「境界線」
「境界線」
廊下の光は、やけに白かった。
ドアの前に立つ男は、
湊をじっと見ている。
その視線は、
探るというより“値踏み”に近い。
「隣の部屋?」
男は鼻で笑うように言った。
「なんでお前がここにいる」
湊は視線を逸らさないまま答える。
「たまたま、です」
短い言葉。
余計な説明はしない。
そのやり取りの後ろで、
灯は一歩も動けずに立っていた。
呼吸だけが、少しずつ速くなる。
男は灯に目を向ける。
「灯。出てこい」
その声に、
灯の肩がびくっと揺れる。
湊は一歩だけ前に出る。
大きくはない動き。
でも、
“ここから先には入れない”という意思だけははっきりしていた。
男の視線が湊に戻る。
「邪魔するな」
低い声。
湊は静かに返す。
「邪魔してるつもりはありません」
「ただ、彼女が今ここにいることを知っています」
男の眉がぴくりと動く。
「関係ないだろ」
その言葉に、
湊は一瞬だけ黙る。
そして言う。
「関係ないかどうかは、彼女が決めることだと思います」
廊下の空気が、
少しだけ硬くなる。
灯の方から、小さな声。
「……湊さん」
震えている。
でも、後ろには引いていない。
男はため息をつく。
「勝手なことばかり言いやがって」
一歩踏み出そうとする。
その瞬間。
湊は声を少しだけ強めた。
「それ以上は、入れません」
短い一言。
初めて、
はっきりした“壁”だった。
男の動きが止まる。
沈黙。
廊下の蛍光灯の音だけが、
かすかに鳴っている。
数秒後。
男は舌打ちをして、
灯に目を向ける。
「逃げてるだけだろ」
その言葉に、
灯の目が揺れる。
でも。
今回は、
その場から崩れなかった。
湊が、横にいるからだった。
男はしばらく黙ったあと、
低く言う。
「好きにしろ」
そして踵を返す。
足音が遠ざかる。
階段を降りていく音。
やがて、
完全に消える。
静寂。
廊下に残るのは、
灯と湊だけだった。
灯はその場に立ったまま、
ゆっくりと息を吐く。
「……終わった、んですか」
湊は少しだけ頷く。
「たぶん、今日は」
その言い方に、
完全な安心はない。
でも“今は終わった”という現実だけがある。
灯はその場にしゃがみ込みそうになる。
湊はすぐに支えようとするが、
触れる直前で止める。
代わりに、
静かに言う。
「ここにいます」
灯は小さく頷いた。
しばらくして。
灯はかすれた声で言う。
「……湊さん」
「はい」
「私……今まで、逃げてるだけだと思ってました」
湊は何も言わない。
灯は続ける。
「でも今日……ちょっとだけ違った気がします」
湊はゆっくりと灯を見る。
灯はまだ震えている。
それでも。
目だけは、さっきより少しだけ前を向いていた。
灯は小さく息を吸って、
「ここにいていいって言われたの、初めてだったかもしれません」
そう言った。
その言葉を聞いて。
湊は静かに思う。
(この場所は、まだ“帰る場所”になりきれていない)
(でも――)
(少しずつ、そうなっていくのかもしれない)
夜はまだ終わらない。
けれど、
二人の間にある“線”は、
少しだけ形を変え始めていた。




