揺れた。
男は続ける。
「この方について、少し連絡があったので」
その言葉で、
灯の呼吸が止まる。
湊はすぐに気づく。
(“家族”だけじゃない)
これは、
もっと“外側”の問題だ。
湊は静かに一歩前に出る。
そして言う。
「中で話しますか?」
その一言で。
この部屋の“日常”が、
初めて外の世界に本格的に侵入されていった。




