「温度のある静けさ」
「温度のある静けさ」
夜はまだ深かった。
それなのに、二〇四号室の空気は少しだけ違っていた。
完全な静けさじゃない。
誰かの気配がある静けさだった。
灯は、コップを両手で持ったまま座っている。
もう震えてはいない。
ただ、疲れが一気に押し寄せてきていた。
「……湊さん」
小さな声。
湊はすぐに振り向く。
「はい」
灯は少し迷ってから言う。
「ここ……眠ってもいいんですか」
その言葉に、湊は少しだけ瞬きをした。
一瞬の間。
それから静かに頷く。
「今日は、無理しない方がいいと思います」
灯は視線を落とす。
「でも……迷惑じゃ」
「迷惑じゃないです」
湊はすぐに言った。
その速さに、
灯は少しだけ驚く。
湊は続ける。
「ここは、そういう場所にしたいと思ってます」
灯の目が揺れる。
“そういう場所”。
その言葉が、
ゆっくり胸に落ちていく。
灯は小さく息を吐いた。
「……じゃあ、少しだけ」
その返事に、湊は頷く。
布団は一つしかない。
湊はそれに気づいてから、
すぐに毛布をもう一枚探した。
「これ使ってください」
灯はそれを受け取る。
「湊さんは?」
「大丈夫です。ソファで寝ます」
灯は少しだけ黙ってから、
「……ちゃんと寝てくださいね」
と言った。
その言い方が少しだけ優しくて、
湊は小さく笑う。
「それ、よく言われます」
電気を落とすと、
部屋は一気に暗くなる。
でも、怖くはなかった。
むしろ、
少しだけ安心する暗さだった。
灯は布団の中に入る。
天井を見つめる。
隣の部屋に人がいる。
それだけで、
こんなにも違うものなのかと思う。
湊はソファに腰を下ろし、
静かに天井を見る。
どちらもまだ眠っていない。
でも、言葉はもういらなかった。
しばらくして。
灯がぽつりと呟く。
「……湊さん」
「はい」
「私、ここにいても……ほんとにいいんですか」
暗闇の中での声。
不安がまだ完全には消えていない。
湊は少しだけ間を置いてから言う。
「“いいかどうか”を誰かに決められる場所じゃないと思います」
灯は黙る。
湊は続ける。
「ここは、選んで残る場所です」
少しの沈黙。
灯は小さく息を吸う。
そして、静かに言った。
「……じゃあ」
「私は、今はここにいます」
その言葉は、
逃げでもなく、恐怖でもなく。
ほんの少しだけ前に進んだ選択だった。
湊はそれを聞いて、
何も言わずに頷いた。
夜はそのまま流れていく。
時計の音だけが、
静かに部屋を刻んでいた。
やがて。
湊はふと目を閉じながら思う。
(この静けさは、まだ壊れる可能性がある)
(でも――)
ソファ越しに、
小さな寝息が聞こえ始める。
灯は、眠りかけていた。
その音を聞きながら、湊は思う。
(それでも今は、守れる気がする)
外の世界はまだ不安定で。
ドアの外には、過去も現実も残っている。
それでもこの部屋だけは、
ほんの少しだけ“帰ってきたくなる場所”に近づいていた。




