「崩れない場所」
「崩れない場所」
廊下は、静かすぎるほど静かだった。
男の足音が完全に消えたあとも、
しばらく誰も動けなかった。
灯はしゃがんだまま、
自分の手を見つめている。
震えはまだ残っている。
でも、さっきとは違う震えだった。
恐怖だけじゃない。
「終わったかもしれない」という実感が、
ゆっくりと身体に降りてきている。
湊は少し距離を取って立っていた。
近づかない。
でも、離れない。
その“間”が今は必要だと分かっていた。
「……灯さん」
静かに呼ぶ。
灯は顔を上げる。
湊は短く言う。
「部屋、戻りましょうか」
灯は小さく頷いた。
二〇四号室。
ドアを閉めると、
外の世界の音が一気に遠のく。
カチ、と鍵の音。
その音がやけに現実的だった。
灯は床に座り込む。
もう涙は出ない。
代わりに、
全身の力が抜けていく。
湊はキッチンに行き、
水を一杯だけ用意する。
「飲めますか」
灯は受け取って、
ゆっくりと口をつける。
その間、
部屋には何も起きない。
ただの“静けさ”。
少し前まで、
その静けさは怖かった。
でも今は違う。
灯は小さく息を吐く。
「……終わったんですよね」
湊はすぐには答えない。
正直に言えば、
“完全に終わった”とは言えない。
でもそれを今言う必要はない。
湊は静かに言う。
「今日は、終わりました」
灯はその言葉に、
少しだけ肩の力を抜いた。
しばらく沈黙。
やがて灯がぽつりと言う。
「湊さんって……」
「はい」
「ずっと、そこにいるんですね」
湊は少しだけ笑う。
「逃げ足が遅いだけかもしれません」
灯は初めて、
少しだけ笑った。
小さくて、かすれた笑い。
でも確かに笑っていた。
その瞬間。
灯のスマホが、
また机の上で光る。
ブブッ。
二人の視線が同時に向く。
画面には何も表示されない。
ただの通知。
でも――
灯の顔が少しだけこわばる。
「……また」
湊はスマホを見たまま言う。
「今は見なくていいです」
灯は迷う。
でも今回は、
すぐには手を伸ばさなかった。
その代わり。
小さく聞く。
「これ……いつ終わるんですか」
湊は少しだけ黙る。
そして、正直に言う。
「分かりません」
灯の目が揺れる。
湊は続ける。
「でも」
「今みたいに“ここにいられる時間”は、少しずつ増やせると思います」
灯はゆっくりと視線を落とす。
“戻る場所”と“逃げる場所”の間に、
まだ揺れている。
その時だった。
灯がふと呟く。
「……ここって」
「帰ってきてもいい場所なんですか」
湊はすぐに答えない。
少しだけ考える。
そして――
静かに言った。
「まだ途中です」
「でも、そうなっていく途中にはいると思います」
灯はその言葉を、
ゆっくり噛みしめるように聞いていた。
外はもう深夜だった。
それでもこの部屋だけは、
少しずつ“帰る場所”の形を作り始めている。
そして湊は、
小さく思う。
(この場所が完成する前に、壊れる可能性もある)
(それでも――)
視線を上げると、
そこにはまだ灯がいた。
壊れそうで、
でも消えない存在。
その夜。
二人の間にある“静けさ”は、
初めて少しだけ温度を持ち始めていた。




