第3話 夢を語る女
里帆の言葉によって、少しずつ変わり始めた一年生投手・芽衣。
負けることに慣れていた女子ソフトボール部にも、勝ちたいという空気が芽生え始めます。
けれど大会を前に、里帆の過去を知る人物が現れます。
かつて里帆とバッテリーを組んでいた元チームメイト、神崎美羽。
止まっていたはずの過去が、もう一度グラウンドに戻ってきます。
そのとき、グラウンドの入口の方が騒がしくなった。
部員たちの声が止まる。
里帆が振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。
白いブラウスに、淡い色のジャケット。きれいに巻かれた髪。整った化粧。スポーツ選手だった頃よりも、ずっと洗練されている。
神崎美羽だった。
里帆の身体から、音が消えた。
遠くで鳴っていたはずのボールの音も、部員たちの声も、風の音も、一瞬で遠ざかった。
美羽はこちらに気づくと、驚いたように目を丸くし、それから懐かしそうに笑った。
「里帆?」
その声は、昔と同じだった。
明るくて、柔らかくて、人を安心させる声。
里帆は動けなかった。
美羽はゆっくり近づいてきた。
「久しぶり。まさか、こんなところで会うなんて」
こんなところ。
その言葉が、胸に刺さった。
「……どうしてここに」
里帆が聞くと、美羽はにこりと笑った。
「今度の大会、私、ゲストで呼ばれてるの。地元のスポーツ振興イベントも兼ねてるから。今日は挨拶に来ただけ」
美羽の視線が、芽衣たちに向かう。
「へえ。里帆、コーチみたいなことしてるんだ」
「手伝ってるだけ」
「そうなんだ」
美羽は少しだけ首を傾げた。
「まだ、ソフトに関わってたんだね」
その言い方に、里帆の指先が冷えた。
まだ。
その一言に、すべてが含まれている気がした。
まだ諦めてないの。
まだしがみついてるの。
まだ過去を引きずってるの。
美羽は悪意のない顔をしていた。少なくとも、周囲からはそう見える顔だった。
「よかった。里帆が元気そうで」
里帆は答えなかった。
美羽はさらに言った。
「私、講演でいつも話すんだ。夢って、諦めなければ形を変えて残るって。里帆にも聞いてほしいな」
その瞬間、里帆の中で何かが軋んだ。
夢を形を変えて残したのは、あなたじゃない。
あなたは、私の夢が壊れる音を聞いていた。
聞こえないふりをした。
言いたかった。
でも、芽衣たちが見ている。
部員たちが、不安そうにこちらを見ている。
里帆は拳を握った。
「忙しいから」
それだけ言った。
美羽の笑顔が、一瞬だけ固まった。
けれどすぐに戻る。
「そっか。大会で会えるといいね」
美羽はそう言って去っていった。
後ろ姿まで、きれいだった。
里帆はその場に立ち尽くした。
すると、隣に蒼真が来た。
「知り合いか」
「元チームメイトです」
「仲良かったのか」
里帆は少し笑った。
「バッテリーでした」
蒼真は黙った。
その沈黙だけで、何かを察したようだった。
里帆は空を見上げた。
西陽が眩しかった。
スタジアムではない。古い高校のグラウンドだ。
それでも、あの日と同じ色をしていた。
大会前日、事件は起きた。
SNSで、一つの投稿が広がった。
元実業団選手が、過去の恨みで高校生を利用?
かつてチームを離脱した選手が、現役時代のトラブルを逆恨みか。
名前こそ伏せられていたが、里帆のことだと分かる内容だった。
東都フェニックスに所属していたこと。肩の故障で退団したこと。現在、地元高校のソフトボール部に関わっていること。
そして、投稿にはこう書かれていた。
本人はチームに居場所がなくなったことを周囲のせいにしているが、当時は練習態度にも問題があったという証言がある。
里帆はスマホの画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
練習態度に問題。
自己管理不足。
昔と同じだ。
また、同じ言葉で消される。
店の休憩室で一人、里帆はスマホを握りしめていた。
指が震える。
画面には、知らない人たちの言葉が並んでいる。
高校生を巻き込むな。
大人げない。
夢を諦めた人の嫉妬って怖い。
元アスリートの闇。
誰も、里帆のことなど知らない。
あの日の痛みも、ブルペンの空気も、監督の言葉も、美羽の沈黙も知らない。
知らないのに、簡単に言葉を投げてくる。
里帆はスマホを伏せた。
もう行かない方がいい。
自分が関われば、芽衣たちまで傷つく。
大会前日に、余計な不安を与えたくない。
ここで離れるのが、大人の判断だ。
そう思った。
そう思おうとした。
そのとき、スマホが震えた。
蒼真からだった。
『グラウンドに来い』
短いメッセージ。
里帆は返さなかった。
すぐにまた震えた。
『逃げるなら、選手に自分で言え』
ひどい人だ。
里帆は思った。
どうして、逃げ道を塞ぐのだろう。
でも、その言葉に腹が立ったからこそ、里帆は立ち上がった。
読んでくださりありがとうございます。
第3話では、里帆の前に神崎美羽が現れました。
夢を語る側に立つ美羽と、夢を奪われたまま立ち止まっていた里帆。
さらに、里帆の過去をえぐるような悪意ある噂まで広がり始めます。
次話では、逃げようとする里帆に、芽衣たち女子ソフトボール部の部員たちが真正面から向き合います。
「謝らないでください」
その言葉が、里帆をもう一度グラウンドへ立たせます。




